淳也は栞に視線を向けたが、功は康人から目を逸らさなかった。
「何回聞いてみても曖昧にはぐらかすみいちゃんに、そのうち疑いが確信に変わっていきました。最初は、功さんの事もあったから、少し距離を置いてみるのもいいのかもしれないって、そんな程度に思ってました。二条の家からは通えないような、少し遠い場所にある大学に進学するんだろうって。でも、あの子は行き先を決して教えてくれなかった。だんだん、そんな簡単な事じゃないんじゃないかって思えてきて、答えようとしないみいちゃんに、何度も会うたびに尋ねた。そしたら……」
康人は微かに視線を逸らした。
「誰も、自分の事を知らないところへ行くつもりだって、そんな答えが返ってきた。誰も自分を知らない場所で、二条美月でも香川美月でもない自分として、生きてみようと思うって」
視線を戻し、康人は功を睨み返すように見つめたまま、言葉を続ける。
「でも、じゃあ自分自身ってどこにいるんだろう。私は、いったい誰なんだろうって。……笑いながらそういう彼女の指が震えてるんです。声が、まるで泣いてるみたいに聞こえた。その時思ったんです。このままここにいたら、この子は駄目になってしまうって。だから、本当の事を話して欲しい、出来る事は何でも協力するって、みいちゃんにそう言いました。絶対に誰にも話さないからって……そう、約束したんです」
部屋の中を重苦しい沈黙が支配していた。時折、栞が静かに鼻をすする音が聞こえる。
康人は、プリンターに打ち上げられていた一通の書類を功に差し出した。受け取った功は、目を通すと、何も言わずに眉を顰めて康人を見た。
「何、ですか?」
怪訝そうな声を掛けてきた淳也に、その書類を手渡す。
「香川拓……これ、うちの戸籍謄本? って、これ、どういうことだよ」
いったいどんな手を使ったのか、手渡されたのは、康人が入手した役所に保存された戸籍のデータらしきものだった。淳也の父親である香川拓が戸主であるその戸籍には、そこにあったはずの養女美月の跡形は、何一つ残っていなかった。始めから存在していなかったかのように、美月の名前が消えてしまっている。香川拓と和美の名前の後に続くのは、淳也の名前だけだった。
「お前がやったのか」
尋ねる功を真正面から鋭く見つめて、康人が頷いた。
「そこから、香川美月を辿ることはできません。初めからいない人間は、探しても絶対に見つけることは出来ない。それとも、役所に問い合わせて、書類を漁って戸籍を取り戻しますか」
「お前、何やってるんだよ」
淳也が立ち上がり康人に掴みかかった。
「みいちゃんの意志だ。探さないで欲しいって」
「やりすぎだろっ、犯罪じゃないかこんなの……ここまでして、みいに何かあったら……どう責任とるつもりだ」
何度も康人を揺すりながら声を上げる淳也に、康人は何も言い返すことはなかった。
「新しい美月の名前、お前は知ってるのか?」
功の問いかけに、康人が少し躊躇ったあと、小さく頷いた。
「新しい戸籍も作りました」
「俺たちに教えるつもりは、ないんだな」
功が確かめるように、康人に問いを重ねる。
「はい。それに、みいちゃんがどこに行ったのかは、僕も知りません。最後まで聞きませんでした。約束したんで調べるつもりもありません。僕だって心配しないわけじゃない。いざとなれば確かに僕には調べる事ができますし、みいちゃんもそれを恐らくわかってるでしょう。だけど、彼女は僕を信頼して話してくれた。だから、僕も裏切るつもりはありません。あの子なら……大丈夫だと思ってます」
「なんでそんな事が言える? なあ康人、何でもいい、教えてくれないか、頼むから……」
襟首に手をかけたまま、懇願するように呟きながら、淳也は康人の身体を揺さぶった。
その時、嗚咽を堪えた栞の声が部屋に響いた。
「淳也くん……。みいちゃんね、言ってた。淳ちゃんは私の事を、美月じゃなく、みい、って呼ぶ。美月っていう名前を貰うまで、私は芙美夏っていう名前で、だから淳ちゃんは、どちらにも受け取れるように、みいって呼んでくれるんだって。淳也君が……、あなたが居たから、たくさん笑うことが出来たって。たくさん救って貰ったんだって」
淳也が、振り向きながらゆっくりと腕を下ろしていく。
「功さん、みいちゃん、あなたの話をするとき、見ていて切ないけどとても綺麗な表情をするんです。この子は恋をしてるんだって。そういう顔をしてました。他の人と一緒になるあなたを、みいちゃんには見せたくないって思いました。あなた達と居て、確かに幸せな時間がきっと一杯あったと思います。それでも、みいちゃんは、出て行くことを望んだんです」
父の言葉が頭に蘇り、功は自分の頭を掻き毟り、叫び出したい気持ちだった。身体中から力が抜けて、俯いた口元に思わず浮かんだのは、自分を嘲るような笑みだった。
「淳也――」
壁に凭れた身体を起こして、ゆっくりと顔を上げる。
「戻ろう」
声を掛けると、少し目を赤くしたままの淳也が、小さく頷いた。
部屋の入口で足を止め、功は、座ったままの栞へと視線を落とした。
「栞さん、俺の婚約の話は白紙になりました」
「え……?」
まだ知らなかったのだろう、栞が目を見開き功を見上げた。
「本当に、断ったんですか?」
康人も確かめるように尋ねてくる。功は、栞に向かって問い掛けた。
「それを聞いてたら、芙美夏は出て行かなかったと思いますか?」
栞はゆっくりと首を横に振り、それを否定した。
「きっと、余計に苦しんだと思います」
「俺も……そう思います」
出て行くつもりだったから、彼女は俺を受け入れたのだ。そうでなければ、きっと芙美夏は、どんなことがあっても俺と寝たりはしなかっただろう。それくらいの事は、功にもわかっていた。
自分のするべきことを、きちんと考えなければならない。
ただ狼狽えて我を忘れてしまっていては、彼女に追いつく事など決してできない。
「康人。俺は自分の手で……何年掛かっても、芙美夏を探すのを諦めたりしない。もしもその時、芙美夏の傍に誰かがいたとしても……それでも。この目で、彼女の幸せを確かめるまでは絶対に――」
答えない康人に向けながら、本当は自分自身に言い聞かせるようにそう告げて、功は淳也と共に、静かにその部屋を後にした。