本編《Feb》

第三章 十六夜7



 白紙にしたいとの申し出を羽生家から受けた形で、この話はなかったことになる。
 そう話す父、永の疲れた表情を見ながら、そして出て行った芙美夏を思いながら、功は自分の浅はかさは嫌というほど感じていた。
「自分がどれほど愚かかは、十分わかっています。当主となるに相応しくないと言われるのでしたら、それを受け入れます。それでも僕は、どうしても彼女を――芙美夏を諦めることはできない。そう気が付いたんです」
「甘えるな。そんな楽をさせるつもりはない。お前が……自棄になってろくでもない生活を送っている間に、あの子は自分で生きていくための準備をしていた。お前は私が体よくあの子を追い出したとでも思っているのかもしれないが、私が喜んで、ここを出ていきたいと言ったあの子の話を受け入れたとでも思っているのか」
「そうでないと思える程に、あなたは芙美夏に関心があるようには見えませんでした」
 父が功を睨むように見上げた。
「言っておくが、私はあの子を美月だと思った事は一度もない。簡単に当主の座を捨てると言うお前には私の気持ちはわからないだろう。あの子の覚悟もだ。私は、あの子がどこに行ったのか知らない。だがもし知っていたとしてもお前に教えるつもりはない。望むのなら、この家の力を当てにせず、自分の手で探しなさい」
 声を荒げる事のない代わりに、静かに怒りを抑えた口調で話す父に、功は、そのつもりです、と答えた。それでも、ケジメとして、今日の自分の行為で掛けた迷惑を頭を下げて謝罪した。
 そして、彼女の引き出しに入れてあった封筒を永に向けて差し出した。初めから気が付いていたであろう永は、深く溜息を吐いただけで、それを手に取ろうとはしない。
「置いて、行ったのか」
「はい。これが一緒に置いてありました」
 答えて、功は芙美夏の残した封筒と、寄付してほしいと希望が書かれた便箋を、足元のテーブルに置いた。
「彼女を連れ戻したら、もう誰に何を言われても手放すつもりはありません」
 そう告げる功を見ることもなく、永は口を開いた。
「今のままのお前では、あの子を追い詰めるだけだな。……気の済むようにすればいい。だが、仕事を疎かにすることは認めん。それくらいの責任は果たしなさい」
 それだけを言うと、小さく息を吐きもう一度眉間を揉んだ父は、もう話す事はないと言う様に、一度もこちらを見ることもないまま、デスクに戻り、受話器をあげた。
 功は、永の横顔に向けて頭を下げると、そのまま部屋を後にした。

 自室に戻り、携帯で目的の人物の番号を呼び出すと、数度の呼び出し音の後に『……はい』と、幾分警戒したような康人の声がした。
「俺だ」
『……はい』
「昨夜は、悪かった」
『いえ』
「お前らにまんまと嵌められた」
 少し苦笑いしながら告げると、どこか苦々しい口調の返事が返ってきた。
『今日だったって覚えてたら、あんな意味のない事、しませんでしたよ』
「意味はあったよ。……ありすぎる位だ」
 その言葉に、電話の向こうの康人がしばらく沈黙した。
『それは……どういう意味ですか』
「お前らの読み通り、俺はお前達の関係に嫉妬した。嫉妬で何も見えなくなって、彼女を部屋に引きずり込んだ。俺は、自分がこんなに情けない馬鹿だとは知らなかったよ」
 康人は、絶句している様子だった。
「淳也から聞いていると思うが、美月がいなくなった。康人、彼女を探すのに手を貸して欲しい。昨日の借りは、倍以上にして返してくれて構わない。だから」
『探して、どうするんですか?』
 ひどく冷めた声が聞こえた。
『みいちゃんを、探すことは出来ません』
 今度は、功が沈黙する番だった。
『功さん、今からマンションに来れますか』


 和美に行き先を告げるため、居間へと向かった。
 椅子に腰を下ろし、深刻な表情で向かい合う香川と和美が居て、二人の前のテーブルの上には、便箋が広げられている。
 こちらに気が付いた香川は、上げた顔をすぐに逸らしてしまった。それでも功には、その目が赤くなっているのがわかった。
「香川も、知らなかったのか」
「ええ」
 問い掛けへは、ほんの短い答えだけが返って来た。その手が、テーブルの上で握り締められていく。功は、和美に視線を移した。
「疑ってすまなかった」
「いえ……」
 打ちひしがれたように動かない二人に、マンションに行く事だけを告げて、功は屋敷を後にした。


タイトルとURLをコピーしました