激しい音を立ててドアを開け広間に駆け込んで来た功は、その音に居間から飛び出てきた淳也に、顔色を変え詰め寄った。
「いったいどういう事なんだ」
和美や騒ぎを聞きつけた使用人も数名、広間へと出て来る。そこに気を回すだけの余裕は、今の功にはなかった。
「わからないんです。どこに行ったのかも、どうして何も言わずに出て行ったのかも」
話にならない、とでもいうように顔を歪めた功は、美月の部屋へと足を向けた。後ろをついてくる淳也が、今日の事を掻い摘んで説明するのを聞きながら。扉を開けて部屋の中に入った功は、その場に立ち尽くした。
淳也は、その背中を見つめながら、さっき自分が感じたのと同じ空気を、功もこの部屋から感じているのだろうと思っていた。
「電話は……」
半ば結果をわかっていながら、聞かずにいられないかのように尋ねる功に、淳也は隣に並ぶと自分の携帯で美月へと電話を掛けた。
すぐに小さなくぐもった音が、部屋の中――机の上から聞こえて来る。功はゆっくりとそちらに顔を向け歩み寄ると、震える携帯を手に取った。携帯には、美月の友人からの幾度にも渡る電話やメッセージが入っている。功の手が通話を拒否するボタンを押すと、その振動が止まった。
視線が机に落ち、そこにあるものを功の瞳が捉えている。伸ばされる指先の動きは、淳也からはスローモーションのように見えた。
ポーチを手に取ると、功はじっとそれを見つめた。
「どうして……」
それをギュッと握り締めた功に、淳也は後ろから近づいた。
「この部屋……いつから、出ていく準備をしてたんでしょうか」
淳也は、帰国してからの美月の様子を思い出してみようとした。だが、二年も会わない間にすっかり大人びた美月が、以前より少し変わったと感じることがあったとしても、それを月日のせいだと思っていた淳也には、何か予兆めいたものを思い出す事は出来なかった。
今日の卒業式での美月の様子を思い返してみる。
初めて出来た友達と卒業してバラバラになるのが、淋しくて泣いているのだと思っていた。
口にすることは決して無かったが、功の婚約に苦しい思いを抱えているのだろうとも、考えていた。
だが――それだけではなかったのだ。
「功さん」
脳裏に、美月のうなじに残された赤い痕が浮かんでいた。
「みいと、寝たんですか」
静かに、けれどはっきりと確かめるように問うた。功がゆっくりと顔を上げて振り向く。その目は、淳也を見つめながら、どこか遠くを見ているようだった。顔色も、白くなっているように見える。
「――ああ」
予想していた答えでも、さすがに衝撃を受けた。
「みいは、あなたが婚約を取り止めること、知ってたんですか」
功の顔に、苦悶の相が浮かぶ。
「……いや」
「じゃあ」
淳也が功に詰め寄ろうとした時、部屋の扉が大きな音を立てて閉じられた。そこに、和美が立っていた。
「外にまで聞こえています。私しかいなかったから幸いですが」
そう言いながら、和美は厳しい目をして二人に歩み寄った。功の前で足を止めると、その顔を真っ直ぐに見上げる。
「今の話は、本当のことですか」
「……本当だ」
和美が息を吸った。
「いったいいつから……。まさか、昨夜ですか? 昨夜あんな風に酔ったまま……あの子を?」
功は何も答えなかった。
部屋に、強く頬を叩く音が響いた。功は、和美に叩かれたまま項垂れたように顔を伏せている。
「あなたは、何をしてるんです。いったい何を考えてるんですか。約束しましたよね私と。何の約束もできないあの子に、絶対に手を出したりしないって。だから、私はあの子をここに住まわせることを承諾したんです」
ここまで功に怒りを顕にする母の姿を見たのは、初めてのことだった。淳也は圧倒されて何も言葉が出ない。
約束って、いったいいつそんな話をしたんだろうか――
和美は、強く手を握り締め、息を整えようとしていた。そうして微かに首を振ると、何かを振り払うようにきっぱりと口にした。
「とにかく、今はあの子の行方を確かめることが先です」
淳也も、その言葉に我に返った。
「功さんが戻るまでにも心当たりは当たってみましたが、まだ何も……。康人にも頼んで、もっと探してみます」
その名を聞いて、功の顔が上がる。
「康人、か」
その時、部屋の扉が強く叩かれた。和美が足早にそちらへ向かうと、若い使用人が顔を覗かせて小声で何を告げる。和美が弾かれたように、こちらを見た。
「柿崎さんが、美月ちゃんを乗せたって」
三人は急いで部屋を飛び出した。
居間の椅子に腰を下ろしていた柿崎は、落ち着かない様子で入って来た和美達を見上げた。
「何がなんだか、わかりません……いったい、何がどうなってるんですか」
そう言いながら、何気に視線を動かした柿崎が、功を認めた瞬間、慌てて立ち上がった。
「功様、何故こんな所に……お迎えの時間が変わりましたか?」
柿崎は、今日ホテルでの会食などが終わる夕刻に、迎えの車を出す予定になっていたのだ。今朝美月と共に屋敷を出て行った柿崎には、まだ状況が変わったことの連絡が入っていなかった。
「そんなことより美月を乗せて行ったっていうのは本当なのか、いったいどこに」
功が柿崎に問い返す。周囲のただならぬ雰囲気に呑まれながら、柿崎は、永の指示で、美月を学園から東京駅まで乗せたのだと話した。
「四国の大学に行かれる事になったとお聞きしてましたが……違ったんですか?」
だが、皆が衝撃を受けたのは、永がそれを指示したと言うことだった。
「あの人は、知ってたのか」
呟いた功が、和美を見据える。
「なら……香川も知ってるのか」
淳也も、弾かれたように母の顔を見た。和美は、青ざめた表情で首を横に振っている。
「いくら何でも、黙って行かせるようなことは」
「父の指示ならどうだ。香川は、父には絶対忠実だ」
「でも、今回ばかりは」
和美が、泣きそうな顔で訴えかける。淳也は何も言えずにいた。
「それじゃあ、本当に……お嬢様は、大学に行くために出て行かれたのではないんですか」
話を聞いていた柿崎が、擦れた声で問い掛けた。
「誰も、美月ちゃんがここを出ていくなんて知らなかったのよ」
和美が彼に答えた。
「そんな」
「父が知ってる」
そう言うと、そのまま部屋を出て行こうとする功の後を、淳也が追いかけた。
「功さん、どこに行くつもりですか」
「父のところだ」
「でも、今」
「淳也、芙美夏の受けた大学の中に、四国のものがあったのか?」
「……いえ、都内の大学しか聞いていません」
「待ってください」
後ろから追ってきた和美が、玄関を出ようとする功を止めた。
「今、旦那様は、功様――あなたの後始末をつけに行かれてるんです。話がややこしくなるだけです」
「だから何?」
低い声で言い放つ功に負けず、和美が冷静に諭すように告げる。
「そんな所に行って旦那様に尋ねられたところで、お答えになるとは決して思えません。戻って来られるのを待ちましょう。それまでに、出来る事をしていく方が得策です」
「お嬢様は……」
不意に、声が聞こえた。居間から出てきた柿崎のものだった。
「ご自分の意思で出て行かれたんじゃないでしょうか」
「どうして……そう思うの?」
戸惑いを含んだ声で、和美が問いを返す。
「いえ、なんだかそんな気がしたんです。新しい場所で、色んな事をしてみたい。ってそう仰っていました。今考えてみれば、ではあるんですが」
その場にいた皆が、言葉を失くしたように口を噤んだ。