本編《Feb》

第三章 十六夜3



「……え?」
 問い返しながら、淳也の心臓が嫌な音を立てた。
『お昼過ぎに、美月が謝恩会用の服を家に忘れたから取りに帰ってくるって言って』
「ちょっと待って。今朝みいは謝恩会用の衣装が入ってるって、鞄と紙袋を持って出たんだけど」
『えっ……でも、学校にはそんなものは持ってきてませんでした。もう謝恩会始まるのに戻って来なくて』
「ごめん、藍ちゃん。すぐ掛けなおす」
 電話を切ると、和美を捜した。結納が執り行われるはずだった部屋でその姿を見つけると「母さん」と、その腕を加減も出来ずに強く掴む。
「ちょっと痛い淳也、何、まだ、何か言いたい」
「みい、一度戻って来た?」
「え?」
「昼過ぎに、謝恩会の服を忘れたって、ここに戻ってきた?」
 和美が戸惑いながら首を振った。
「いいえ、だって服なら今朝……」
 合わせた視線の先で、母の目が大きく見開かれる。
 淳也は和美の腕を離すと、部屋を飛び出しそのまま屋敷の廊下を走り抜けた。今いた別邸から最も遠い場所にある美月の部屋へと向かうと、ノックもせずに扉を開く。

 主のいない部屋の中は、静まり返っていた。部屋に入りながら、淳也は自分の中の嫌な予感が現実になっていくのを感じていた。
 部屋の中は、いつもより更に綺麗に整理されているように見えた。クローゼットに駆け寄り扉を開けてみると、空になった引き出しと、何も掛かっていないハンガーがぶら下がっていた。
 部屋の中を見て回り、震える手で次々と収納スペースを開けていく。そのまま残されたものはたくさんあったが、殆どの場所が、まるで誰も使っていないかのように綺麗に整理されている。
「……淳也?」
 和美が後を追って部屋に入って来た。そして呆然と立ち尽くす。
「どういう、ことなの」
 淳也は、美月の机の方へと足を向けた。綺麗に整理された机の真ん中に、携帯と、そして隅に立てかけるように熊の形をしたポーチが置かれていた。
 ゆっくりと手に取りそれを裏返してみると、『FUMIKA』という文字が刻まれている。
「わからない。何がなんだか」
「卒業式には出てたんでしょ?」
 振り返ると、和美も青ざめた顔をしている。きっと自分も今あんな顔をしているのだろうと、淳也は呆然としながら思っていた。
「うん……」
 淳也はゆっくりと机に凭れると、冷静になるために目を閉じて深く息を吸った。
「まさか、功様と」
 和美の呟きに淳也もハッとする。確かに功にもずっと連絡を取れずにいる。だが少し考えてそれを否定した。恐らくそれはないだろう。
「みいがそんな事を受け入れるわけない。功さんにこの家を捨てさせて自分と、なんてことが出来るくらいなら、もっとあいつは色んなものを手に入れてるよ」
 そう言いながら、電話を取り出しリダイヤルで藍の番号を呼び出した。
「大事な時間にごめん。悪いけど、ちょっと聞かせて欲しいことがあるんだ」
 美月はどうでしたか、と、飛びつくように不安気に尋ねる藍にそう言葉を返す。
『……何か、あったんですか?』
「藍ちゃん、周りの友達からちょっと離れられる?」
『はい』
 しばらくして『大丈夫です』と声がした。
「美月が、いなくなった」
 息を呑む気配が、電話越しにでも感じられた。
「何か、知らないか?」
『何で……何があってそんな、何かって、何ですか?』
「どこへ行ったかとか、そういう心当たりとか」
『そんなのわかりません。聞きたいのはこっちの方です……だって、だってさっきまでここで』
 藍の声が嗚咽で聞き取れなくなってしまった。
「藍ちゃんごめん、ちょっと今はこっちも何もわからないんだ。また何かわかれば連絡するから。本当に、ごめんね」
 電話を切る。引き出しをあちこち見て回っていた和美が、立ち止まって淳也を見つめた。
「あの子が普段使ってたようなものが見あたらないわ。この部屋の様子だと、前から準備をしていたみたい」
 殆どの物をそのまま置いて行ったとはいえ、それでも衣類や日常に使用するそれなりのものを持って出ているのだ。今朝のあの鞄と紙袋一つとは考えにくい。もう一度机に向き直り、引き出しを一つずつ開いて行く。一箇所鍵のかかった場所以外は全ての引き出しが開いた。
 一番手前の引き出しの中に、封筒が入っていた。一人ひとりの名前が書かれた淡い色の封筒を、そっと一通ずつ取り出した。
『香川拓様』『香川和美様』『香川淳也様』
 和美が横から自分宛の封筒を取り、鋏を使う事もせず、淳也より先に封を切る。取り出した便箋を開いてそれを一目見ただけで、いったい何が起ったのかがはっきりとわかった。
『香川和美様  
 今日まで、本当に本当にお世話になりました。
 感謝の言葉以外言うべき言葉がありません。
 それなのに、何も言わずに行く事を許して下さい。……』
 その書き出しで始まった手紙は、便箋で三枚に及び、美しい文字で感謝の気持ちと、出て行く理由、言い訳、謝罪の言葉がびっしりと綴られていた。
「……どうして、こんな……」
 和美が、額に手を当てて声を絞りだす。その時、淳也の携帯が鳴り響き、二人とも身体をビクッと震わせた。すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし」
 雑踏のざわめきの中から、功の声が聞こえた。
『遅くなってすまない』
「功さん、今どこですか? みいとっ、一緒なんですか?」
『何、言ってる……今マンションの近くにいる。芙美夏が何?』
「一緒じゃないんですね。一緒に……行ったんじゃ」
 もしかしたら、の一縷の望みを絶たれて、声が擦れる。こちらの声色が普通でないのが伝わったのか、功が息を呑む気配があった。
『何かあったのか』
「みいが……いなくなりました」
『いなく……どういうことだ』
「この家を、出て行ったんです」
 功の動揺が、電話越しでもハッキリと伝わってきた。
『すぐに戻る』


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