本編《Feb》

第二章 無月5



 目の前にある瞳に膜がかかったように見えたその瞬間――

 美月の頭に衝撃が走った。
 頬を叩かれ、頭をシートにぶつけたのだとようやく理解した時にはもう、足を引きずられ、仰向けにシートに倒されていた。
 凍るように冷たい目が、真上から美月を見下ろしている。
 本能的に恐怖を感じ、震えながら声を上げようとした。
「……いやっ、やだ」
 叫ぶ口元が手で覆われる。
「……痛いんだよ」
 正巳が顔を近付け、聞いたことのないような擦れた低い声を零した。
「痛いだろ? 俺を殴るなっ」
 口元を覆っていた手が外され、それが再び頬に振り下ろされる。
 ショックと痛みで身体が強張っている美月の顎が、強い力で掴まれ唇に温かい息がかかる。抗う間もなく、唇が塞がれた。
 左手は顔を固定するように頭に回され、右の手がスカートの中に入って来る。
 強張る身体を必死で動かし抵抗しようとした。恐怖で声が掠れて、上手く叫ぶことも出来ない。足を這っていく正巳の腕を、動かせる右手で必死で抑えた。
「……んんっ」
 角度を変えながら美月の唇を覆った正巳の舌が、唇をなぞり、そこを何度も開かせようとする。声を出す事が出来ないまま、背中に何度も腕を叩きつけた。

 息が苦しくなり唇を開いた瞬間、舌が口内に入り込み、美月のそれを捉えようとする。
「っ……」
 ガリッという音が、自分の内側から耳もとに響いた。歯を立てたその音と共に、美月の口の中に血の味が広がる。
 顔を離した正巳の唇から血が滲んでいた。意識などする間もなく、ただ絞り出すように声を上げる。
「い……やだ……やめてっ」
 だが再びその口元を手で塞いだ正巳は、ブラウスの襟元を引き裂き露わになった首筋に唇を這わせた。
 時折チクッとする程強く肌を吸いながら、唇と舌が胸元へと下がって行く。首を振って口を覆う手を避けるように声を上げるが、ほとんど息を漏らすような声しか出せなかった。
「やっ……まあく……、やめっ」
 足元の手を何とか振り払おうとする間に、何度か正巳の爪が柔らかい皮膚に傷を付けていた。だが今は、痛みを感じる余裕もなかった。
 やがて足元を這っていた手がそれを諦め胸元に戻ってくる。交差した正巳の目付きが、変わっていた。その顔のまま声を出して笑い出す。
「芙美も僕のところまで来いよ。君の事が一番わかるのは僕だ、絶対にあいつらじゃない。芙美のために言ってるんだ。君が大事にしてるその気持ちも僕が諦めさせてあげるから」
 最後は囁くような声でそう言って、耳元に舌を這わせた正巳がフッと笑みを漏らした。
「へえ……こんな目に遭っても、泣かないんだ。泣いてもしょうがないって知ってるもんね。まあ、泣き叫ぶ所も見てみたいんだけど……違う意味で泣かせてあげようか」

 嫌悪感に身体がゾクリとし、肌が粟立つ。殴られた顔が熱をもっているのか、脈を打つ度に頭にずきずきとした痛みを生む。
 どうしてこんな事になっているのかわからなかった。身体の動く場所を何とか動かし抵抗しようとしたが、正巳はびくともしない。
 煩いとばかりに両手を押さえつけると、再び口元に戻って来た唇が、美月の唇に歯を立てた。
「……いっ」
「さっきのお返しだよ。ねえ芙美、誰よりも一番わかり合えるのは僕達だ。あの家にいたら君は不幸になるよ」
 口の中は血の味がしていた。恐怖よりもどうにもならない諦めのようなものが美月の心を支配し始める。それでも、狂気を孕んだ正巳の目を睨むように見返した。
「わかりあって……どうするの? 憎んで二人で恨みを抱えて、復讐するの? ……それが私達の幸せなの?」
「綺麗ごと言うなよ。いい子にしてたら誰かが救ってくれる、なんて有り得ないって、芙美だってよく知ってるだろ。真実なんて碌なものじゃないって、今日もまた思い知っただろ?」
 指が髪に触れるだけで、肌が恐怖と嫌悪で総毛立つのを感じ身体を捩った。
「僕も知ってるよ。君も僕も……生まれた時から、碌でもない真実に晒されながら生きてきた仲間だ」
 正巳の言葉に頷きたくはない。強く否定したかった。美月は、声も無くただ首を横に振った。
「違わない。君も僕も、人生の最初から、ボロギレ以下の扱いを受けてきた。生きるために周りに媚びて、生きるために嘘をつく。芙美だって結局、自分のために大事な人たちに嘘をついたんだろ。平気で何食わぬ顔で嘘をついてみせたんだ。この口がすらすらと嘘を並べ立てて」
 美月の唇をなぞり、酷薄な笑みを浮かべた正巳は、自分が傷つけ血の滲んだ美月の傷を見せつけるように舐めた。顔を振ってそれを避けながら、美月は身体の奥を抉られるような痛みを胸に感じた。
「平気……なんかじゃないっ」
「結局やってるんだから同じ事だよ」
 何度も何度も首を振って抗った。けれどやがて、美月は抵抗する事をやめ身体から力を抜いた。

