本編《Feb》

第三章 小望月1



《第三章》 香川美月(芙美夏) 高校3年生
      二条 功        22歳
      香川淳也        21歳

  ……………


 大学近くのコーヒーショップで、邪道だと思いながらもフローズン系の飲み物を頼む。コーヒーは未だに苦手だ。
 そろそろ温かいものが飲みたくなる季節だと思いながら座席に腰かけ、問題集を取り出す。二十分程それに取り組んでいると、後ろから声がした。
「ごめん、待たせた?」
 余り悪いと思ってなさそうな、のんびりとした声。振り向くと、すぐ後ろに康人が立っていた。
「ううん、これ、してたから」
 大学入試の過去問題集を立てて見せる。
「みいちゃん、もう最後の追い込み時期だもんね」
 康人はいつものカフェラテをテーブルに置くと、向かい側に腰を下ろした。
「淳也達、戻ってくるんだって?」
「……みたい」
「どうする?」
 問い掛けに、曖昧な笑みを浮かべながら康人を見た。
「やっぱり、淳ちゃんには言っておいた方がいいよね」
 少し考えて美月がそう答えると、カップに口を付けたまま、康人が目だけを上げてくる。
「なに?」
「功さんには?」
 美月が首を横に振ると、康人も小さく頷いた。
「だよね」
 カップを置いて、美月が手元に広げていた問題集を手に取りパラパラと捲った後、その本を元の位置に戻した康人は、何を言うでもなくボンヤリと頬杖をついている。
 康人の持つ独特の間合いに、美月はもう慣れてしまっていた。そのまま問題集の続きを解き始めると、三問程解き進んだ時、康人が再び口を開いた。
「本当にいいの?」
「ん? うん。色々ごめんなさい」
「いや、それはいいんだけど」
 シャープペンシルを筆箱に戻し、問題集を閉じた美月がそれを鞄に仕舞うのを待って、康人が返却用トレイに二人分のカップをまとめて、席を立った。
「じゃあ行こうか。マンション」

 * * *

 久しぶりの日本に功より先に帰国した淳也は、報告を兼ねてまずは父の元を訪ねるように言われていた。午後一番の便で成田に到着したその足で、タクシーに乗り込み、二条の本社に向かう。
 ――眠いな。
 向こうはまだ夜明け前の時間だ。つい目蓋が重くなり落ちてくる。
 ドライバーに、着いたら起こして欲しいと頼んで目を閉じた。向こうではタクシーの中で眠ることなど考えられない。やはり日本に戻ってきて気が緩んだのだろう、心地よい振動に、すぐに眠りに落ちた。

「久しぶりだな」
「はい」
「元気そうだ。少し大人の顔つきになったな」
 淳也は苦笑いした。
「ありがとうございます。向こうで散々こき使われて、鍛えられて来ましたから」
 その口調に、今度は香川が苦笑いを浮かべた。
「今は二人きりだ。普通にしゃべっていいぞ」
 言われて淳也は軽く息をついた。
「まだ時差ボケしてるんだ。いきなり呼び出すとかどうだよ」
「なかなか、器用に使い分け出来るようになったじゃないか」
 香川はそう言って微笑んだ後、「ところで――」と切り出した。
「向こうでの様子はどうだった」
「様子って……功さん?」
「ああ」
 淳也は、口元に手をやり逡巡するような表情を見せてから、口を開いた。
「本音を言ってもいいなら」
「構わない。ここでの会話はオフレコだ」
「なら、最悪。かな」
 香川は、その言葉の意味を確かめるように、しばらく黙って息子を見つめた。
「私の元に支社から届いてる報告と、随分違うな。大変優秀なご子息で今後が益々楽しみだ。短期間で確実に成果を上げた手腕に、帰国を惜しむ声も多かったと、そう聞いてるんだが」
「そりゃそうだろうね。凄かったよ、容赦ない仕事ぶりで。あの若さで突然支社に送り込まれたあの人を、最初は所詮ジュニアだ、みたいな目で甘く見てた奴らがどんどんやり込められていくのを見てるのは、そりゃあ気分が良かったよ。実際、業績上がってるんだろ、あっちの」
「そうだな」
「あの人さ、学校行きながら、いったいいつ寝てるのかってくらい仕事してたよ。仕事してないときは……まあ、あれ……だし」
「なんだ?」
「いや……」
 言葉を濁す淳也に、香川が苦笑いを洩らした。
「だいたい想像はつくが。トラブルにさえならなければまあ、仕方がないだろう」
「そうかもしれないけど。ただ……」
「ただ、どうした」
 淳也は、父の顔を見据えた。
「功さん、何にも執着しなくなったよ。前よりもずっと冷めてる。勉強も課題もそつなくこなすし、仕事も期待以上の結果を残してるけど、それだってやり方が容赦ないんだ。何だか、生き急いでるみたいで。あんなの続けてたら、きっと持たなくなる」
「美月の事は……何か、仰っていたか」
 首を横に振り、淳也は僅かに視線を伏せた。
「とてもじゃないけど、みいの話なんて出来る空気じゃなかったから」
「そうか……」
 香川も、息子から顔を逸らすと、深い溜息を吐いた。

