結納の日取りが正式に三月と決まった。そしてその日は、芙美夏の卒業式と重なっていた。
結納の日の前夜は必ず屋敷に戻って食事を取り、翌日訪ねて来る仲人を迎えられるよう準備をしておくように――との父からの伝言が、香川を通して功に伝えられていた。
けれどその日、結局すぐには屋敷に帰る気になれず、功は、マンション近くの店で食事も取らずに、カウンターの奥で一人時間だけを潰すように飲んでいた。
何度も呼び出し音がなっていた携帯の電源は、とうにオフにしていた。時刻はもう午後十一時近く。流石にそろそろ切り上げて屋敷に戻らなければならない。そう思いながら、功は店の扉が開く音に何気なく顔をそちらへと向けた。
カウンターの中から、店員が「いらっしゃい」と、馴染みの客に向ける笑顔で声をかける。
「こんばんは」
愛想良く答えた女性の後ろで、立ち止まった康人が功を驚いた顔で見つめた。カウンターから不躾に自分たちを見ている功の視線に、明らかに戸惑ったように、女性が康人を振り返る。
「知り合い?」
「そう。功さん」
耳元で康人が答えると、女性が軽く目を開く。そうして、まだ警戒心を滲ませたままの表情で、功に向かい頭を小さく下げた。女性の腰に手を添えて、康人が奥のテーブルへと押しやる。
功は、それらの行動を目を逸らすこと無く見ていた。
彼女をテーブル席に着かせ二、三言話して、康人がカウンターの方へと戻ってくる。近付いてくる康人を、功はじっと見つめいていた。康人もまた、目を逸らすことなく功を見つめたまま、スツールの横に立つ。
「こんばんは」
その挨拶を、功は無視した。
「どういう事だ」
「何がです」
「二股か」
苦笑いを浮かべた康人を見て、苛立たしさが込み上げる。
「二股なんて掛けてませんよ」
「じゃあ、あの女は何だ、お友達か」
「違いますよ。それに、あの女じゃありません」
今度は康人が、珍しくムッとしたように答えた。
「あの人は僕の彼女ですよ。ナンなら紹介しましょうか?」
「お前、美月と遊びで付き合ってたのか?」
康人が、頭を掻くように手をやった。
「あー……いや、遊びっていうか」
答えるのを途中で止め、功の顔を眉根を寄せて見つめた康人は、そうして軽く舌打ちするとしばらくして苦笑いを漏らした。
「……か」
何かを小さく呟いたあと、康人はいつもより少しぞんざいな口調で話し始めた。
「みいちゃん可愛いし、連れて歩いてればいい気分になれますから」
見慣れない挑発的な目で、功を見据えて答えた康人の襟元を、立ち上がり掴み上げる。
「ふざけるな」
「ふざけてませんよ。それに、僕と付き合いたいって言い寄って来たのは、みいちゃんの方ですよ」
鈍い音がして、カウンターにぶつかった康人が、床に倒れこんだ。
「康人っ」
慌ててテーブル席から女性が飛び出して来た。しゃがみ込んで康人を抱え起こすと、拳を握ったまま立っている功を睨みつける。
「何するんですか」
その女性を、功は何の感情もないまま見下ろした。
「あなたも、こんな男やめた方がいいですよ」
冷たい声でそう言い放つと、ゆっくりと立ち上がった女性が、功の目の前に立った。彼女が腕を振りかぶり、その手が功の頬に振り下ろされる直前、慌てて立ち上がった康人が彼女の腕を掴んだ。
「あなたにそんな事言われたくありません。だいたい、あなたが」
「栞、やめろ」
「だって、康人」
「いいから、黙って」
「俺が、何だ?」
二人に強い視線を送る。
「何でもありません。とにかく、僕の彼女はここにいる栞です。僕は、結局みいちゃんより栞を選んだ。みいちゃんとのことは、まあ……もう終わったことです。それは栞も知ってる」
「康人?」
栞が、驚いたように康人を見遣る。それをスルーして康人は功を見返していた。そうして血の滲んだ唇の端に指で触れ、それを見つめて痛そうに顔を顰めた。
「淳也は……知ってるのか」
「知りませんよ。言うわけないじゃないですか。それに功さん、僕が栞がいながらみいちゃんと付き合っていたとして、それが何ですか? 僕達三人の問題です。怒る権利があるのは、ここにいる栞やみいちゃんだ。淳也ならともかく、あなたに、そこまで怒る理由がありますか」
その問い掛けに、答える言葉もなく思わず目を逸らした功を、康人が笑った気がした。
「帰ろうか、栞。すいません、また出直してきます」
顔をしかめてカウンターからこちらを伺っていた店主に、康人が頭を下げた。幸いなことに、客は他に誰もいなかった。
背を向けて、立ち去りかけた足を止め、康人は、黙って立ち尽くしている功を振り向いて見つめた。
「功さん、まだそんな顔が出来るんですね。淳也が、ただ息をしているだけのようだって心配してました」
そう、いつものような柔らかな口調で口にして、康人は栞の腕を引き、店から出ていった。
店内には、気まずい空気が漂っていた。店員はあからさまに迷惑そうな顔で功を見ていた。財布から多目の現金を取り出すと、何も言わずカウンターに置いて店を後にする。
後味の悪さしか残らなかった。金で、何もかもを解決出来ると思っている人間のような振る舞いをした。
タクシーを捕まえて行き先を告げると、そのまま後部座席の中に沈みこみ、目を閉じた。今頃になって、アルコールが効いてくる。
頭の中が、グチャグチャだった。