本編《Feb》

第三章 十六夜2



 美月と別れた淳也は、すぐに駐車場へと向かった。
 淳也を酷く混乱させていたのは、ツーショット写真の撮影時に、俯く美月の髪を風が撫でていったとき、偶然露になったうなじに残っていた二つの赤い痕だった。
 それを目にした時、今朝の功の様子が頭に浮かんだ。あれが誰に付けられたものなのか、淳也の中では、明白にその二つが結びついていた。
 今日、他の女と結納を交わす男が、まさか美月と寝たというのだろうか。

 ――いったい、どういうつもりなんだ
 淳也が気付かなかっただけで、以前から二人はそういう関係になっていたのか。それとも、ただの考えすぎなのだろうか。ならば、誰か全く別の人間とみいがそういう関係になっているのか。
 あれは、確かに意図的に誰かによってつけられた痕跡だ。
 車に乗り込みながら、淳也は考えが全くまとまらずに苛立っていた。
 すぐにでも功に連絡を入れ確かめたいところだが、結納を終えた後は、両家が顔を合わせての食事の場が設けられている。仲人が先方から戻り、そしてその後仲人を伴って、会食のためホテルへと向かう予定になっていたはずだ。
 時計を見ると、ちょうど正午になろうかという時間だった。確かホテルでの会食は午後一時からだった。微妙なところだが、一度連絡をしてみようと式に出ていた間落としていた携帯の電源を入れた。

 功からの不在着信が数件、母からも、そして父からも電話が掛かっていた。
 流石に、これは何かあったのだと焦りが込み上げる。留守電のマークに気づいて、録音データを再生してみると、功の声が聞こえてきた。
『淳也。……婚約の話は、断ることにした。……また連絡する』
 短い伝言を聞いて、淳也は唖然とした。そうして美月に痕を残したのが功なのだと確信を持つ。状況がつかめず功に電話をするが、何度電話しても通話できないというアナウンスが流れる。諦めて母に電話を入れてみると、電話に出た和美も、また戸惑っているようだった。
「母さん……」
『淳也。卒業式は、無事に終わった?』
「うん、母さん、あの、功さんが」
『もう、知ってるのね』
「さっき、功さんから留守電が入ってて。いったい、何がどうなってるの」
『今朝になって、今回のお話を白紙に戻して欲しいと、そう言い出されたみたいで。旦那様はとてもお怒りだし、少し前まで仲人の方ともずっと話をしてらして』
「功さん、は?」
『それが、一度仲人の方と旦那様と部屋に入られたあと、しばらくしてからお一人でどこかに出て行かれて』
「どこへ」
『わからない、けれど。恐らく、先方に話をしに行かれたんじゃないかしら。……とにかく何か連絡があったら、すぐにこっちにも連絡して頂戴』
「わかった」
 通話を終えた淳也は、父の話も同じようなものだろうと思い、今自分が取るべき行動を考えた。

 美月に、この事をすぐにでも伝えるべきなのだろうか。けれど、きっとすぐに美月も知ることになるのだ。それならば、折角友人と高校生としての最後の時間を楽しんでいる今でなくても構わない気もした。この話を聞いたところで、美月がただ素直に喜ぶはずがない事もわかっていた。
 車を出した淳也は、功を探して、羽生家、そして功のマンションを回ってみたが空振りに終わり、屋敷に戻ることにした。

