本編《Feb》

第四章 立待月1

《第四章》
 芙美夏(美月) 23才
 二条 功    27才
 香川淳也    26才

 …………


「先生ただいま」
 子ども達の声が次々と聞こえる。
「お帰り、お帰りなさい」
 それに何度も答えながら、学校から帰ってきた子ども達を出迎える。園の中が、急速に賑やかになる時間帯だ。
「ふみかせんせ……」
 足元から聞こえた小さな声に、しゃがみ込んで視線を合わせる。まだ小学校一年生の咲が、ポケットを探って何かを取り出そうとしていた。
「何?」
 少し恥ずかしそうにはにかんだ咲が、ゆっくりと手のひらを開く。そこに、傷がついて少し欠けた青いビー玉が乗っていた。
「ビー玉?」
「びいだま、っていうの?」
 内緒話をするように、小さな身体が耳元に寄せられる。
「そう。綺麗ね、どうしたのこれ?」
「学校の帰りに拾ったの」
 拾ったものを持って帰った事を咎められないかと、少しこちらの反応を伺うように見つめる咲の小さな頭を撫でて、微笑みかけた。
「宝物にするの」
 安心したように笑みをこぼした咲は、もう一度小さな掌の中に丸いガラスを握りしめて、生活棟の方へと走り去った。
「芙美夏先生、ちょっと医務室お願い」
 先輩職員に呼ばれて、急ぎ医務室へと走って向かう。
 視界のすみに、園庭にふわりと浮かぶ赤とんぼが目に入った。九月も半ば、夏の名残を慌てて掻き消すように、秋の気配が色濃くなっている。やはりこちらでは、本州より秋が訪れるのが早い。
 芙美夏が北海道で迎える、五度目の秋が来ようとしていた。

 子ども達が眠りについた後、宿直用の部屋に戻ると、共に夜間勤務についている井上友香が、お茶を用意してくれていた。
「夜勤結構慣れてきた?」
「はい、もう昼でも平気で眠れるようになってきました」
「ま、芙美ちゃんは若いからね。十分に体力もあるでしょうし。けど、ボランティアで来てくれてた時から、行事の時には時々泊まって貰ったりはしてたけど、やっぱり、仕事となると違うしね」
「そうですね。ボランティアの時は、どこかまだ遊び相手っていう感じがありましたし。大きな責任は負えませんから。……あ、いい加減にしてたっていう意味じゃ」
「わかってるわよ」
 友香が笑いながらお茶を口に運んだ。
「じゃなかったら、芙美ちゃんにわざわざ他の施設断ってでもうちに来て欲しいなんて言ったりしないって」
 二人で子どもたちの様子などを報告し合いながら、日誌の整理などを進めていく。
「じゃあ、行ってきます」
 ひと段落したところで時計を見て、夜中の見回りに出るため、声を掛けてから廊下に出た。
 小さな子たちの部屋を覗くと、寝息の狭間で、小さな泣き声が聞こえてくる。そっと近付いて、泣いている子どもを抱き上げた。よく眠っている子どもは、少々の事では目を覚ましたりしないが、起きて釣られるように泣き出してしまうと、後が大変だ。
 不安を抱えている子どもたちの中には、夜泣きやおねしょがなかなか収まらない子も多い。今日は、まだおとなしい方だった。
 泣いていた子どもを暫くあやしながら抱いていると、やがて指を咥えたまま眠ってしまった。こうしている時、いつもみどりや絵美の事を思い出す。こんな風にして自分も、育てて貰ったのだと。
 芙美夏は、二条家に引き取られるまで、ずっと施設で育ってきた。自分の中にある最初の記憶も施設での生活だ。小さな、記憶にも残らないほど幼かった頃、園に移ってからの芙美夏をその手に抱いて、慰め、時には叱り、生きて行くために必要な知識を与えてくれたのは、先生達だ。
 自分がこうして同じ立場に立った時、目標となり、そして感謝の思いもより深くなった。
 二条家を出た事は、園にも連絡が行ったのだろうか――と。そんな事を思いながら、その日の夜は大きな出来事もなく、無事に勤務時間を終えた。

 夜勤明けで少し眩しい空を眺めながら、引継ぎを終えて帰路に着く。芙美夏が住んでいるのは、園からバスで20分ほど離れた場所にある、2DKの小さなアパートだった。
 車で通えるといいのだが、まだそこまでの余裕がない。それにやはり雪道を運転する事への怖さがそれを躊躇わせている。しばらく働いて、もう少し今の生活に慣れてから考えてみようと思っていた。
 バスを降りて、近くの農協で買出しを済ませ、エコバックに買ったものを詰めてアパートへと向かう。
 少し眠気を感じ欠伸を堪えながら、自分の部屋がある建物の前に差し掛かった時、二階の扉の前に、人が佇んでいるのが見えた。
 心臓が、ドクっと鼓動を刻む。

 スーツを着た男性が、部屋の前に居た。
 指先が震えるのを感じ、その場に足を縫い止められたように、前にも後ろにも進めなくなる。
 バシャっという音がして、男性が振り返った。エコバックを取り落としたのだと気が付いた時には、その人がこちらを真っ直ぐ見つめていた。
「――美月か」
 指を握り締めたまま固まっていると、その人はアパートの階段を下り、芙美夏の方へと近づいてきた。
「……香川……さん」
 目の前に立っていたのは香川だった。




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