雨模様の空を見上げる。
――二年と少し
久しぶりに戻った日本は、生憎の空模様だった。功は、迎えの車で空港から屋敷へと向かっていた。
雨の日には未だに、濡れてボロボロに傷ついていた彼女の姿を思い出す。少しでも油断すると、簡単に入り込んでくる面影から気を逸らすように、PCを立ち上げ書きかけの論文を仕上げる作業に没頭する。
渋滞を経て、見覚えのある屋敷周りの風景が見える頃には、雨はもう上がっていた。
車が屋敷の塀沿いに差し掛かったとき、前方に馴染みのある制服の後ろ姿が見えた。
「ご同乗なさいますか?」
功は初めて会ったが、彼女のことを知っているらしい運転手が振り返りながらそう確認してくる。
「いや、いい。そのまま行ってくれないか」
かしこまりました。との返事は聞き流し、功は開いていたPCをそっと閉じて窓の外へと視線を向けた。
随分髪が伸びている。それに、背も少し高くなったようだ――。
芙美夏が、車の音に気が付き振り向く。スモークが貼られているため、向こうから車内は見えてはいないはずだった。
功は、こちらに視線をやっている芙美夏の、二年前より女らしくなった顔を車内からじっと見つめていた。車は速度を落としその横を通り過ぎる。追い越す直前、芙美夏が軽く頭を下げた。確かに、視線が交差したような気がした。
芙美夏の姿が見えなくなると、功は、後部座席に凭れ強く目を閉じた。
思わず苦笑いが込み上げる。
彼女は、こんなにも簡単にその存在だけで、俺を揺り動かす。早く、切り捨ててしまわなければ苦しいだけだ。二年もあれば。会わなければ忘れられるはずだった。だが――。
心を引き千切らなければ、消えてはくれない。
正面玄関前に車が止まると、表で出迎えた淳也がドアを開けた。
「お帰りなさい」
頭を下げる淳也に、軽く頷く。淳也の後ろには、何人かの家政婦や使用人、そして和美が立っていた。
「ただいま帰りました」
声を掛けると、少し驚いたような顔をしていた和美が笑みを返す。
「なんだか、随分と大人っぽくなられましたね」
そうして、何かに気が付いたようにその視線を功の後ろへと向けた。和美の視線の先に誰がいるのかわかっている功は、振り向きはしなかった。
「美月ちゃん、お帰りなさい」
和美や、他の使用人たちが、口々にお帰りなさいと声を掛ける。
「ただいま帰りました」
功の背後から記憶にあるものより、ほんの少し大人びた声が聞こえた。そうして、少しの間を置いて、視線が向けられるのを感じる。
「お帰りなさい。功さん」
功に向けられた声。淳也の視線がチラッと、功と芙美夏の間を行き来するのを感じながら、振り向くこともなく何でもないことのように答えた。
「――ああ」
微かに複雑な表情を浮かべた淳也に鞄を渡し、そのまま屋敷の中へ入る。出迎えていた使用人たちも、それぞれの持ち場へと散っていく。追いかけてきた淳也が、後ろから声を掛けて来た。
「部屋はそのまま使えるようになってます」
「食事を終えたらマンションに戻る。マンションと車の手配は済んでるか?」
「え、今日ですか」
「そうだ」
「今日くらいはこっちに泊まって」
「淳也、出来てるのか?」
「はい……出来てます。どちらも鍵は部屋に置いてます」
淳也の答えを聞くと、預けていた鞄を受け取った。
「論文を書いてるから、夕食の支度が整ったら呼び出して」
それだけを告げると、返事を待つことなく一人自室へと戻る。鍵を閉め、二年ぶりとはいえ特に懐かしさを覚える程の執着もない部屋の、中央に置かれたソファに腰を下ろした。後ろに体重を預けた途端、深く重い溜息が口を衝いて零れる。
昨日まで、息をしている実感が全くなかった。それなのに、こんなにもたった一瞬で、自分に心臓があることを思い出させる芙美夏の存在が、ある意味憎いほどだった。
早く、彼女の居ない場所へ逃げ出してしまいたい――。
年に一度あるかないかの、この屋敷で父が皆と一緒に食卓を囲んでいるその光景は、どこかテレビの映像を見ているようで現実味がなかった。
前回、こんな風に皆で食事をしたのはいったいいつだっただろう。何故、父がわざわざ息子の帰国を歓待するかのような、父らしくもない行動を取っているのか、不審に思いながら、功はその場所で食事をとっていた。
功からは最も離れた席に座っている芙美夏に、先ほどから一度も視線を向けることはなかったが、淳也が彼女に話しかけているその会話は、嫌でも耳に届いてくる。父が功に話しかけてくる内容にはほとんど興味なく、ただ、上の空で答えていても。
食事が終わり、コーヒーが運ばれてくる。功は、さっさとそれを片付け席を立つつもりでいた。しかしその直前、偶然出来た沈黙を利用するかのように、父の声が居間に響いた。
「功、お前の見合いの日取りが決まった。来年の一月三十日だ。少し先だが空けておきなさい」
部屋の中を微妙な空気が漂う。父の目的はこれなのか、と可笑しくなった。
「わかりました」
父の顔を見返しながら、なんでもないように頷いてみせる。
「では、お先に失礼させて頂きます」
その時、カチャンと、陶器が重なる音が思いがけない大きさで部屋に響いた。皆の視線が一瞬音の方へと向かう。
「ごめんなさいっ」
芙美夏のコーヒーカップが、ソーサーの上で傾いていた。
「みい、火傷してないか?」
「コーヒーかかってない?」
淳也や和美が、慌てて声を掛けて手を差し出している。配膳を担当している家政婦が拭くものを持ってくると、和美がそれを受け取り、芙美夏の服を確認しながら少しだけこぼれたコーヒーを拭った。
「大丈夫、少し零しただけだから」
ほんの一瞬芙美夏と絡んだ視線を、先に逸らしたのは、功だった。
「あの、失礼しました」
顔を赤くしながら、父に謝っている芙美夏の声を聞きながら、功は立ち上がり居間を後にした。
彼女は苦手なコーヒーを、今も無理して飲んでいるのだろうか――。と思いながら。