飛行機が空港に着陸すると、他に優先される座席の関係で、殆ど待たされることなくすぐに機内から出ることができた。
身体も頭も重い。早く家に帰って眠りたい。そう思いながら芙美夏が到着ロビーに出ると、出迎えの人の中に見知った顔があった。
「お帰り、芙美ちゃん」
こちらに走り寄り荷物を手に取ろうとするその人を、驚いて見つめた。
「どうして……」
「浅井さんに聞いたんだ。東京に知り合いの見舞いに行ってるって」
言いながら、彼は荷物を手に取ってしまった。
「けど、私帰る時間までは言ってませんでした。いったいいつから」
「ん、夕飯食べたりしてたから、そんなに待ってないよ。気にしないで、車だからあっち行こうか」
そう、背を向けて歩き出したその人を追いかけた。
「待って下さい、大竹さん」
「何?」
足を止めて振り向いたその顔は、少し怒っているようにも見えた。
「芙美ちゃん、君は本当に何も言ってくれないんだね。僕はそんなに信用出来ないかな」
大竹の前で足を止めた芙美夏は、真っ直ぐに顔を上げられなかった。
「ごめんなさい」
そんな言葉しか出てこない。頭上から、小さな溜息が聞こえた。
「もういいよ。こっちはそれを承知の上なんだから」
どこか苦笑交じりにそう口にした大竹が、芙美夏の手を掴んだ。その途端、心が騒つく。その手にはまだ、功に掴まれた時の感触が残っている気がして、嫌だと、一瞬はっきりとそう感じてしまった。
「大竹さん」
咄嗟に手を引くことだけは、辛うじて堪えた。だが、やんわりと離そうとした手は、より一層強い力で握り締められた。無言のまま手を引かれ大竹の車まで歩き、助手席に乗り込む。
「そんなに困ったような顔しないで」
大竹がポツリと呟くのを聞いて、罪悪感ばかりが募ってゆく。
「大竹さん……私、やっぱり」
「取り消しは、なしだよ。君が僕を見れるようになるまで待つって言ったのはこっちだ。君がようやく頷いてくれたんだ。今更取り消すなんて言われても聞く気はないよ。それに……この間の事は……僕が、急ぎすぎたんだ」
言葉を封じられて、芙美夏は口を噤んだ。身も心も疲れ切っていて、いつもより頭がぼんやりとしている。返す言葉も何も浮かばなかった。
今日は、本当に早く一人になりたい。
窓の外を眺めながら、大竹に気付かれないように小さく息を吐く。
大竹は、芙美夏が大学で所属していたサークルの二つ上の部長だった。面倒見の良い、皆に慕われている大竹が、芙美夏に自分の気持ちを打ち明けたのは、彼が大学を卒業する直前だった。
他の後輩に対しても何かと世話をやいていた大竹だったから、自分が特別に扱われていた意識は芙美夏にはなかった。けれど周りの友人から、何かと裏でも芙美夏が溶け込みやすいように気を配ってくれていたと聞き、気が付いていないのは当の本人だけだと笑われた。
二条の家を出て自分で生きてみようと思った時、芙美夏は、同時に功を忘れる努力をしなければならないと思った。だから大学生になって、何度か声をかけてきた同級生や先輩と付き合ってみたことはある。そんな風にして誰かを受け入れれば、きっと、自然と功とのことを過去にできる――と。
そうでもしなければ、心が功にとらわれたまま、いつまでも前にも後ろにも進めず身動きが取れなくなってしまうとわかっていたからだ。
けれど、それが安易な考えだったと気が付くまでに、それ程時間は掛からなかった。結局誰とも、恋人だとまともに言える関係性を築くことはできず、長続きはしなかった。
功でない人と、何度かキスをした。嫌悪感と罪悪感しか残らないキス、それだけで、そのことが自分を一層苦しめた。それ以上を求められても拒み、関係が進むことがないまま、結局は付き合いが途絶える。途絶えた後にも後ろめたさ以外何も残らない、そんな付き合いだった。
心が動かない人と無理矢理付き合ったところで、自分のエゴで相手を傷つけるだけだと、思い知った。