「――功さんは」
 玄関を開けるなり、迎えに出てきた和美にそう尋ねたが、母が首を振る前にその顔を見て答えを悟った。
「まだ、帰ってないの」
「ええ」
「俺も、連絡がつかない。待ってるしかないかな。……父さんは?」
「旦那様とお仲人の方々と出かけてしまって」
「どこに?」
「先方のお宅によ」
「功さん、いったい……どうするつもりなんだろう」
 ぼそりと呟くと、和美が息子の顔を複雑な表情で見上げた。
「いずれは……。美月ちゃんと一緒になるって、そう旦那様に言ったみたい」
「ああ……」
「ああ、ってあなたこのこと知ってたの」
「いや、知らなかったけど」
「けど、何」
「俺は、そうなればいいって、ずっと思ってたから……」
 和美の顔が、僅かに強張るのがわかった。本当は母もどこかで、二人がそうなる事を望んでいるのではないかと思っていた淳也は、その様子を意外に感じた。
「簡単に言わないでちょうだい」
 硬い表情のまま、そう口にした母の顔を驚いて見つめ返す。
「……え」
「この家は普通の家じゃないのよ。功様と一緒になったところで、あの人は、その身体のほとんどが二条という公のものなの。あの子の身の上を考えたら、ただこの家にいることでさえあれだけ色々言われるのに、ましてや当主の妻にだなんて」
「……母さん、それ、本気で言ってるの」
「そうよ。私は、あの子に辛い思いをさせたくないの。普通の幸せを与えてあげたいの」
「だから、幸せになるために功さんと」
「馬鹿なこと言わないで」
「馬鹿なことって……まさか母さんが、そんなこと言うなんて信じられない」
 淳也は、母の発言に、どこかでショックを受けていた。腹立たしさも覚えていた。怒りを何とか抑えようとしながら、それでも気付かぬうちに和美を睨みつけるように見ていた。だが和美の視線は、それに怯む事はなかった。
「現実を見なさい。あの子が大事なのはあなた達だけじゃないわ。私だってここに美月ちゃんが来たときから、ずっとあの子を見てきたの。私はあの子に……奥様のような思いをさせたくないの」
 和美の言葉に、淳也の怒りが僅かに沈んでいく。母も、本気で美月の幸せを願っているのだという事は理解できた。それでも――。
「でも、母さん、母さんはあの二人の気持ちをわかってないから」
「私を馬鹿にしてるの? そんなのは、ずっと昔から知ってたわ」
 今度こそ淳也は二の句を継げなくなった。
「ずっと見ていたって言ってるでしょ。功様のことだって」
「けど、じゃあ、功さんの気持ちはどうなるんだよ。あの人はみいがいないと駄目なんだ」
「だから、駄目なのよ。淳也、よく聞きなさい。美月ちゃんをこの家に本気で迎えるつもりなら、功様が、周りに何も言わせないだけの力を持たなきゃいけないの。あの子を周囲の目からも、悪意からも守れるだけの強さが必要なの。それが出来ない限り、いくら二人がそれを望んでも、あっという間に周囲に潰されてしまうだけよ。その時、一番傷つくのは美月ちゃんなの。わかる? 二条家という強い鎧で守られた功様じゃない。何も持たない生身のあの子なの」
 口にしながら、母の目元が薄っすらと潤んでいるのに気が付いた。二人の気持ちさえあれば、と、確かに簡単に事を考えていたのだと淳也は初めてそう気付かされていた。
「あなた達は若いから、今はそれで仕方がないのかもしれないけど、もう少し現実的になって先の事まで考えなさい。それは、功様にも言えることよ。どう? 今のあの人にそれだけの力があると言える?」
 手で額を押さえて、和美は深く息を吐いた。
「とにかく、皆の帰りを待ちましょう。美月ちゃんにどう話すかもちゃんと考えないといけないし」
 そう言い残し、和美は淳也の元を離れていった。その時、淳也の携帯の呼び出し音が響いた。慌てて表示も確かめず応答する。
「功さん、今――」
『あの……』
 功だと思い込んでいた電話の声は、女性のものだった。咄嗟に誰かがわからず、表示を確かめると、それは藍だった。

「ああ、……ごめん藍ちゃん、どうしたの」
『すいません。あの、香川さん今、どこにいますか?』
「家に戻ってるけど、どうして?」
『あの……』
 藍のしゃべり方がどこか歯切れが悪い。ふと気が付いて時計を見ると三時になろうとしていた。
「ゴメン、ちょっと今ばたばたしてて。どうした?」
『あの、すみません、美月は、もうそっちを出ましたか?』


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