屋敷に帰りついたのは、もう深夜零時近い時間だった。玄関を入ると、和美が起きていて功を出迎えた。
「随分と、遅かったんですね」
言いながら、和美は顔を顰めた。
「何か、あったんですか」
「いや」
「そうですか。飲んで、いらっしゃいますね。それにお顔の色が余り……。今日は早くお休みになって下さい。先ほどまで、旦那様がお待ちでしたが、もうお休みになられました。明日は、お仲人の重倉様が、九時にはいらっしゃいます。お部屋にモーニングは届けていますから、八時までには、お支度を済ませてください」
「和美」
「はい」
「明日は美月の卒業式なんだろ」
「……ええ」
「行けるのか?」
問いかけに、和美は少し視線を外した。
「いいえ。残念ですが……私は明日はいけませんので、淳也を代わりに行かせます」
「そうか。そんな日にわざと結納とか、あの人も性格悪いな」
皮肉を口にするような功の言葉に、和美が言いにくそうに口を開く。
「恐らく、日取りを決める時には、旦那様はご存知ではなかったと思います。美月ちゃんの卒業式だとは」
功は小さく笑うと、それもそうだな、と答え、重い身体を引きずるように自分の部屋へと向かった。
その後ろ姿を、和美が心配そうな顔で見つめていた。
階段を上がり、無駄に長い廊下を進む。突き当りを少し奥に折れた場所に、功の部屋があった。廊下を曲がり、ふと気配を感じて顔を上げる。
そこに、芙美夏がいた。
心臓がザワリと音を立てる。壁に凭れていた芙美夏が、弾かれたように身体を起こし功を見つめた。
「お帰り、なさい」
入浴を終えた後なのか、髪を片側で束ね部屋着を着た芙美夏が、一呼吸置いて功に微笑みかけた。視線を逸らし、扉に手を掛けながら先ほどの康人とのやり取りを思い出す。
芙美夏は、康人に女が居る事を知っていたのだろうか。知っていながら、康人と付き合っていたのだろうか。
「何か用か?」
顔を上げずに問い掛けた。今まともに顔を合せば、碌な事を言い出しかねない。
「疲れてるんだ」
「ごめんなさい」
芙美夏が小さな声で謝るのが聞こえた。
「康人と」
「えっ?」
功は、思わず責めるように口をついて出そうになる言葉を、どうにか止めた。
――あなたに、怒る理由がありますか
康人にそう問われ、答える事が出来なかった。淳也にも、釘を刺されている。
彼らの言う通りだった。明日、他の女性と結納を交わそうという自分には、芙美夏が誰と付き合おうがどうしようが、それをとやかく言う資格はない。
「いや、なんでも」
「功さん」
はっきりと功に呼びかける芙美夏の声に、溜息を飲み込み、顔を上げて横を向いた。
功を見上げる芙美夏と視線が絡む。もっとそばで彼女を見つめ、胸に掻き抱いた時の事を思い出して心の奥がざわついた。
「あの、私……」
「……何?」
「明日は言えないし、ちゃんと、言ってなかったから」
芙美夏が次の言葉を切り出すのを、功は苛立ちを隠そうともせずに見ていた。真っ直ぐに、視線を逸らすことなく、芙美夏の瞳が功を見上げている。
「だから何を」
「ご婚約、おめでとうございます」
その言葉を聞いた途端、功の中で何かが切れた。
芙美夏の腕を強く掴むと、扉を開け部屋の中へ引き摺り込む。
扉を閉めると、そのまま壁に押し付け、苛立ちをぶつけるように唇を重ねた。
「っ、やっ、こう……んっ……」
話す隙を与えないように、身体を押し付けて口の中に舌を入れる。優しさのかけらもない、容赦ないキスを続けた。
「……どうっ、して……」
ようやく唇を離した時、芙美夏が苦しげに喘ぎながらそう口にした。その彼女の顔を挟むように、壁に腕をついて身動きを取れなくする。
「何が、おめでとうなんだ? 本気で、そう思っているのか」