本編《Feb》

第二章 無月4



 戻ってきた正巳と運転手が車に乗り込んできたが、美月は窓の外に目を向けたまま、身動きひとつしなかった。
 呆れたようなため息に続けて正巳が「出して」と声を掛けると、車がゆっくりと走り出す。
「あったかい飲み物、置いとくから」
 そう言って正巳はカップホルダーに飲み物を置いたようだったが、美月は拒絶を示すように、背を向けたままだった。
 都心に戻った車は首都高速に入り、やがて誰でも知っている名のついた出口で高速を下りていく。暫くすると、窓の外に雨中でも間違いようがない、よく見知った景色が見えてきた。
「そろそろ到着だよ」
 正巳の声が、車内を支配していた沈黙を破る。美月は車に乗ってから初めて、訝しげな視線を正巳へと向けた。
「学園に戻るの?」
「まさか」
「じゃあ到着ってどこに?」
「着いたら説明する。だいたい芙美、自分が今どんな格好してるかわかってる?」
 僅かに視線を落としてみると、制服も髪も確かにまだ濡れて重くなり、薄い夏服のブラウスからは下着のラインが透けている。慌てて、頭から被っていたタオルを肩から羽織り直した。
 鼻白んで微かに苦笑した正巳は、面倒そうに続けた。
「まさかその格好で電車に乗るつもり? 僕だって濡れたままだし、早く着替えたいんだ」
 弱くはあるが冷房の掛かった車内で、濡れたままじっとしていたせいで、身体は冷え切っていた。確かに正巳の言うとおり、この状態でそのまま電車に乗るのは憚られる。
 それ以上追求することをやめた美月は、肩にかけたタオルをぎゅっと握り、また雨にけぶる窓の外を見つめた。  
 どこに連れて行かれるかわからない不安と、どうでもいいような投げ遣りな気持ちが、美月の中で交錯する。
 学園付近を通り過ぎた車は、その後真っ直ぐに行けば二条家へ向かうはずの道から横道に逸れた。
 ほんの5分程度で、運転手がスピードを落とすとカチカチというウインカーの音が車内に響き、眼前にそびえ建つ高層マンションの地下駐車場へと、スロープを静かに下っていった。

「ここ……」
 学園からも見えている、周囲でもひときわ高層のそのマンションは、地下と1、2階に小さなショッピングセンターが入っていて、噂では著明な作家や芸能人も住んでいるといわれている物件だった。
 車が住民専用の駐車スペースに停車し、エンジンが止まる。
「降りて」
 正巳に声を掛けられたものの、美月はやはりそれに従うことを躊躇した。
「ここって、ここにまあ君住んでるの?」
「半分そうで、半分は違う」
 はぐらかすような答えに、煩わしさを覚えながら尋ねた。
「どういう意味?」
「魔女の家だよ」
「……何?」
「覚えてる? 魔女の話」
「魔女の、話?」
 意味がわからないながらも、その言葉が美月の記憶の底を揺さぶる。
「園にいた頃、皆で噂してたよね。いい子にしてない子どもが魔女に攫われてどこか遠い国に連れて行かれた、だとか。いや、魔女に食べられたとかって。バカみたいにさ」
 美月を見つめたまま、正巳は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。確かに一時期そんな噂が蔓延してしまい、余りに子ども達を怯えさせたため、先生達が何度もその噂を打ち消そうとしていた事があった。
 あの頃は、美月もその話が怖くて、必死でいい子にならなければと思っていたことを思い出す。
「あん時さ、あんなこども騙しの話に本気で怯えてる君らを見て、ほんとに馬鹿な奴らだって思ってたよ。自分たちの親の方がよっぽど魔女や悪魔じゃないか。――ってね」
 正巳は当時を思い出してか、クスクスと楽しそうに笑い出す。
 その時、運転席のドアが開閉する音がした。窓の外に目をやると、遠ざかっていく運転手の姿が見える。美月は問いかけるように正巳を見遣った。
「ああ、買い物に行ってもらった。さすがに魔女の服に着替えさせるわけにはいかないからね」
「まあ君、魔女って何? ここに誰かがいるの?」
「今、僕の面倒を見てる病院の院長夫人だよ。ここは彼女が、僕と過ごすために用意したマンションなんだ。普段は好きな時に使っていいって言われてる」
 その言葉に引っ掛かりを感じ、美月は眉根を寄せた。
「僕と過ごす、って……」
「もっと分かりやすく言って欲しい? それとも本当にわかってないのかな」
「だって……その人、院長の奥さんって」
「おばさんだよ。五十……いやもう六十の方が近いかな。それでも院長よりは若いけどね」
 美月の言わんとすることを読みとって、正巳が答える。
 一緒に過ごす――その言葉の持つ意味と二人の年齢差が、美月の中で上手く繋がらない。困惑した表情を浮かべて口を噤んだ美月に、正巳が顔を寄せた。

