本編《Feb》

第三章 十六夜6




 功は、無駄だとわかっていながらも、淳也に芙美夏の受けた大学を調べ直し、入学の手続きを行っていないかを調べるよう指示した。そうして、功自身は、父が戻るまでの間もう一度芙美夏の部屋に戻った。
 芙美夏の携帯に入っているメッセージや電話の履歴を調べ、手がかりになりそうなものや、未登録の番号を調べてみる。けれど、案の定目ぼしい情報は何も得られなかった。
 ベッドに腰を下ろし、混乱する気持を静めようとするが上手くいかず苛立ちが募る。
 手に持った熊のポーチを弄びながら、昨日、いや今日の朝までこの腕の中にいたはずの芙美夏を思い、頭を抱え込んだ。
 どんな気持ちで、俺に抱かれたのか――。
 昨夜は、酔って嫉妬し、その苛立ちを彼女にぶつけた。そんな俺に、好きだと答えた胸の奥で、いったいどれ程の思いを抱えていたのだろうか。

 間違いなくあの時、芙美夏はもうこの家を出て行くつもりでいたのだ。夜が明ける前に、ひとりで功の部屋を出ていった芙美夏の事を思うと、頭を掻き毟りたくなる。
 今朝すれ違った時に、芙美夏が見せた表情を思い出そうとしても、それは何故かすぐに、夕べ功の頬に冷たい手を添えた時の、包み込むような表情に変わってしまう。
 ポーチを強く握る指先に、何か固いものが触れる感触があることに気が付いた。開いてみると、中から鍵が出て来た。淳也が、鍵が掛かった引き出しの事を話していたと思い出し、鍵穴に差し込んでみる。鍵は簡単に回り、開いた引き出しの中には大きな封筒が入っていた。
「……これ」
 取り出して中身を確認すると、それは、由梨江が芙美夏に残した財産だった。
 香川美月名義のものや、美月の親権者としての香川の名義になっているものも含め、預金通帳、印鑑、株の特別口座に関する書類、不動産の登記関係書類、宝石の鑑定書等が全て封筒に入っていた。
 これらは、美月が成人するまで、貸金庫で保管されているはずのものだ。封筒を持ち上げた引き出しの底に、便箋を見つけて手に取る。
 そこには、芙美夏の字で『放棄出来ないのであれば、由梨江の名前で寄贈してほしい』と、いくつかの養護施設等の名前や住所が記されていた。
 その時、部屋の内線電話が鳴り、父が戻ったことを和美の声が告げた。

 ドアをノックし書斎に入ると、永は、入口に背を向けソファに掛けていた。部屋の半ばまで進んだ功は、視界に入る位置に立つと父の顔を見下ろした。
「美月を……いや、芙美夏をどうしたんですか」
 極力感情を抑えた声で、問い掛ける。
「その前に何か言う事はないのか。お前は今日、どれだけの人に迷惑を掛け、礼を失した振る舞いをしたのか、わかっているのか?」
 その声は、静かだが苛立ちを滲ませたものだった。
「それは……勿論また改めてもう一度お詫びに回ります」
 永は大きく息を吐き、眉間を指で揉んだ。
「その必要はない。お前の詫びなど何の足しにもならない。あちらから、お断りを入れてもらった形にした。貴菜さんが、そうして欲しいと言って下さったそうだ。だからといって、それで全てが済まされるわけではない」
 永の言葉を聞きながら、功は、今日、この縁談を断るために訪れた時の、貴菜との遣り取りを思い出していた。