そうして、芙美夏は功を忘れるために誰かを利用するのはやめた。月日が経てば、きっと少し胸が痛むだけの思い出に変わってくれる。きっといつかは忘れられると、何度も自分に言い聞かせてきた。
それ以来、誰の誘いも断ってきた。大竹も、断った中の一人だった。
軽く声を掛けてきて、こちらにその気がなければすぐに引き下がる、そういうタイプの人も結構いたが、大竹は芙美夏を本気で好きなのだとぶつかって来た。断っても、芙美夏が一人の間は、諦めるつもりはないと言われた。勝手に想っているだけだから、無理矢理迫ったりもしないから、好きでいさせて欲しいとまで言われた。
そのつもりはないと何度か言ってはみたが、彼は諦めなかった。だからといって、普段の態度は他の人たちに対するものとほとんど変わらなかった。不快な気分にさせるほど気持ちを押し付ける事もなく、態度だけを見ていれば、もうそういう対象では見ていないのではないか、と思うほど、自然に振舞ってくれていた。
サークル外でボランティアに行っていた今の施設を紹介してくれたのも、大竹だった。彼は今、同じ職場の先輩でもある。確かに芙美夏は、そんな大竹に少しずつ打ち解けるようになっていた。
二条の家を離れ、大学に入ってからは何人かの友人もできた。だが、自分の生い立ちの殆どを人に話すことのできない芙美夏には、心からの友達を作るのは難しかった。そんな芙美夏が無意識に人に対して作ってしまう壁を、根気よく叩き続けてくれたのも大竹だった。
そうして、芙美夏の就職が決まり落ち着いたころ、改めて自分との事を考えてみてくれないか――と言われた。
もう大丈夫だろうかと、何度も迷った。誰かとちゃんとつき合うことを考えるのに、働き始める今がいいタイミングなのではないかと考えた。
功は――もう他の人のものなのだ。
どんなに想っていても、この想いには行き場がない。もう本当に、忘れなければならない。そう思いながら、なかなか返事ができずにいた芙美夏に、大竹は前向きに考えられる可能性が少しでもあるのなら、気持ちが定まるまで待っているから、ゆっくり付き合ってもらえないかと告げた。
そして芙美夏は、それに頷いた。
時間をかけて、芙美夏との距離を縮めようとしてくれていた大竹に、夏の終わり旅行に誘われた。それまで大竹とは、キスをした事はあった。本当はそのキスでさえ、どこか身体が強張ったまま、何とか受け入れていた。
いっそのこと身体を繋いでしまえば――。そうすれば、楽になれるのかもしれない。そう思い始めていた芙美夏はその誘いを受け入れた。
だが結局二人きりで初めて迎えた夜、芙美夏の身体は、大竹を受け入れることが出来なかった。心が、それを拒絶した。
大竹は、自分が急ぎすぎたからだと何度も謝ってくれたが、そうではなかった。大竹の問題ではないのは明らかだった。申し訳なさに、どうしようもない自分自身を嘲ることしか出来なかった。
結局は、また同じ過ちを繰り返してしまったのだ。何も変わっていない。
いつまでこの心は功に捕われたままなのだろうかと、どこかで恨みがましく思いながら、もう不毛でも、ずっと捕らわれたままでも構わないとさえ思う自分もいた。
やはりこのまま一緒にいることは出来ないと、大竹にちゃんと話さなければならない。そう思いながら、話す機会を逸したまま、功に再会してしまった。
二度と会うことは叶わない、望むことはできないと思っていた人に、こんなにも簡単に、突然再会することになるなど、芙美夏は想像すらしていなかった。
ずっと独りでいたと。芙美夏を探していたとまっすぐに想いをぶつけられて、戸惑いながらも、確かに気持ちが揺れた。病室で聞かされた永や由梨江の思いにも、激しく心が掻き乱された。
「今日の芙美ちゃん、何だか、いつもよりも凄く遠い人に見えた。誰かの見舞いに行ってたんだろ? 行った先で、何かあった?」
しばらく静かだった車内で、大竹にそう声を掛けられ、我に返った。
