本編《Feb》

第三章 満月7(孤月)



 美月がその部屋に入るのは、およそ二年ぶりの事だった。
 由梨江が生きていて、まだ美月を美月だと思っていた頃は、一年に何度か一緒にここにその人を訪ねる機会があった。
 由梨江の前ではその人をパパと呼んだが、自分もその人も、その事に慣れる事は無かったように思う。
 重厚な扉をノックすると、「どうぞ」と声が返って来た。書斎の椅子に腰掛けた永は、書類にサインをしながら、次々と目の前にあるボックスに入れている。
「そこに掛けていなさい」
 美月がそれをじっと眺めていると、顔を上げることなく、中ほどにあるソファを指し示す。
 言われたとおりソファに腰を下ろし暫く待っていると、永が立ち上がる気配がした。そうして、美月の目の前に腰を下ろす。指を組む永の顔は、随分疲れているように見えた。
「待たせてすまないね」
「いえ」
「功は、もう帰ってきたかな」
「……いえ」
「そうか。……まったく」
 浮かべた少し苦い顔をすぐに表情から消して、永は美月を見つめた。
「君は。うちに来て何年になる?」
「もうすぐ十二年です」
「もう、そんなになるのか」
「はい」
 少し細められた瞳が、美月を見つめる。その目が、思いがけないほど功に似ていて、少しドキッとする。
「それで、意志は変わらないのか」
「はい」
 口を結んで頷き、美月は、用意していた言葉を口にした。
「明日で高校を卒業します。これまで、長い間お世話になりました」
「いつ?」
「明日、卒業式が終わったらそのまま」
 永が驚いたように口を開いた。
「明日、そんなに急に。明日は色々ばたばたしている。もっと」
「だからです」
 美月は穏やかな表情で言葉を返した。
「明日は功さんの結納です。本当なら、功さんが帰国するまでに私は出て行かなければならないって思っていました。けど、甘えて……高校を卒業するまでって」
「すまない。君の卒業式だと知っていれば、もう少し日にちを考慮したんだが」
 眉根を軽く寄せた永の謝罪の言葉に、美月は首を横に振った。
「いえ、その方が良かったんです」
 永は、しばらく噤んだ口を開いた。
「どこに行くのかは決まっているのか?」
「はい」
「聞いても構わないかな?」
 その問いには、そっと首を横に振った。
「そうか……」
 口元に手を当てた永は、ソファから立ち上がるとデスクに戻り、引き出しから少し大きな封筒を取り出した。そしてそれを美月に向けて差し出す。
 手を伸ばした美月は、それを受け取った。
「それは、君のものだ」

 封筒を開けると、預金通帳が数冊と印鑑、その他にいくつかの書類が入っていた。戸惑いながら顔を上げる。
「あの、こんなの……私」
 封筒から通帳を取り出すこともせず、美月はそれを永に返そうとした。
「これから生活していくのに、お金は必要だ。持っていきなさい。私にも由梨江にも、君に対する責任がある。こんなところで放り出すような真似をするつもりはなかった。本当なら、君をこうして行かせることも私の本意ではないんだ」
「それは、わかっています。けど、もう十分過ぎるほどの事はして貰いました。これ以上は、貰う理由がありません」
「君は、自分がいくつだか知っているか?」
 唐突に、永に少し厳しい顔で問われた。
「……十八です」
「たいていの親は、そんな年齢の子どもを何も持たせず放り出したりはしない」
 美月はその言葉に何もいえなくなる。
「それは、由梨江が君に残したものだ」
「え……」
 ゆっくり視線を下ろし、封筒をもう一度手に取った。そのまま視線を上げる。思いがけないほど優しい表情で、永がこちらを見つめていた。
「由梨江が、君を受け取り人に指定していた財産だ」
 封筒の中身を取り出すと、通帳の一冊をめくってみた。そこに書かれている内容に、目を見開いた。持て余す程の金額が印字されている。
「こんな、に……」
 震える指で通帳を閉じながら、どこかが、酷く痛かった。
 そうではないとわかっていても、自分の十二年間をお金で買われた気がした。
「貰えません。お願いです。これを貰ったら私」
「それは、正式な手続きを経て君のものになった財産だ。貰えないと言っても君のものであることに変わりはない。それに……受け取って貰わなければ君を何の制約もなくこの家から出すわけにはいかない」
 厳しい表情で告げられた言葉に、息を呑んだ。そしてそれを否定するように首を振る。
「私、話したりしません。この家にいたことも、何も絶対誰にも言ったりしません」
 永が、どこか苦しげでとても疲れた顔をしている事に気が付いた。この人も、本当はこんな事を言いたいのではないのだと思った。
「受け取りなさい。使う使わないは君の好きにしていい。確かに、自分で管理するには大きな金額だろう。そこに連絡先を書いてある銀行の担当者には話を通してあるから、しばらくは貸金庫にでも預けておきなさい」
 美月は、もう黙ってそれを受け取るしかできなかった。封筒を手に、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、ございました」
 頭を深く下げた美月の眼下で、永の指が強く握られるのが見えた。
「君には、感謝している」
「はい。私もです」
 頭を上げると、立ち上がった永は口を開きかけたが、そのまま何も言わず再び机に戻ると椅子に腰掛けてしまった。
 扉の所まで足を進めて振り返る。
 座ったまま、机に置いた片手で頭を支えるように俯いている永に目をやった。
「パパ」
 永が、驚いたように顔を上げた。
「身体、大事にしてね」
 微笑みを浮かべて、美月は、その人の部屋を後にした。

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