「専務、二条専務……功さん」
後ろから呼ばれているのに気が付き、功は足を止めて振り返った。淳也が眉根を寄せてこちらを見ている。問い返すように首を上げると、溜息を吐かれた。
「今日はボンヤリされることが多いですね。秘書課にスケジュールを更に詰めるようにとの指示が来てましたが、本気ですか? ただでさえ忙しいものを、わざわざもっと忙しくするなんて」
「ちゃんとこなしてるだろ? 何か問題があるか?」
「ありませんけど……功さん、さっきの俺の話、聞いてましたか?」
「さっき?」
「ええ、さっきです」
「……」
「やっぱりですか」
淳也は、もう一度わざとらしく溜息を吐きだした。
「今日の会議は中止になりました。スケジュールにも反映済みです。ところで今、どこへ向かおうとされてましたか?」
どこか呆れた口調でそう口にしながら、笑みも浮かべず功を見ている。
「……会議室」
「一人でどんな会議をするつもりですか」
「嫌味だな。悪かった、ちゃんと聞いてなくて」
「まあ、それはいいんです。社内会議ですし大した問題ではありません。ですが……流石に疲れてるんじゃないですか、本当に大丈夫なんですか? スケジュールは今でも殆どぎっしりですし」
本当に心配そうに眉根を寄せる淳也に、笑みを向けた。
「大丈夫だ。心配させて悪い。俺のスケジュール変更で、淳也にも迷惑をかけることになるのはすまないと思ってる。そうか……会議、なくなったのか。なら、少しだけ時間を貰えるか」
大丈夫だと頷いた淳也は十分程度なら、と付け加えるのも忘れなかった。重役付きの秘書である淳也は、今は功だけの秘書ではない。功を含めた数名の重役達を何人かのチームで担当していた。
功は、空いてる会議室を確認するとドアを開け、淳也を先に通した。部屋に入り鍵を閉めると、振り向いた淳也が、少し怪訝な表情を浮かべる。
ドアに凭れ掛かった功は、その目を見つめながら、口を開いた。
「芙美夏に、会った」
「えっ」
想像通りのリアクションで、淳也は功に詰め寄るように近付いた。
「ほんとですか? いつ、どこで? みいは、元気なんですか? あいつ、どこにいたんです? 何で功さんは……もしかして、知ってて俺に黙ってたんですか?」
一通りの疑問を口にし、息を吐くのを待って、功は淳也に椅子に座るよう勧めた。
「偶然だ。俺だって、息が止まりそうなくらい驚いた」
功は、興奮状態の淳也に、昨日の出来事を掻い摘んで説明した。
「予定通り戻っていたら会えなかった。恐らく、父と香川が、俺がいない日を選んで芙美夏を呼んだに違いない」
「あの二人がですか、いったい……どういうつもりなんでしょうか。いつからみいと連絡を、っていうか、最初からみいの居場所を知ってたんでしょうか?」
「芙美夏は、香川が二、三日前に突然訪ねて来たと言ってた。嘘ではなさそうだったよ。昨日空港から戻ってみたら、香川が俺を待ち構えていた。車に荷物だけを乗せて先に帰したから、どうも運転手から話を聞いて、俺が芙美夏と会った可能性が高いと踏んだんだろう。流石お前の父親だよ。想定外の事だった筈なのに、顔色ひとつ変えなかった」
淳也が苦笑いを浮かべた。
「問い詰めるまでもなく、全く悪びれもせずに話してくれたよ。父の指示で、四年以上は前から、芙美夏の居場所を突き止めていたらしい。今回はどうしても父が会いたいと、呼び戻したみたいだ。病室で父と芙美夏がどんな話をしたのかは、香川もよくは知らないと言っていた。ただ、芙美夏は酷く泣いた顔をしてた。それにしても、あの二人は多分、本気で俺には隠しておくつもりだったんだろうな」
「どうして、そんなこと」
「自分で探したことにならないからじゃないか? そういう事を考えそうだろ、あの人達なら」
うんざりしたようにそう言うと、淳也も強く頷いた。
「みい……北海道にいたんですね。母親のことを知ったんでしょうか」
「調べたか、聞いたかして知ったんだろう。偶然にしては出来すぎだ。康人辺りがそれ位は教えたのかもしれないな」
「康人に聞いてみますか?」
「いや、今更わざわざ確かめることもない。あいつも今システム変更でかなり忙しいはずだ。それに、芙美夏に聞けばわかることだ」
「みいの連絡先は、わかってるんですか?」
「いや……香川もそこまでは教えなかった。名前や仕事がわかったんだ、自分で調べることもできる。ただ芙美夏には……俺の連絡先は渡しておいた」
「連絡、してきますかね?」
曖昧な、笑みを浮かべた。
「俺も、みいに会いたいです。藍のことも話してあげたい。きっとみいは、俺たちを傷つけたと思って、ずっと苦しんでいます」
「そうだな……」
「……功さん。本当に、みいが一人じゃなかったら、みいを諦めるんですか? 諦め……られるんですか?」
躊躇いながら、そう口にした淳也の視線を感じながら、功は昨日会った芙美夏のことを思い出していた。この五年間、一度も気持ちが揺れたことがないと言えば、嘘になる。わずかな時間で探し出すことなど出来ないのではないか。二度と会えないのではないかと、上手くいかない捜索に心が折れそうになったこともある。
だが、どうしても諦めることが出来なかった。
あれだけ探しても見つからなかった彼女との再会は、ただの偶然だった。
いや――はたして偶然だったのだろうか。功には、それは必然だったのだと思えた。そう思いたかった。
昨日の事を思い出すと、それだけで絞られるような痛みが胸を疼かせる。彼女の望みが己のそれとは違った時、自分は何を失うのだろうか。それを考えると、堪らなく怖かった。
淳也と目を合わさずに、首だけを少し動かした。
「わからない。淳也。俺にも、わからないんだ。いや、わかってるから考えたくないのかもしれない」
あの頃。芙美夏を諦めなければならないと言い聞かせて日本を離れた時。
自分が、空っぽになった気がした。痛みも、喜びも、悲しみも、なにも感じない。ただずっと何かに、怒りだけを感じていた。怒りと虚しさと、そして――早く生きてこの人生を早く終わらせたいと、そんな事ばかりを考えていた。ずっと眠らなければ、終わりが早く来るような気がしていた。
長く時が経てば、いつかは、そんな思いから抜け出すことが出来たんだろうか。そうなった時、自分は果たして本当に抜け出したいと思ったのだろうか。
「……情けないな。たかが人ひとり、そばにいないだけのことで」
功を見つめた淳也が、首を横に振った。
「情けなくなんてありません。それに……たかがひとりじゃなく、功さんにとってみいは、ただひとりの人です。俺は、みいが二条に引き取られたのは運命だと思ってます。功さんとみいが出会ったのは、きっと運命です。ずっと見てきた俺にはわかります」
強く言い聞かせるような淳也の言葉に、功は、少しだけ自分の気持ちが軽くなった気がした。