 渡英後も、功とは違い淳也は皆と定期的にコンタクトを取るようにしていた。ふと、父親と話す淳也の脳裏に、二年前に会ったきりの美月の泣き顔と、あの日窓辺に佇んでいた功の感情を失ったような顔が浮かんだ。
「父さん、今更だけど。……あの人さ。みいが居ないとダメになるよ」
「簡単に言うな。どうしようもないこともある」
 淳也は冷静な香川の答えに、気色ばんだ。
「簡単じゃないことくらい俺にもわかってるよ。でも、父さんは見てないから」
「……何をだ」
「みいを失くした功さんを、だよ。諦めて、どうでもいいみたいに次々違う女と寝て、笑わなくなって、何かを忘れるみたいに仕事をこなして。やらなきゃいけないことに手を抜いたりはしないけど、でも、今の功さんを見てると、適当に生きて、早く……全てを終わらせたいって、そう思ってるように感じるんだ。執着しないのは、人にだけじゃない。自分自身にもだ。いっとき自棄になってるとか、そういうことじゃないんだ。やる事はちゃんとやるんだけど……」
「今はまだそうでも、戻られたらすぐ、羽生様のご令嬢と婚約の話が進む。それがまとまれば、諦めもついて気持ちが切り替わるかもしれないだろう」
「……無理だよ」
「すぐには無理でも、家庭を持って年月が経てば」
「父さん。父さんはいつ、功さんのみいに対する気持ちに気がついた?」
 淳也が遮るように問いかけるのに、香川は質問の真意を推し量るように、目を細めた。
「……それは、もしかして、というのは、奥様の葬儀の時だが」
 溜息が零れそうになる。やはり、父も気付いていたのだ。 けれど。
「父さんが知ってる少なくともその倍の時間だよ」
「何がだ」
「功さんが何年みいを想ってたって思う? もう十年以上ずっとだよ。父さん」
 香川の目が少し見開かれた。
「簡単に切り替えが効くような想いじゃないって、わかるだろ」
 何事か考え込むように、眉をひそめた父に向けて、淳也は言葉を重ねた。
「俺、わかったんだ。あの人の欠けた物を埋めてたのが、みいだったんだって。俺も、功さんがあんな風になるのをこの目で見てなかったら、どうしようもない事だって、もう少し簡単に考えてたよ」
 重くて深い溜息が、香川の口元から零れた。
「美月の気持ちは、あの子は……どうなんだ」
「みいは……。欲しいなんて絶対言わないよ。何もかも諦める事に慣れてる。父さんだってそれは知ってるだろ」
「……ああ」
「あの二人ってさ、殆ど口なんてきいたことなかったのに、何でかな」
 そう口にした淳也は、切なげな顔をして笑った。
「みいは、多分功さんを好きだったよ。けど、初めから何も望んでなかった。諦めてるっていうより、自分の立場をよくわかってた。父さん……俺達、みいに何もしてやれないのかな。みいが、口に出すことも出来ない望みを、何ひとつ適えてやれないのかな」


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