本編《Feb》

第三章 満月2



 それはもう問いかけでも何でもなかった。
「功、さん?」
 芙美夏が、戸惑った目で功を見上げる。
「康人には女がいる。わかって付き合ってたのか?」
「えっ?」
 驚いたように目を開く芙美夏を見ながら、功は搾り出すように言葉を漏らした。
「――が、幸せじゃないなら、俺は……」
「待って、功さん、違う私」
 彼女の言葉を遮るように、もう一度その唇を塞いだ。深く舌を入れ込み、何度もその口内を味わうようになぞる。逃げる舌を追いかけ絡めとり吸い上げながら、漏れ出る声さえ塞いで追い詰めた。受け止めきれない芙美夏の唇から苦しげな息が漏れる。
「っ……ん……」
 何度も腕で功の身体を押しやろうとする芙美夏を、強く壁に押し付けた。
 どうかなりそうなくらい頭の奥が熱い。功の身体が熱を持って反応しているのを彼女も感じているようで、顔を真っ赤にしながら逸らそうとしていた。
 その顔を両手で挟むと唇を離し、焦点が合わないほどの距離で芙美夏を見つめる。二人が吐く苦しげな呼吸の音だけが耳に響いていた。
「お願い……やっ……だ」
 功に懇願するような顔を見せ、首を振ろうとする芙美夏の瞳を強く見つめたまま、功は片手を上着の裾から入れ込むと、芙美夏の肌に直接触れその滑らかな肌に手を滑らせていった。
 芙美夏の身体が、ビクッと動くのを感じた。触れている肌が彼女の呼吸に合わせて動く感触に、自分の熱が更に上がる。
「……ど、して……こうさっ、やめて」
 芙美夏の唇が小さく震えている。
「康人はよくて、俺は駄目なのか?」
 さらに顔を近づけ、低い声で芙美夏の唇を掠めるように呟いた。
「違う……そうじゃっ、ない」
 話すだけで唇が触れる距離に居る、それを避けるように顎を引きほとんど口を動かさないように、芙美夏が小さな抵抗を見せる。
 馬鹿な事を言っている――。
 功は自分でもわかっていた。最低なことをしているという自覚もあった。これでは康人の事を、そして二年前、芙美夏を傷つけたあの男の事も、何も言う資格がない。今の功には芙美夏への思いやりもなにもなかった。ただ嫉妬に駆られて、自制が効かなくなっていた。
 こうしている今も、康人に応える芙美夏の姿が頭に浮かび、目の前の芙美夏を無茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。芙美夏が幸せならそれでいいなど、ただの綺麗事に過ぎなかった。本当は、他の男に渡すぐらいなら、この手で引き裂いてしまいたい。

 服の下から手を抜くと、一瞬、安堵したような芙美夏の表情が目に入った。そんな事にさえ苛立ちを抑えきれず、功はそのまま彼女を抱え上げると、身体を強張らせ下ろしてという芙美夏を無視して、寝室に続くドアを開けた。
 どこへ連れて行かれるのかがわかったのか、芙美夏の身体が大きく震える。
 やめろと、何度も頭の中で、もう一人の自分が言い続けていた。それを無視してそのままベッドに芙美夏を倒した功は、上から細い手首を押さえ込んだ。
 目を大きく見開いたまま、芙美夏が功を見つめている。その双眸に涙が浮かぶと、彼女のこめかみを流れ落ちた。
 じっと、殆ど睨むように強く彼女を見つめていた。そうするうちに、少しずつ自分の中の理性の声が大きくなっていく。二人の呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻すと、部屋の中を静寂が支配した。
 ――その時

 功を見上げていた芙美夏の瞼が、ゆっくりと閉じられた。
「明かり、は……消して……」
 震えて掠れた小さな声が、耳に入る。功は、頭を何かで殴られたかのように、ハッと我に返り腕の力を緩めた。
 何をしようとしていた――
 芙美夏の腕を掴んでいた手を離すと、握っていた痕が赤く残っている。功は自分自身に嫌悪感を覚えながら、両手で顔を覆った。
「……ごめん」
 息を吐きながら何とか言葉を搾り出す。
 一番傷つけたくない人を、一番卑怯なやりかたで傷付けようとした。そこにあったのは、自分勝手な苛立ちと、欲望だけだった。
 芙美夏の上から身体を起こした功は、項垂れたままベッドの端に腰掛けた。後ろで芙美夏がゆっくりと身体を起こす気配がしたが、振り向くことさえ出来なかった。やがて、背後で芙美夏が身じろいでいた音が止まる。
 気付けば、柔らかな身体に包み込まれていた。

 ベッドに両膝をついて、静かな表情で功を抱きしめていた芙美夏の腕が緩む。ゆっくりと顔を上げた功の頬に、冷たい手が添えられた。
 この手を、功は知っていた。
 あの日、自分の額に当てられた小さな手が彼女のものだった事を知った時から。その手の持ち主は、功にとって特別な人間になったのだ。
 愛しくて大切で、誰にも触れさせたくない、自分だけのたったひとつの宝物だった。
 芙美夏の手の上に、功は自分の手を重ねた。慈しむようにそっと、そして離さないように強く。
 何かを伝えようと口を開きかけた時。
「お願い、もう謝ったりしないで」
 芙美夏がゆっくりと降りて来て、唇で唇を塞がれる。
 手を伸ばし、芙美夏の頭を強く引き寄せた。



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