 * * *

 玄関先で頭を下げる功に対し、怒りを露にする羽生の両親を尻目に、今日も見事な振袖を来た貴菜が、功を表へと連れ出した。
 貴菜の指示に従って車を走らせ辿り着いたのは、都心を少し離れた処にある、小さなカフェだった。
「そんな気がしていました」
 道に面したガラス張りの席に腰を掛けると、注文を待つまでの間に、貴菜はそうひとこと口にして笑った。
 そうして彼女の指先が、店から見える隣の家の庭先を指し示した。少しだけ芽吹いた草木と、まだ冬の様相のまま枯れているように見える草木。何を言いたいのかわからずに、貴菜の顔を見つめた。
「芙蓉です。夏には美しい花が咲きますよ。芙蓉がお好きな人なんですか?」
 その問い掛けに、少し目を瞠る。
 この話を無かったことにして頂きたい――。そう頭を下げた時、どういうことだと言い募る彼女の父親に功が理由を話す前に、貴菜は両親の静止も聞かず、功をさっさと引っ張り出してしまったのだ。だから、まだきちんと理由を説明した訳では無かった。
「どうして……」
 貴菜は、今度はその指を、カフェの斜め向かいに見えるフラワーショップに向けた。中で、黒いエプロンをつけた若い男性の店員が、花の世話をしているのが見える。
「私も、同じですからわかります」
 そう言って微笑んだ彼女は、功と居たときには見せなかった女の顔をした。
「ああ……」
 功は、どこかで貴菜に感じていた同志という感覚が、ようやく腑に落ちた。
「芙美夏、と言います。芙蓉に美しいに、夏です」
「お名前――。そうですか。あなたがお見合いの席で、唯一ご自分から尋ねてらしたのが芙蓉の事だったので」
「それ以外にも色々お聞きしたように思いますが」
 少し苦笑いを浮かべる。
「ありきたりの、どうでもいいような質問なら色々されてましたよ」
 貴菜がまた笑った。
「あなたは、どうして彼がいながら、この話を進める事を承諾したのですか?」
 ふと疑問に思って尋ねてみた。彼女はフラワーショップの店先をじっと見つめて、溜息になり切らない小さな吐息を漏らした。
「彼は……色々あって、高校を中退してるんです」
「……それで?」
「私は、家を捨ててでも彼といたいと思っていました。けれど、彼はわかってたんです。私が、今やっている華道の仕事に夢中だって。それを捨てる事は出来ないって。華道の仕事は、要は、うちの家業です。つまりは家を捨てる事が出来ない。そう、言われました。確かに、私はこの仕事にとてもやりがいを感じています。この仕事を通じて、彼とも出会いました。もちろん、うちのような家柄では、両親は彼の家の事も、彼が抱えている事情や彼自身のことも、決して受け入れてくれませんでした。彼も、自分には荷が重すぎると言って、私から離れてしまいました」
 貴菜の顔には微かに笑みが浮かんでいたが、その瞳は、苦しそうに見えた。
「だから両親も、私を早く嫁がせたかったんです。私も、本音を言えば、好きな人と結婚が出来ないのであれば、仕事の邪魔にならない人なら誰でもよかった。あなたとのお話があった時に私が考えたのは、これだけ有名な、しかも大きな会社を抱えた人であれば、きっとほとんどの時間はその仕事に費やされる。それならその間、私も自分のやりたい事が出来るのではないか。私の家柄や事業が、そちらのイメージアップに繋がれば、よりそれは続けやすくなる。そんな事でした。それに実際にお会いして、あなたには他に想う人がいるんだってすぐに分かりました。何かの事情で一緒にはいられない人なのだと。それなら、調度バランスがいい。……そう、思ったんです」
「調度いい……。そうですね。正直言って俺はあなたと一緒いるのは結構居心地がよかった。芙美夏でないなら誰でもいい、そう思っていたのは俺も同じです。そういう意味でも、あなたとは気持のバランスがちょうどよかったんでしょうね」
 功は少し笑いながら、その店先にもう一度視線を向けた。
「彼は、君がここにいるって気が付いてるよ」
 抜き出した花を一本手に持ったまま、呆然とこちらに目を向けている彼の姿が目に入った。
「ええ……」
 貴菜はほんの少し微笑んだ。
「あなたは、その……芙美夏さんと?」
「もっと早くに、覚悟を決めれば良かったんです。色々考えて彼女を手放すのが一番良いんだと、ずっとそう自分に言い聞かせて来ました。けれど――」
「確かにあなたのお家柄では、大変な事がたくさんおありでしょう。けれど、ありきたりな事しかいえませんが、その方とどうかお幸せに」
 同志のような目をして微笑んだ貴菜に、功は深く頭を下げた。

 互いに納得ができたのだとしても、それでも、振り回して迷惑をかけたことに違いはない。
 ご両親には改めてお詫びに伺うと言うと、彼女は、白紙にする申し出は自分がしたことにして欲しいと言った。こういう事は女性側から断ったことにした方が、色々と都合もいいのだと。
 そして――。
「もしもこのままこのお話が進んでいたら、もしかしたら私のほうが、堪えきれずに婚約破棄を申し出ていたかもしれません。私も、あなたのことは嫌いでなかったですけど、心はあなたにありませんでしたから」
 そうも言って笑った。
 店を出ると、駐車場に向かう貴菜に、彼の所に寄っていかないのかと尋ねた。
「いいんです」
 彼女はひとことそう答え、想い人を見る事もなく助手席に座った。
 それぞれの事情もタイミングもある。そう思うと、よく知らない功が色々口を挟むことはできないだろう。だが、先ほどの男の視線は、それだけで彼の想いを十分に伝えていた。

「彼に、ここで二人でいるところを見せてもよかったんですか?」
「嫉妬、させてみたかったんです」
 ほんの少し笑みを浮かべた貴菜の目が、僅かに伏せられる。
「平気だったりして……」
 そう言った彼女は、どこか少し寂しげに見えた。
 嫉妬から暴走した昨夜の己を思い出し、彼の心情を思えばとても気の毒な気がした。
「また、何かの縁があれば」
 それは、目の前に居る功に向けられた言葉なのか、花を手に立ち尽くしていた男に向けられたものなのかは、わからなかった。
 ただ。この人の恋が、いつか実を結んで欲しいと、功は心からそう思った。


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