『拝啓 芙美夏様』
芙美夏――と、確かに記されたその文字に、酷く動揺した。
流れるような手紙の文字は、由梨江の手によるものだった。時折乱れ、震えている箇所も見られる。初めの一文に目を通すと、芙美夏は震える唇を引き結び、目を閉じた。
気持ちを落ち着けるように、深く一度だけ呼吸をし、もう一度手紙を読み始めた。
『このような手紙だけを残し、あなたに詫びることもなくこの世を去る私の身勝手を、許して欲しいとは決して言えません。
ずっと長い間、私の頭の中を覆っていた靄のようなものが、この病によって自分の命が長くはないとわかった時、不意に晴れました。その時私が感じたのは、これでようやく美月の許に行くことが出来るという幸福感でした。
しかし、霧が晴れたように私の記憶が繋がった時、そこに、芙美夏ちゃん、あなたが居ました。
あなたと公園で出会い、あなたを美月として引き取り、美月の身代わりにして慈しみ育て、やがて、美月ではないあなたに怒りをぶつけてきた私の全ての行為が、記憶の底から浮かび上がり、愕然としたのです。
私の弱さが、芙美夏ちゃんという一人の人間から奪ってしまったものも、そしてあなたの献身的な振る舞いに甘えて、挙げ句の果てにはそれすら切り棄ててしまったことも。
あなたの身体には、美月と同じ場所に痣や傷痕がありますね。それは、きっと私の言葉があなたに付けさせた傷なのでしょう。
私は、自分の愚かしさが恐ろしくなりました。美月が亡くなってからこれまで、私の命を無理矢理あなたに支えさせていたのです。それなのに、自分だけが美月の許へ行き幸せになれるなどと浅はかなことを考えた自分が、恥ずかしくて堪らなくなりました。
忘れられた美月にとっても、私は酷い母親です。私は地獄に落ちて、裁かれるべき人間なのです。
私は、周囲の意志に流されるまま、二条に嫁いで来ました。流されることを自分で選んだのですから、それについての後悔はありません。
けれど、私はただ弱く、それに甘えて生きているだけの人間でした。
大きな重荷を背負い、必死で闘う二条を助けることも出来ず、功にまともに愛情を注いであげることも出来ず、そうするうちに、どちらとの距離も修復出来ないまま、その二人の分も過剰なまでに愛情を注いだ美月との、小さな世界の中に閉じこもって生きていました。
その世界が壊れた時に、それが全てだった私には、この世界は闇でしかなかった。いっそその闇の中で、そのまま朽ち果ててしまえば良かったのです。
でも、私はあなたを見つけてしまいました。そして無理矢理あなたを自分勝手な希望の光にして、私の闇に引きずり込み、狭い世界に閉じ込めました。
「芙美夏」という名で、あなた自身として、生きて笑って泣いて喜んで、友達が出来て、家族に愛されて。そういう人生とあなたの名前を、あなたから奪ってしまいました。
あなたが、私ではなく、心から芙美夏ちゃん自身を望んでくれる分別ある方に引き取られていたなら、あなたは愛情に満ちた人生を手に入れることができていたに違いありません。私に、あんなにも愛情を以て応えてくれたあなたなら、きっと人一倍愛されただろうと思います。
あなたは、自分でそう望んだのだと考えているだろうと思います。でも、あなたは幼い子どもでした。親の愛情を求めるのは当然です。差し出された手に、どんなことをしてでも縋り付くのを、誰が責められるというのでしょうか。
あなたには、あなた自身に愛情を注ぐ手が、差し出されるべきでした。私があなたに注いだのは、美月に対する愛情でした。あなたを見て、あなたを理解して、あなたのために注いだ愛ではなかった。
違った形で、あなたと出会っていれば。と思うのは、勝手な言い分にしか過ぎません。
本当なら、あなたに会って、全てを話すべきなのかもしれません。でも、私はあなたに許して貰ってはならないと思っています。
私は、自分の罪を背負ったままこの世から消えていくべきなのです。それに、あなたに対して、どう詫びればよいのか、こうしてこの手紙を書いている今も、何も言葉が浮かばないのです。
今更、取り繕うように、あなたに愛情を示すことも出来ないと思いました。ただ、あなたの未来が、幸福と本物の愛情に満ちたものになって欲しいと、切に願うだけです。