「あれ、もういいの? 無駄な抵抗だってわかった?」
「……身体なんて……好きにしたらいい」
 美月を見下ろす正巳の目が、僅かに眇められた。
「けど……私はまあ君の物にはならない……まあ君のところには、いかない」
「いいよ、身体だけでも。今はね。これで間違いなく、君は破れる夢を見なくて済むんだ。僕が救ってあげるんだよ。ねえ芙美、あんな男すぐに忘れさせるくらいよくしてやるよ」
 その言葉をどこか遠くで聞きながら、美月は目を閉じた。
 功が好きなのかと聞かれ、激しく動揺した自分がいた。
 そうだったのだ――と、その言葉がストンと胸に降りた瞬間、この想いは終わりを迎えたのだ。抱えていても決して叶うことがない想いだときっと、無意識のうちに自分でもわかっていたのだ。
 だから、知りたくなかった。気付きたくはなかった。
「まあ君、私……自分の立場を知ってるよ」
 そう口にしながら、不意に美月のなかにくっきりとした答えが浮かんだ。
 ――そうだ
 身の程知らずなこの気持ちを諦めさせるために、きっと神様が私をこんな目に合わせているのだ。さっきは正巳の言葉を違うと必死で否定したけれど、秤に掛けるように母を選び、皆を騙した罰をこうやって受けているのだ。
 そう思うと何故か笑いが込み上げてきた。全部自分自身で蒔いた種だったのだ。
「なにが可笑しいの?」
 口元に笑みを浮かべる美月にそう言いながら、正巳の手が下着の中に入り込み胸を強く掴んだ。
 冷たい手が、爪が、皮膚に食い込み顔が痛みで歪む。もう片方の手はまたスカートの中に入り込み、やがて下着の中に手が入ってくる。どうなっても仕方がないと諦めながらも、嫌悪と恐怖から身体に力が入る。
「脚、開けよ」
 そう言って、正巳が強く胸を揺さぶった。痛みに足の力が少し抜けると、何の準備も整わない誰も触れたことのない場所を、全く思いやりもない手がなぞろうとする。歯を食い縛ってその感触に耐えようとするが、悪寒と恐怖に身体が震える。
「身体はくれるんだろ。ほら、脚もっと開けって」
「……やだっ」
 声が漏れ身体を捩った拍子に、正巳の爪が皮膚を掻いた痛みに唇を噛む。傷を重ねて咬んでしまい血の味が口に広がった。
「ほんと面倒いな……ヤリ慣れてない女って。気持ちいいの覚えたら自分からねだるようになるくせに」
 舌打ちと共に本当に面倒そうに口にしながら、正巳の指が下着の端に掛けられる。絶望で目の前が暗くなりかけたその時、不意に、車内に携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
 時間が止まったように正巳が動きを止める。鳴り続ける呼び出し音にやがて正巳が舌打ちをし、自分のポケットから電話を取り出してそれに応答した。
「なに? ああ、わかってるって。……今からいくから」
 正巳が上半身を起こした隙に、美月は身体を思い切り捻り必死でドアを開いた。止めようとする正巳を、咄嗟に手に取った鞄で狂ったように叩く。狭い車内で急に動こうとした正巳がバランスを崩した拍子に、その身体を美月の足が容赦なく蹴りつけた。
 自分でも何をどうしたのかなんて、わからない。頭で考える余裕など全くなく身体が勝手に動いていた。
「お前っ」
 両足が自由になった瞬間、必死でそのまま外へ這い出る。怒鳴るような正巳の声が聞こえていたが、振り向きもせずドアを思い切り閉めた。
 何かがドアに挟まるような鈍い感触と共に、人のものでないような叫び声が地下駐車場に響く。しかし美月は、足が何度ももつれそうになりながら、それでも力を振り絞りそのままただ必死で逃げた。
 駐車場を走り抜け、車が下りてきたスロープを駆け上がる。
 後ろから伸びてきた手に、今にも捕らわれて引き戻されそうな気がした。怖くて後ろを振り返ることなど出来なかった。一度でも振り向いたら、きっともう前に進むことができなくなる。足が身体を蹴った瞬間の、目を充血させ怒りに形相が変わった正巳の顔が、頭から離れない。

「君、大丈夫か?」
 その時、自分が向かうのとは逆の方向から、誰かがそう叫んで走り寄る足音が聞こえた。咄嗟に立ち止まり身を潜めた美月は、息を飲んだまま激しく耳を打つ自分の心臓の音を聞いていた。
 コンクリートを打ち鳴らしていた足音が途中で止まり、どうやらその声は正巳に向けられたもののようだとわかる。
 止めていた息を細く吐き出した美月は、強張り思うように動かない身体を引きずるようにして、必死でそこから逃げ出した。

 破れたブラウスの前を手で押さえながら、激しくなった雨の中、後はどこをどう走ったのかも覚えていない。
 気が付けば、馴染みのある風景の中を――二条の屋敷の裏道を歩いていた。

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