気がつけば、声を上げて泣いていた。
ベッドに伏せ、手紙を胸に握り締めるようにして身体を震わせている芙美夏の頭を、永の手が何度も撫でていく。
もう、身体中の水分も空気もなくなってしまうのではないかと思う程、涙が、後から後から零れて止まらなかった。
悲しみや苦しみという言葉に置き換えられない程の、皆が抱えている思いの重さに、言葉にならない感情が溢れ、涙になって零れてゆく。
ようやく、少しずつ落ち着きを取り戻して息を整えようとするが、なかなか出来ずに、何度もしゃくり上げた。
「こんな風に、辛く重い話を、一度に聞かせて、君をまた苦しめてしまったね。だが、今で無ければ、私には時間がない。私がこんな状態であることも、そう長くは隠し切れない。そして私の先が長くない以上、功が、もうすぐ当主の座につく事になる。そうなれば、功はいつまでも独りでいるわけにはいかなくなる。次々と申し入れがある縁談を、今のように断り続けることも無理になるだろう。今度はもう、前のように簡単にはいかない」
言葉の意味がすぐには理解できずに、戸惑いも動揺も隠せないまま、永の顔を見つめる。
「縁談……って……独りでいるって」
芙美夏の顔を見つめ返しながら、数度瞬きを繰り返した永は、何かを思い出したように口を開いた。
「そうか……君は知らなかったのか」
「……え?」
「功は、今でも独り身だよ。婚約も結婚もしていない」
目を見開きながら、ひどく困惑していた。
「どう……して」
苦笑いを浮かべた永は、狼狽える芙美夏を、穏やかな眼差しで見つめた。
「肝心なことを伝えていなかったな。あの日、君が出て行った日は、功の結納の日だったね。あの日の朝、功は私に、婚約の話を白紙にすると言って来た。いくらでも時間はあったのに、功の決断は遅すぎた。私は認めないと言ったが、一人で向こうに断りの話を入れに行ってしまった。君でなければ駄目だと、そう私に言った」
永は笑っているが、芙美夏の頭は、まだその話についていくことができない。
「この話にはオチがあった。実は相手の女性にも、他に思う人がいてね、当人同士は殆ど何のわだかまりも無く勝手にこの話を無かったことにしてしまった。……昔では、とても考えられないが、今はもうそういうことが許される時代になってきたんだな」
あの日、功が芙美夏に愛していると告げた時、功の中にそんな決意があったことを芙美夏は知らなかった。いや、知っていたら、決してあんなことにはならなかった。功の、二条の当主としての将来を、自分の存在が妨げるようなことは決して望んではいなかったのだ。
もう、功は新しい家庭を築いているのだと思っていた芙美夏の頭の中は、未だ混乱したままだった。
「私の……せいですね」
俯く芙美夏に、永の声は優しかった。
「私はね、あの頃功に、君を功の相手としては認められないと告げた。だがそれは、君のためでもあった。由梨江の話でも、内情を間近で見てきたことでも、この家に入るのがどれだけ大変かは君にもわかるだろう。君がそんなものを望んでいないこともわかっていた。この家に縛り付けてしまうことが、君の幸せだとはどうしても思えなかった。
そして、あの頃の功には、君しか見えていなかった。冷静さを失い、君のために自分を犠牲にすることが君を守ることだと考えて、私の出した条件を全て受け入れた。
それでは駄目なんだ。本気で望むのであれば、自分の気持ちを通した上で、君を守るくらいの強さと、ある意味冷静な判断力が必要だ。
あの時、もしも私が功を止めていなければ、早晩君を追い詰めて、君も功も駄目になってしまう気がした。
この家は普通ではない。この家に取り付いた見えない闇に、私や由梨江のように、取り込まれてしまうようではまた不幸になる、いや犠牲を払う人間が増えるだけのことだ。生半可な覚悟では、すぐに、潰されてしまう。それに……」
いつしか顔を上げて話を聞いていた芙美夏に、永は少し照れたような、そして、気遣うような微笑みを見せた。
「責任を全う出来ないようなそんな男に、娘を、任せることなど出来ない」
何も言えないまま、芙美夏は頬を伝い落ちてゆく滴を、手で拭った。
「君を自由に、君の望むような時間をあげたかった。君をこの家から解放して、外の世界を見る機会を奪ってはならないと思ったのも、本当のことだ。