せめて、私が残せるものは、全てあなたに残して逝きます。あなたの人生を奪った対価のように受け取られるかもしれませんが、私には他に何もありません。
あなたの為に役に立つのであれば、少しは報われます。私のものなど、欲しくもないと思うのであれば、どのようにでも処分して下さい。香川に任せれば大丈夫です。
それから、私は、こうなって初めて、様々なことが見えるようになりました。今更ながら、自分がいかに何も見てこなかったのかと、恥ずべきではありますが。
あなたには本当の愛情を示してくれる人が必要だと言いました。ですが、確かにここでも、美月としてではなく、あなた自身に愛情を注いでくれている人達がいました。
私は、その事に少しだけ救われました。確かにそれは、親としての愛情とは違うでしょう。でも彼らの愛情は、間違いなく、芙美夏ちゃん、あなた自身へのものです。香川夫妻や、淳也君、そして、功のことです。
功は、私の息子であって、そうではありませんでした。あの子は、二条家のものでした。私は、十ヶ月かけて育てたあの子への愛情を、示すことに失敗しました。たった一度のあの子からの拒絶に、心が竦み、親としての自信をなくしてしまったのです。
功は、大人の手を煩わせない、とても大人びたところのある子どもでした。気が付けば私は、功には、息子に対するようにでなく、継嗣としてしか接することが出来なくなっていました。功にも、私は合わせる顔がありません。
それでも、功は、私の息子です。母親らしいことは何一つしてやれなかったけれど、そんな私にもわかったことがあります。
それは、周囲への影響を考えれば、事によってはあなたの立場を危うくし、あなたの心をより苦しめるものかもしれません。ですが、私は、息子の気持ちを無理矢理歪めるようなことも、出来るならばさせたくはないと思いました。
私に見えた過去を振り返った時、ある事実に思い至りました。あなたを酷い言葉で傷つけた時、私は、私に向けられる功の憎悪ともいえる程の眼差しを感じていました。
功が私を、泥棒だと詰った事もあります。目を開いて美月をよく見ろ、と言われた事もありました。
何も見えていなかったその頃の私には、功の言葉は通じていませんでした。けれど、ようやく今頃になって、それらの言葉や行動がひとつの意味を伴って私の心に届きました。
功は、どうしても必要がある時、そして私が傍にいる時以外は、決してあなたに近寄ろうとはしなかった。見ていても、あなたに関心を寄せる様子はなかった。私は美月に、自分の妹に愛情を示さない功を、冷たい子だと心の中で罵りました。自分の事を棚に上げてです。
けれど、あなたに対する私の仕打ちに功が見せる態度と、そのような振る舞いは、矛盾したものでした。
病室に来て世話をしてくれる香川や和美に、功は美月と仲良くやっているかと、何気なく尋ねてみました。香川は曖昧に頷くだけでしたが、和美の答えは違っていました。功は、美月をとても大切に見守っている、そう複雑な表情で答えた和美は、もちろん私が正気に戻っているとは、気付いてはいないはずです。
私は、和美の答えの奥に、きっとそれ以上の何かがあるのだと感じました。
芙美夏ちゃん。私は、独り善がりな夢を見ました。
功があなたに抱くのは、妹、美月への愛情ではなく、確かにあなたへ向けられた愛情なのではないか。それがもしも肉親に対する情でないならば、あの子のその想いが、あなたに通じて欲しい、と。
もしもあなたが、功を愛することがあれば。私は、息子が愛した人として、あなたを堂々と愛することが出来ると。
あなたと功が家族になれば、今度は正真正銘、あなたは、私の娘になると。
勝手な、そして幸福な夢を見てしまいました。
けれど、決して間違わないで下さい。功の気持ちやあなたの気持ちは、あなた達自身のものです。私のように流されるのではなく、自ら選んだ道が、あなたにとって幸せなものであれば、どんな道でもどんな人と歩んでも、それが一番良いのです。
その時、あなた自身に、真の愛情を注いでくれる人が、あなたの傍にいること。
それがただひとつ、あなたの時間を奪った私が、心から願うことです。』