「いえ……。思ったよりも、お見舞いに伺った方の病状が重かったんです。だから、ちょっと堪えてしまって」
「そうだったんだ……。それは辛かったね」
芙美夏は頷くと、また顔を窓の方に向けた。ガラスに凭れ掛かるようにして、車窓を流れる都会とは違う明りの数をボンヤリと数えながら、功に掴まれた手を、無意識に唇に当てる。
連絡が欲しいと言った功に、気がつけばわかったと返事をしていた。連絡をして功と会って、平気でいられるはずがないことは分かっているのに。
溜息を落とし、目を閉じる。そんな芙美夏を、大竹が見ていたことには気がついていなかった。
今夜は札幌でホテルに泊まり、明日の始発で戻ろうと考えていたが、大竹が迎えに来てくれたお陰でその日のうちに家に戻ってくることが出来た。明日の朝から出勤予定の芙美夏にとって、正直なところ、家で休めることはありがたかった。
アパートの前に車を止めて貰い、そのことについての礼を言ってからシートベルトを外す。大竹が同じようにシートベルトを外す気配を感じ、荷物を運ぼうとしてくれるのだろうと、大丈夫だと言おうと顔を振り向けた時には、もう彼の腕の中に捕われていた。
「大竹さんっ、待って」
胸の前で折りたたまれた腕で、大竹を押しやろうとするが、ほとんど効果がなかった。
「お願い。離して」
不意に大竹の身体が離れた。ホッとした一瞬の後、唇に生暖かい感触が触れた。
「い……やっ」
思い切り突き飛ばすと、押された大竹の肘が車のクラクションに当たり、静かな夜の中にその音が響いた。芙美夏は、ロックを外しドアを開けて車から出ようとした。
「僕たち、付き合ってるんだよな。君は、僕の彼女になったはずだ。それとも、他に、誰かいるのか?」
背中越しに掛けられた声に振り返る。苦しそうな目をしてこちらを見ている大竹がいた。
「向こうで、東京で誰かに会ってたのか? そいつの見舞いに行ってたのか?」
「ちが……」
震える唇で違うと答えかけて、言葉を飲み込んだ。誰かに会っていたのか――という問いかけに、空港で再会した功の事が頭を過る。
「君のそんな顔、初めて見た。そんな顔をさせる奴が、いるんだろ?」
芙美夏は、否定することも出来ず視線を逸らしてしまった。意図した訳ではなくても、功と顔を合わせたのは事実なのだ。
「わかってた。君には忘れられない人がいるんだって。忘れようとして、出来ないんだって。それでいいと思ってた。忘れられるまで待っていようって。五年待った。だから、芙美ちゃん。今更、君をその間ずっと独りにしていた奴に、簡単に渡すわけにはいかない」
微かに、首を横に振った。
「……違います」
「何が違う」
「私が……逃げたんです。黙って、逃げ出したんです」
「逃げたって、どういうこと? 逃げたくなるようなひどい奴なのか?」
「違う」
「芙美ちゃん」
「ごめんなさい。今日は……本当に疲れてるんです。送って貰っておきながら、すみません。でも……もう」
静かに息を吐き出す音が聞こえて、大竹の強い視線が、芙美夏へと向けられた。
「わかった。今日のところは帰るよ。けど、僕は引き下がるつもりはないから」
そう告げた大竹は、運転席から降りて荷物を車から取り出し、芙美夏に手渡した。
「……僕も……苦しいよ」
顔を上げて見つめた芙美夏に、大竹は苦笑いを見せると、運転席に乗り込み車をスタートさせた。
ライトが見えなくなるまで、そこに佇んでいた芙美夏は、重い身体を引き摺るようにアパートの階段を上がり部屋の鍵を開けた。
床に荷物を下ろすと、洗面所に向かい手を洗う。無意識のうちに、何度も唇を擦っていた。大竹への罪の意識を確かに覚えているのに、自分勝手な心の中は、今日再会した功のことで溢れている。
――もう五年も経つのに、ずっと、俺の中では過去には出来ないんだ
功に会ってしまったことで、開いてしまった自分の心が、嫌でも知らしめるのだ。
芙美夏の中にも、まだこんなにも生々しく、功が息づいているのだと。