本編《Feb》

第三章 小望月3



 その日を最後に、功は、年末年始にさえも屋敷には戻らなかった。
 マンションと会社を往復し、香川の下について、二条での仕事を把握していくための毎日を送っていた。
 大学は論文を提出さえすれば、後はその評価を待つだけだ。淳也はあと一年残っているため、復学し学業がメインの生活に戻っていた。
 帰国してふた月ほどが過ぎたその日、功は論文を提出するために大学に顔を出していた。
「あれ、功くんじゃないか、久しぶりだね」
 すれ違いざま懐かしげに声を掛けて来たのは、留学前に学外の講師として国際経営学を教わっていた青山だった。
「帰ってるとは聞いてたんだけど。今日は何、あ、論文?」
「はい」
 しばらく、近況や留学先での講義内容などを話していた会話の流れで、淳也の事が話題になった時、ふと思い出したように青山が口にした言葉に、功の思考が一瞬停止した。
「香川君といえば、そういや彼の妹さん、橘君と付き合ってるみたいだね」
 康人と、芙美夏が――。
「……そう、ですか。知りませんでした」
「何度か大学に来てたのを見かけたことがあるんだけど、あの子、綺麗だろ。結構人目を引いてたんだよ。そういや功君も、同じ敷地内に住んでたんだっけ?」
「ええ。でも今はほとんど屋敷に戻ってませんし、学年も離れてるんで、余り接点もなくて」
「そんなもんなんだ。ま、橘君に会ったら言っといてよ。彼女もいいけど、授業に出ないと単位が足りなくなるって」
「……はい」
 軽い口調でそう言って笑った後、青山は次の講義へと向かった。
 後に残された功は、携帯を取り出し淳也の番号を呼び出した。その日淳也は学校に出ていたようで、『構内で落ち合います』という返信がすぐに戻ってくる。

「どうかしたんですか?」
 学内のテラス席に腰を下ろして待っていると、程なく現れた淳也は功の顔を見た途端に、顔色を変えて駆け寄ってきた。
「顔色がよくないです。働きすぎじゃ」
「康人と美月が付き合ってるっていうのは本当か?」
 立ち止まり、そうしてしばらく功を見つめて黙っていた淳也は、小さく溜息をつくと向かい側の席に腰を下ろした。その目が、今度は意を決したように強く功を見据える。
「本当なら、どうだっていうんですか」
 思わず、言葉をなくす。
「動揺しすぎです、功さん。あなたは一月には見合いをして、ゆくゆくはその相手と結婚するんですよね。なのに、みいが誰かと付き合う事をどうこう言うんですか。ずっとひとりでいることを望むんですか。あいつが康人といて、幸せならそれが一番いい。俺はもう、あんな風に泣くみいは見たくないんです」
「……もういい」
「すみません、功さん」
「わかった」
 淳也は、しばらく黙って功を見ていた。
「悪かった。もう行っていい」
 功が小さく言い放つと、淳也は少し悲しそうな顔を見せた。そしてそのまま何も言わずに席を立った。
 淳也の言うことは、尤もだった。いずれ誰かのものになることなどわかっていたはずだ。この程度のことに動揺するなんてと、自分でも呆れてしまう。
 もう、本当に忘れてしまわなければならない。ならば忘れ方を教えてくれと、誰かに縋りたいくらいだった。

 それからの日々、功は益々仕事やそれに必要な知識の習得に没頭して過ごした。ヘトヘトになるまで仕事をし、夜中過ぎにマンションに戻ると泥のように眠る日々を繰り返して。毎日のように深夜過ぎまで会社にいる功を、香川が心配そうに見ていることも気づかない振りをした。
 そうしていなければ、いつでも簡単に芙美夏の影に頭の中を支配される。
 マンションの一室にある専用の部屋へ、出入りを許されている康人とは、あの話を聞いて以来、顔を合わさずに済んでいる。時折夜中や明け方に部屋にいる気配は感じたが、元々康人は、功が帰ってきたからといって、わざわざ部屋から出て出迎えるタイプの人間ではない。
 誰かを――芙美夏を連れ込んでいる様子も、見受けられなかったが、それでも、知ってる男だというリアルさが、余計に功を苦しめていた。

 そんな風にただ時間を消耗するように過ごすうちに、やがて一月も終わりが近づき、見合いが執り行われた。
 母方の血筋は皇族に繋がり、父親は華道の家元という由緒ある家柄の女性――羽生貴菜が、功の見合いの相手だった。ただ見合いは形式的なもので、三月には婚約、結納を行う事が取り決められた。元から、否もない話だった。
 見合い当日貴菜が着ていたのは、様々な花が描かれた華やかな柄の袖だった。見合いの席で何を話したのか、彼女がどんな顔をしていたのかは、曖昧でボンヤリとした記憶しかない。ただふと頭に浮かんだ問いを、功は考える間もなく自然と口にしていて、その遣り取りだけが鮮明に記憶に残っていた。
「そういえば、芙蓉という花。あれは冬に咲くものですか?」
「芙蓉は――夏の花なんです」


 二月に入り、功は毎週一、二度のペースで、貴菜と会うようになっていた。
 彼女は思ったよりさっぱりした気性の女性で、功がどこかよそよそしい態度を取っていても、特に気にする素振りも見せなかった。どことなく、仕事をそつなくこなしているかのようにさえ、思える時がある。
 羽生家では、華道をよりビジネスベースに乗せるために、アイデアを募り新しいことに取り組んでみようという動きがあるのだと、貴菜は話していた。最近フラワーアレンジメントに人気を奪われ、若い人がなかなか注目しにくい華道を、多様なコンテンツを駆使し、若者や海外の人にも広めようというものだった。
 その活動の中心となっているのが、貴菜だという。
 彼女とは、そういった仕事の話をしている時は、思いがけず楽しむことができた。どちらかといえば、ビジネスパートナーと話しているような感覚があり、不思議と居心地は悪くなかった。
 ただ二人で居ても、色気のある雰囲気になることは未だになかった。
 功は、もう一年以上誰とも寝ていなかった。そんな気にならない、というのが本当のところだ。
 渡英した当初は、本当に自分が壊れているのではないかという位、違う女性と次々に関係を持っていた。仕事、酒、女、ほとんど眠らず――いや、眠れずにそういう生活を一年以上続けていた。
 初めは心配していた淳也が、そのうち激昂しやがて呆れて何も言わなくなっても、止める事はなかった。だが次第に、それさえも億劫になっていった。ひとりの女性が功に執着した事を切っ掛けに、それからはどんな女性を見ても、欲望がわかなくなっていた。
 こうして会っている貴菜に対しても、それは変わらない。
 ――ただ、ひとりを除いては。
 だが、いずれこの女性と結婚し、この人の側にいることが当たり前になって行くのだろう。功の知るものと同じ重さの愛を、貴菜に限らず、誰かに抱くことはもう一生ない。
 それでも誰かと一緒に生きていかなければならないのであれば、貴菜のような人が相手の方が却って楽なのではないか。   
 貴菜と顔を合わせ、話すうちに、功はそんな風に考えるようになっていた。

 あれから、淳也とはどこかよそよそしい必要最小限の会話しか交わしていない。
 それでも、さり気なく芙美夏の近況や試験の状況などを、功の耳に入るように話してくる。
 淳也らしい気遣いだが、今は正直言ってその思いやりにさえ、煩わしさを感じていた。


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