本編《Feb》

第三章 十六夜5(孤月)




 車止めに止まった迎えの車に、足早に乗り込む。
「宜しいですか?」
 そう聞かれて、美月は頷いた。
「お願いします」
 車が学園の門を出て大通りを左折する。車窓越しに、美月は遠ざかるその景色をじっと眺めていた。
「それにしても、何も今日のような、卒業式当日でなくても」
 運転しながら、気の毒そうに柿崎が話し掛けてくるのに、笑いながら答える。
「色々準備があって、少しでも早く行かないと間に合わないんです」
「そんなものなんですか」
「私が行くところが特殊なんです」
 そう言うと、柿崎は納得したように頷いた。
「けれど、寂しくなりますね」
「……はい」
「次は、夏休みくらいですか」
「……そうですね」
 曖昧に答えを濁す。地方の大学に通うためにここを離れる、と単純にそう思っている柿崎に、嘘を重ねるのが心苦しくて、しばらくは無言で窓の外を眺めていた。
 途中の信号待ちで、白い犬を散歩させている人を見かけた時、柿崎が思い出したように口を開いた。
「あの時の犬は、元気にしてますかね」
 美月は笑みを浮かべた。
「私も今同じ事、思ってました」
「そうですか」
 柿崎も、鏡越しに笑顔を見せた。
「元気で幸せだといいな」
「はい。せっかくお嬢様に拾われたんですから」
 お嬢様――と。
 柿崎はずっと美月をそう呼んでいた。使用人の中には、やはり彼女を蔑み、決して個人的には丁寧に扱わない人達もいた。お嬢様という丁寧な呼びかけは、今でも、どこか自分の事じゃないみたいに気恥ずかしい。
「柿崎さん、お嬢様なんて……ずっと、私なんかをそんな風に扱って下さって、ありがとうございました」
 そう言うと、柿崎が驚いた表情をするのが鏡越しに映った。
「そんなことは……」
「本当なら私、こんな風に送迎なんてして貰えるような立場じゃありません」
「何を言うんですか。私にとっては、あなたは小さい時からお嬢様でしたよ。あなたは、とても行儀のいい子どもだった。良すぎるくらいだった。きちんと挨拶も出来て、お礼だって言える。私にまで、学校で作ったお菓子をお裾分けしてくれたりもした。あれには妻が喜びましてね。うちは煩い男の子しかいませんでしたから。だから、……あなたの様な可愛いお嬢様を乗せるのは、とても楽しかったですよ」
 美月は、自分の頬が赤くなるのを感じた。
「そんなこと言ってもらえる程のことじゃ……」
「私はね、二条家で働く前も、また今でも時折手伝いで、他の家で運転をすることもあるんです。親がお金持ちだっていうだけで、礼儀のなっていない非常識な子どもや、大人だって、沢山いるんです。他のドライバーに聞いてもそういう話はよく聞きます。いくら仕事でも、やっぱり感謝されるとされないでは、遣り甲斐が違ってきます。貴方の送迎は、遣り甲斐がありましたよ。秘密だって沢山作りましたしね」

 離しながら柿崎の顔に浮かんだ優しい笑みに、胸が詰まった。
 美月がまだ小学生だった頃、柿崎は時々、学校の帰りに寄り道をしてくれた。家には内緒だよ――と言いながら珍しい景色を見たり、妻が作ったという美味しいお菓子をご馳走してくれたり、可愛い動物を見せてくれたりした。
 由梨江がべったりと美月に構い離れなかった頃は、それが美月にとって、外の世界に触れる数少ない時間だった。
 皆に言いたい事は沢山あって、でも手紙に書いても、その気持ちの半分も伝えきれていない気がした。あの家に貰われて、美月として生きてきた時間にも、沢山の自分自身に向けられた愛情や、幸せがあった事に、今頃になって気が付く。
――それでも……

「柿崎さん、私……」
 鏡越しに、美月の次の言葉を待っている柿崎と目が合う。
「新しい場所に行ったら……。色んな事を、してみたいです。新しい自分が、発見できる気がします」
 柿崎は頷き、人の良さそうな笑みを浮かべて、答えてくれた。
「それがいいです。せっかく大学に行くんだ。色んな事を学んで、自由に、好きな事をしてみたらいいですよ」
 東京駅まで、美月を送ってくれた柿崎は、荷物を手渡すと、可愛らしく包装されたな小さな包みを差し出した。卒業と入学のお祝いだと言うそれを、驚いて遠慮しようとしたが、柿崎は首を横に振り引き下がることはなかった。
「あなたの様なお嬢様に渡すには恥ずかしいものです。でも妻とこれを選んでいる時は、まるで娘が出来たみたいに楽しかった。妻もそう言ってました。趣味が合わなかったら、処分して貰って構いませんから」
 そうして、その贈り物の包みを美月の鞄に入れてしまった。
「ちゃんと大切にします」
 深々と頭を下げる。
 何度も、自分はもう戻らないのだと言いそうになった。
 自分を最後に送り出した事で、この人が苦しまなければいいと、強く強く願わずにはいられなかった。


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