永の部屋から自分の部屋に戻ってくると、扉を閉め、中をゆっくりと見渡す。
二年前に模様替えされた部屋は、今もあの時のまま、美月にとってはキラキラと眩しく輝いて見えている。
今は綺麗に整理され、不要なものは箱に詰め、当面の生活に必要な衣類などは大きな鞄と紙袋に詰めていた。
自分にしか使えないものは貰っていくつもりにしていたが、それも出来るだけ最小限に留めて。いくつかの荷物は、もう、少しずつ運び出してしまっていた。
功が見合いをし、結婚することになるという話を聞いた時、美月はこの家を出て行くことを決めた。
現実的なことも考えて、二年の間は高校に通いながらそのための準備に充てることにした。
深夜を除いては、屋敷には殆どいることのない永が、功と淳也がイギリスに出発する前日には比較的早い時間に屋敷に戻っていた。
美月は、誰もいない時を見計らい、その永の部屋を訪ねた。そうして、このままあと二年間はここに置いて欲しいとお願いをした。もとより美月を追い出すつもりの無かった永は、とても驚いていた様子だった。
自分はここにいるべきではない人間だ。
特に、功が婚約しやがて結婚すれば、ここはその家族が暮らす場所になる。その人達にとってみても、自分のように素性の定かではない者がこの屋敷で生活していたのでは、とても心穏やかではいられないだろう。
何より美月自身が、功やその妻となる人と、平気な顔で接する自信がなかった。
――地方の大学を受験し、ここを離れて生活したい。
――そしてもう、この家には戻らない。
それを願い出た時、永は複雑な表情を浮かべ、それを否定も肯定もしなかった。
ただ、少なくとも高校生の間は、ここから離れる事を考える必要はないし、またそうさせるつもりもないと、きっぱりと告げられた。
周囲の人達が美月をのことを思い、きっと引き止めるだろう事は容易に想像ができた。けれど、それではいつまでも二条の家と距離を取る事が難しくなってしまう。
だから、美月はこのことを誰にも、香川にも言わないで欲しいと永に懇願した。
永は、その約束を、今日まで守ってくれていたようだった。
永に手渡された封筒を見つめて、溜息をつく。
「どうしよう……」
こんな大きな物を受け取っても、戸惑うばかりでどうすればいいのか何もわからなかった。
貰っていた小遣いは、殆ど手をつけずに残していた。小遣いとはいえ、普通の学生が貰うような額ではなかった。それに、和美からは、自分のために使いなさいと預かっていた通帳とカードがあった。
いつかきちんと返すつもりのそれを、当面必要な生活費などに借りていくつもりにしていた。
大学は寮を申し込み、奨学金の申請も行って貸与されることが決まっている。
封筒の中の書類をざっと見ただけでも、億を優に超える金額の預金、それ以外に、国内有数の企業の株や、別荘の権利書まである。けれど由梨江が娘に残したものを、娘でもない自分が受け取る事はできない。それに、これほどのものは自分には分不相応なものだ。
美月は、迷いながら、鍵のかかる引き出しを開けた。封筒をそこに入れようとして、引き出しに置かれたままの白いカードの束を見つけた。暫く、そのカードの束を手に取り考えた末、それを、衣類の鞄に詰め込み、代わりに永から受け取った封筒を入れて、鍵を掛けた。
もう一度部屋を眺めて、忘れている物が無い事を確かめてみる。
もう二度と――。戻ることがない、功が自分のために設えてくれた部屋。
手荷物はそれほど多くはなかった。明日の謝恩会の衣装と言えば疑われることはないだろう。駅までは柿崎が車で送ってくれることになっていて、それは永の配慮だった。
窓辺に立ち、そこから見える庭を見つめる。
今日、食事の時間までに戻ってくるはずだった功は、十時を過ぎた今もまだ戻っていなかった。
もう一度だけ、会いたかった。
会って顔を見て、ちゃんとケジメをつけたいと思っていた。
食事の時間に淳也が連絡をしていたようだったが、電源が切られていると、不機嫌そうに溜息を吐いていた。
しばらくそうして外を見つめていたが、明日の支度も考えて、美月は先に風呂に入ってしまう事にした。
風呂から上がり髪を適当に乾かすと、急いでキッチンへ向かう。そこでは、和美と数人の使用人がまだ忙しそうに立ち働いていた。
「美月ちゃん、どうしたの?」
美月に気が付いた和美が、目だけを上げて聞いてくる。
「あ、お水が欲しくて……」
そう言って、大きな冷蔵庫を開けるとペットボトルを取り出す。振り返ると和美がそこにいて、コップを手にしていた。
「ちゃんとこれで飲みなさい」
そう言いながらコップが手渡される。和美は、立ち振る舞いやマナーについてうるさく美月を躾けてきた。笑いながらグラスを受け取る。
「遅くまで大変だね」
声を掛けてみると、大げさな溜息を漏らして和美が、少し笑ってから軽く眉根を寄せた。
「まあ、ね。ごめんね美月ちゃん、明日、卒業式に行ってあげられなくて」
美月は、首を横に振った。
「淳ちゃんが来てくれるから」
「写真とビデオ、ちゃんと頼んであるから」
「そんなの、いいよ」
「駄目駄目。後で私と香川が見るんだから」
そう言って、和美は笑った。美月もつられて笑う。
「功さんはまだ?」
尋ねてみると、「そうなの」と少し顔を曇らせながら、和美は、どこか気遣うような視線を美月に向けた。
「じゃあ、もう寝るね」
美月は、和美の目をしっかり見つめ返して、そして和美と、他の使用人たちに「おやすみなさい」と、挨拶をした。
キッチンを出る間際に、もう一度振り返る。和美が、まだこちらを見ていた。美月は、グラスを持ち上げて微笑むと、そのままキッチンを後にした。
部屋に一度戻り、苦しさを吐き出すように大きく息をつく。
感謝してもしきれない人達に、何も告げず出て行こうとする自分は薄情者だ。香川にも会っておきたかったが、無理なまま明日を迎えそうだった。
目を閉じて、目の奥が熱くなるのを堪えるように、その熱が引くのを待つ。静かに目を開くと、ただぼんやりと、椅子に腰掛けていた。
深夜零時になろうかという頃、外から微かに車の音が聞こえた。窓辺に駆け寄って下を見ると、タクシーから降り立つ功の姿が見えた。
玄関に消える功を見届けてから。美月は、そっとドアを開けて、功の部屋へと向かった。