「セックスするため。ってはっきり言った方がよかったかな」
 美月は思わず目を見開き、そして正巳からすぐに視線を外した。
「汚いものを見るような顔をしないでよ」
 その言葉に、思わず顔を逸らした事をどこか後ろめたく感じた美月は、もう一度正巳へと視線を戻した。
「あの人達にはさ、与えてあげる権利があるんだ。天上から僕たちを見下ろして、餓えた僕たちに美味しい餌をばらまいてくれる。その餌に必死に群がる僕たちを、時々気まぐれに吊り上げる」
 正巳の顔から次第に表情が消えて行く。
「ばら撒かれた餌に食い付いて、僕らは腸ごともぎ取られる。与える物の代わりに、奴らは多くの物を奪っていくんだ。当然の権利みたいに、罪悪感も、自分たちが奪ってるっていう自覚すらなくね」
 それは、正巳が今まで一度も見せたことがない顔だった。全ての表情が削げ落ち、どこまでも続く闇に引きずり込まれそうな程に、暗くけぶったその瞳が美月を捉える。
 顔立ちの整った可愛いと持て囃される彼の、寧ろこれが素の表情なのかも知れない。そう思わせるその瞳と言葉から、目を逸らす事が出来ない。
「君も僕と同じだ。偽物のための場所を宛がわれて、奴らは君から名前も本当の君も君の母親も奪った。彼らには奪う権利があるんだよ、芙美。そして僕らは始めから奪われるために生まれて来たんだ」

「ちがう……」
 美月はそれだけを辛うじて口にして、首を横に振る。
 けれど自分の思いを上手く口に出来ず、その否定が正巳に何の意味ももたらさないこともわかっていた。
 ――お金で売られた
 その事実が、頭にこびりついて離れない。
「僕は黙って彼らに食い潰されるつもりはないよ。あの魔女を利用して手懐けてるのは僕の方だ。……芙美?」
 正巳の指が美月の顔に触れ、ゆっくりと近づきながら、じっと目を見つめて囁いた。
「僕と一緒にあいつらに復讐しない? 君は、そうだな……香川じゃ奪えるものも知れてるだろうから、全てを持ってるあのお坊っちゃまを利用するなんてどうかな」
 正巳は口元に再び、しかし先程までとは全く違う薄笑いを浮かべていた。
「なに、言って……」
「生まれながらに全てを持ってる、僕らとは正反対のあの男がさ、僕らのとこまで落ちて来て泥水を……いや、汚物の中を這いずり廻る姿を見たいって思わない?」
 煮詰められ濃度を増したような黒い負の感情に、美月は薄寒さを覚えた。彼の憎悪が功に向けられるのは、功が彼が言っているように、初めから何もかもを持ち合わせた人間だからだろうか。美月は戸惑いながらも、必死で首を振った。
「そんなこと思うわけない。功さんは、何も関係ない。それに功さんは……あの人は全てを持ってる人なんかじゃない」
 美月は、正巳の暗い瞳と言葉に吸い込まれそうになりながら、功の静かな、自分の孤独をじっと自分自身で見つめているような瞳を思っていた。
 気付けば、頭で考えるより先に、正巳の言葉を強く否定してしまっていた。
「関係ない、そうかな? あの男を打ちのめすことが、あの家に対する一番の復讐になるよね?」
 そう口にする正巳の顔に、再び、下卑たというのに相応しい嫌な笑みが浮かんだ。
「この間から思ってたんだけど。芙美って、あの男の話をすると他の時とは違う表情をするよね」
「……え?」
「気付いてないの? へえ……そっか。てっきり香川の方かと思ってたけど、やっぱり二条だったんだ」
 ひとりごつように笑った正巳が、その顔のまま美月を見つめて言った。
「あの男が好きなの?」
 心臓が跳ね上がる。美月は自分でも戸惑うほど、正巳のその言葉に動揺していた。
「何、いって……そんなわけ」
「動揺しすぎでしょ。本気であんな男に惚れたら、全てを無くすだけなのにね。今度こそ全てを奪われてゴミのように捨てられるんだ。あの家が君を対等な人間として受け入れることは、絶対にない。知ってるよね、それくらい。なのに……君はわざわざ自分から釣り針にぶら下がって餌になって、食べられるのを待つつもりなの?」
「違う……まあ君、そんなんじゃない、違う……」
 正巳に指摘された動揺を必死で否定しようとしても、上手く言葉が出てこなかった。
「違うの? じゃあそれを証明してみせようよ。僕と二人でさ」
 正巳の右の手のひらが頬に添えられ、指先に力が込もる。美月の頭の中は、色んな感情がごちゃごちゃで、訳がわからなくなっていた。
 気が付くと近付いてきた綺麗な顔が、焦点が合わない程すぐ目の前にあった。

「やめてっ」
 強く振り払おうとした拍子に、美月の手が、目の前の正巳の頬を強く叩きつけていた。
 爪が頬を掻くザリッとした嫌な感触が、指の先に伝わる。
「っつ……」
「……ごめっ」
 美月の小さな呟きは耳に届いていないようだった。正巳が、笑みを浮かべてはいるがどこかぼんやりとした表情で、赤く筋の入った頬の傷を指でなぞる。
 その手をゆっくりと頬から離し、じっと目を細めて見つめた顔から、笑みが消えた。

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