本編《Feb》

第三章 十六夜8



 マンションに着くと、淳也と、そして栞とが、リビングのソファに腰を下ろし、黙ったまま向かい合っていた。
 向けられた栞の表情はひどく堅い。こちらもかなり気まずいが、非は明らかに功にある。まずは昨夜の失礼を、頭を下げて詫びた。
「康人がわざと誤解させるように言ったせいもありますから」
 栞は、ぎこちない表情ではあったが、そう言って頷いてはくれた。
 もう少し冷静であれば、見えてくるものもあったはずだ。だが冷静さなど欠片もなかった。思い込みに捕らわれて、何も見えなくなっていた。いや、見ることを避け逃げていたことが、事態を混乱させた原因だったと今ならわかる。
 肝心の康人の姿は、リビングには見当たらない。恐らく奥の専用ルームにいるのだろう。このマンションへは、康人と淳也の出入りは自由になっている。奥には康人が利用するためのITルームが作られていた。
「奥に居るのか」
 強ばった顔をした淳也に尋ねた。
「はい」
「何かわかったのか」
「初めからここへ来ていれば、何もかもが無駄だということがわかったんです」
 怒りを押し殺したような淳也の声色に、その意味を尋ねようとしたところで、栞が立ち上がった。
「康人、お二人が揃ったら向こうの部屋で話すと言ってました」

 モニターが数台並び、各々が違う画像を表示している。その一つの前で、キーボードをほとんど音も立てずに操作していた康人の手が止まると、暫くして、ほんの微かな音を立てプリンターから紙が排出された。
 振り向いた康人の口の端が少し赤く腫れているのは、昨夜功が殴った痕だろう。目を合わすと康人は、ゆっくり瞬きをし、普段と変わらない飄々とした口調で話し始めた。
「僕が、みいちゃんが出て行くのに協力しました」
 淳也はすでに聞いていたようで、苦虫を噛み潰したような顔をして椅子に腰掛けている。部屋の入口近いところで、栞は床に座り込んでいた。
 どこかでそんな予感がしていたのだろう、功は、さほどショックは受けなかった。
「なぜだ、康人」
 それでも。できるだけ感情を抑えた声で尋ねなければ、今にも康人に掴み掛かってしまいそうだった。
「みいちゃんの気持ちが、理解出来たからです。叶えてやりたいって、ここから解放してやりたいって、そう思ったからです」
「みいの、気持ち? 解放?」
 尖った声で呟いたのは、功ではなく淳也だった。
「あの子は、今度は誰かの代わりじゃなく、自分自身として生きてみたいって、そう、言ったんです」
 淳也が伏せていた顔を上げた。功は目を瞑り、壁に背を預けるとゆっくりと息を吐いた。
「なんだよそれっ……、みいはもう誰かの代わりなんかじゃ」
「僕らにとってはそうでも、彼女にとってはそうじゃない、だろ? 事情は、僕はそこまで詳しくは知らない。でも彼女は、亡くなった二条美月の代わりとして二条家に引き取られてきた。美月という名前を与えられて、二条美月として生きてきた。戸籍上の名前は香川美月だ。だけど、淳也のご両親を父や母として育ったわけでもない。違いますか? 彼女の居場所は、いつもとても曖昧だった。功さん、あなたを好きになっても、あなたの側は彼女の居場所には為り得ない。淳也、お前はみいちゃんの本当の家族か? 兄か? 違うよな。そんな事は、本当は二人の方がよく知ってるはずだ」
「それは……でも」
 何かを言おうとして、言葉を継ぐことが出来ない淳也がいた。
「いくら淳也や功さんや周りがそれを否定したとしても、彼女にとってはそれが真実だった。そしてあの子は、ずっと罪悪感を抱えてた」
「罪悪、感?」

「功さんから母親を奪ったこと。自分が二条の家に行ったことで淳也の家族に迷惑を掛けたこと。功さんのお母さんが亡くなったことで、本当は自分があの家に世話になる理由がなくなってるっていうこと――」
「迷惑だなんて、そんなことは誰も思ってない」
「言っただろ。彼女にとってはそれが真実なんだって。淳也の家族は自分を無理やり押し付けられたんだって。皆優しいから迷惑な素振りも見せず自分を受け入れてくれたんだって、そう言うんだ。僕だって否定した。始まりはともかく、今はそうじゃないってことは、傍から見てたら分かる。でも、淳也のお父さんがあの子を自分の戸籍に入れたのは、確かに最初は二条の家のため、それが仕事だからだったのも事実だろ。周りの人たちには、彼女に対する罪悪感があるはずだ。でも、みいちゃんも皆に対する罪悪感を持ってた。おかしな話だよな。大人の勝手に振り回された一番の被害者はきっと彼女だ。何であの子が罪悪感を持たなきゃならない?」
 淳也に向かって話していた康人が、黙って壁に凭れたまま話を聞いていた功に目を向けた。
「それでも功さん、僕は、どこかであなたに賭けてみたいという気持ちも捨てきれなかった。あなたに、腹も立てていた。みいちゃんは一人でずっと……なのに、功さんはいつまでも何やってるんだって。だから、みいちゃんに協力しながら、淳也の意を汲んで、馬鹿みたいにあなたを煽ってもみた。でも……もう遅かったんです。みいちゃんは、自分の意志を貫いて、たった一人で出て行った。最後まで、僕にもいつ出て行くのかは教えてくれなかった」
 康人の口調が、僅かに乱れる。二人とは別の形での関りではあっても、康人もまた、美月のことを大切に思っていたひとりだということだけは疑いようがなかった。
「あの子は、二人が留学したすぐ後にはもう、自分が出て行くための準備を一人で始めてた。二人がいない間も、僕、淳也に頼まれて、時々様子を見るために、みいちゃんと会ってました。そうするうちに栞とみいちゃんと知り合いになって。そしたら栞に言われたんです。あの子はどこか遠い所に行こうとしてるんじゃないか、って」


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