そうやって離れている間に、お互いの気持ちが他に向くのであれば、それもまた運命だ。だから私は、婚約をやめるといった功に、君が出て行ったことを伝えなかった。そんな事をすれば、功は筋を通すこともなく、ひたすらに君を探して回っただろう。
君の居場所が分かってからも、功にそれを教えはしなかった。そうまでして欲しいものは、自分の力で手に入れろと、突き放した。
この五年間、功は、着実に仕事の成果を挙げ、周囲に対する説得力や信頼も身につけ、自分の背負った責任を全うしている。そして、自分の時間を使って、君を探しているようだった。だが、私は敢えて見て見ぬ振りをしてきた」
どこか楽しんでいるようなその顔は、功の――息子の成長を喜ぶ父親の顔だった。
「芙美夏。私も、由梨江と同じで、君が選ぶのが功でなくても、それが君の幸せであるならそれが一番だと思っている。君に、功ではない誰か大切な人がいたり、二条に関わる覚悟がどうしても持てないのであれば、まあ……可哀想だが、功は振られるだけのことだ。自分で乗り越えていけばいい。
だが、今でも君が本心では功を想っているなら、今の功ならば、私には反対する理由はない。望むのであれば、私は出来るだけの手は打っておくつもりだ。こんな私も、まだ二条の中では大きな影響力を持っているからね」
「待って、下さい……わたしは……」
二条の家を離れてから。大切な人たちと離れてから。その長い時間を、功を忘れることに費やしてきたのだ。今更こんな話を聞かされても、心が乱れていて何も冷静に考えることなど出来ない。
「今更勝手なことをと思うだろうね。君がどれほどの思いで、功への想いを断ち切ろうとしてきたかぐらいは、私にだって想像は出来る。君たちのことを思って、と言いながら、君たちから時間を奪ったのも事実だ。だが、この家を守っていくことも私にとっては大事な務めだ。あの時は、ああすることが最善だったと今でも思っているし、後悔はしていない。
決めるのは、君と功だ。もう私は二人のことに口を挟むつもりはない。君が、功ともう一度会ってもいいと思うのなら、香川を通せばいつでも会えるように、言っておこう」
永は、そこまでを話すと、疲れたように大きな息を吐いた。
「本音を言えば……、由梨江の描いた夢は、君が私に送ってくれた手紙を読んだ時から、いや、君が二条の家を出て行く間際、私に最後にくれた言葉を聞いた時から、私の夢にもなっていたんだ。初めて由梨江と一緒に見た、勝手すぎる幸福な……夢だ。だが、私にはその結末を見届けるだけの時間は残されていないだろう。だからと言って、私のために、結論を急ぐ必要は無い」
目頭に指を寄せて、疲れたようにそこを揉み解すと、永は、ベッドに横たわった。
「私が君に伝えたかったことは、これで全てだ。君も疲れただろう。突然、会いに来て欲しいという私の願いを受け入れてくれて……本当に、感謝している。
何か……私に言っておきたい事があれば、今のうちに言っておきなさい。君の望むことは、私に出来ることなら何でも適えてあげたいんだよ。これまでの文句が言いたければ、それでももちろん構わない」
そう言って笑った永に、だが、今の芙美夏には、どんな言葉も浮かんでこなかった。
「いえ……」
「これだけの話を聞かされたばかりで、そんなことを言われても困るだろうね……」
永はそう呟いて、静かに笑みを浮かべた。
「何かあればいつでも、香川に連絡をしなさい。和美さんには申し訳ないが、君のことはまだしばらくは黙ってもらっておこう。それから……外にいる香川を呼んできてもらえるかな」
まだどこか呆然としている気持ちを抑え、頷いてから立ち上がり、病室の扉へと向かった。
その時、永に名前を呼ばれた。
振り返ると、ベッドに横たわったままこちらに顔だけを向けている永と目が合う。
「もう一度、言ってもらえないか」
「え?」
「パパ。身体を大事にしてね。……君はもう覚えてもいないだろうが、それが君が私に言ってくれた言葉だ」
芙美夏は、その時のことを思い出した。
あの頃、書斎で疲れた顔をしながらも執務に勤しんでいた永は、今は病院のベッドに横たわっている。永があの場所に戻ることは、恐らくもうないのだと、唐突にその事実が胸に迫った。
しばらくの間黙って永を見つめて、口を開く。
「パパ……。身体を、大事にしてね」
その言葉に、芙美夏は心からの気持ちを込めた。
天井を見上げた永の目尻から、涙が零れ落ちていく。
「ありがとう……」
震える永の唇が、そう動いた。