本編《Feb》

第二章 無月3



 女が帰った後の園長室は、暫く重苦しい空気に包まれていた。
 母親が見つかったかも知れないという喜びはなく、厄介な事になったという嫌悪感だけが残る。絵美はもやもやとした気持ちや怒りを拭いきれないまま、二人に向けて口を開いた。
「あの人何度も警察に言うなって言ってましたよね。子どもを捨てた罪に問われることを恐れてるのはわかります。でも、何かそれだけじゃない気がしませんでしたか? もしかして今も何か犯罪に関わってたりするんじゃないでしょうか。そんな人に、芙美夏を会わせてもいいんでしょうか」
「……そうね」
「今頃になって探してるっていうのも、何か、他に目的があるんじゃ」
「私もそれは感じたわ。時々いるのよ。特に女の子の場合ね、働ける年齢になった途端に引き取りたいって申し出てくる親が」
「嫌な話です。きっと、さっきの話も他の人のことなんかじゃないですよ。あの人が……芙美夏の本当の……」
「まあ、言動に怪しいところがあるとはいえ、その可能性は高いかもしれないわね」
「どうするんですか。あんな母親に、会わせる必要があるんでしょうか」
「私も、本音を言えば会わせたくはないわ。けどね……」
 みどりは、とても疲れた表情で眉間を揉むように手を添えた。
「それでも、子どもにとっては母親なのよ。私たちにはそれを止める権利はないわ。どれほどあの子たちが本当の親を求めているかは、あなただってよく知ってるわよね。例え、傍からみればどんなに酷い親であっても、子どもは健気に真っ直にその腕を求めるの。それが、時々どうしようもなく辛くなるわ」

 その日、その場に立ち会っていた三人は、重い気持ちのまま仕事をこなした。
 いったんこの話は私に一任して欲しい。暫くのあいだ、今日のことは誰にも話さないように。
 副園長と絵美にそう言い含めたみどりは、結局その日の出来事について、警察には届けずまずは二条家――香川に連絡を取るために、間に入っている人物に報告を入れる事にしたようだった。みどり自身もまた、どうすべきか判断しかねたのだろう。
 それからしばらくの間、女からは連絡が入った様子も、以前のように園の周辺で見かけることもなかった。
 そうして、この件からひと月以上が経ったころ、絵美はとある事情で園を退職した。

 園をやめたことを口にするとき、絵美は、僅かに苦い顔を見せた。その様子から、決して円満な退職ではなかったのだろうと感じられた。
 だから――これ以降この件がどうなったのか、みどりと香川の間でどのようなやり取りがなされたのかは、絵美の知ることではなくなったのだという。
「けれど、それから数ヶ月経った確かクリスマスの前後の頃だった」
 絵美は、重い口調で語りながら何度も言葉を区切った。
「偶然……その女の人を見かけたの」
 園をやめてしまった絵美が知ることはもうこれ以上ないのだと、半ば沈んだ気持ちで話を聞いていた美月は、思わず瞠目した。
「えっ」
 絵美は美月を見遣ると、期待に応えられなくてすまないというように、苦い顔で首を横に振った。
「はじめは誰だかわからなかったの。なんとなく、この人をどこかで見たことがあるって、そんな感じだった。当時私が園をやめて働いていた派遣先の携帯ショップにね、若い男を連れた女がやってきたの。誰が見てもわかる高級ブランドのスーツに鞄、綺麗にアップされた髪に、少し派手目な化粧。親子にも恋人にも見えない、ホストと客っていうのが一番しっくりくる感じの二人は、男の携帯を買いにやって来たの」
 美月は瞬きもせず、じっと絵美を見つめて話を聞いていた。
「二人を担当したのは私で、カウンターでやり取りをしながら、どこで見かけたんだろうってずっと考えてた。契約の手続きをしながら、書類を書くその人の手もとを何となく見ていて、手の甲に火傷の痕があるのに気付いたの。それで、あの時の人だってやっとわかった。同じように引き攣れた火傷の痕があったから。芙美を探しにきた、その人にも」
 身動きひとつしない美月は、自分が今息をしているのかどうかもわからなかった。絵美は冷めたコーヒーを口に含むと、話を続けた。
「私のことを覚えてますかって、思い切って尋ねてみたわ。怪訝そうに私をじっと見て、その人、しばらくして気が付いたんでしょうね、驚いた顔をして逃げるようにお店を飛び出してった。私ね、すぐに追いかけて掴まえて問い詰めたの。子どもの事はどうなったのって。はじめは誤魔化そうとしてたけど、私が園に連絡をするって電話を取り出したら焦ったように話し始めた。違ったって……探してた子どもはあの園にはいないことがわかったから諦めたんだって。諦めて探すのもやめることにしたんだって。でも、私は信じられなかった。そんなの到底納得なんてできる訳ないでしょ。だから、そんな簡単に諦めるなんておかしいって詰め寄ったの」

 不意に正巳が、ソファから立ち上がりリビングから繋がったベランダのガラス窓を開けた。雨はさっきより少し強くなっているようだった。
 壁に肩を預け外を眺めている正巳の後ろ姿を目で追いながら、絵美が再び口を開いた。
「私がその人と話してると、しばらくして連れだった男が追いかけてきた。先に帰るからって、あの人にお金をせびるみたいな感じで……バッグに手を入れて財布から十万は超えそうなお金を取り出したと思ったら、もう用はないみたいにさっさと先に帰ろうとしたの。彼女が男を追いかけて行こうとしたから、私、腕を掴んで引き止めて言ってやったの。随分羽振りがいいんですね、この間と雰囲気が全然違うから誰だかわかりませんでしたって。この前お会いしたときには、お世辞にも裕福には見えませんでしたけど、どっちが本当の姿なんですかって。そしたらあの人……私のせいで男に逃げられるって思ったんでしょうね。顔色を変えて急に怒鳴るように私に……言ったの」
 そこまで話して迷うように口を噤んだ絵美を、美月は不思議なほど静かな気持ちで、先を促すように見つめた。
 目を伏せた絵美は、唇を舌で湿らせると答えを求めるみたいに正巳の後ろ姿を見つめた。そうして、動かない背中から美月へと視線を戻すと、諦めたようにひとつ息を吐き口を開いた。

「うるさい、金はやるから、全部なかった事にしろって言ったのは向こうだ。金持ちに貰われて……あの子も……捨てられて良かったじゃないか……って。そう……」
 美月は、頭のどこかを酷く殴られたような気がした。心臓が嫌に早く鼓動を刻んでいる音が自分のものではないみたいなのに、耳の中で響いて煩い。
 顔を歪めた絵美を、茫然としながら見つめた。
「それって……」
「金で解決したってことじゃないの」
 強張った唇を動かそうとした時、ベランダの方から声が聞こえた。正巳が、背中越しにそう口にしていた。
「……芙美……芙美?」
 肩に手を掛けられ揺すぶられて、自分の名前を呼ばれていることにようやく気が付いた。
 期待はしない、どんな話でも知りたいと言ったその気持ちは嘘ではなかった。覚悟はしていたはずで、だから絵美の話を聞いて、正巳が言った事も受け止めて、平気だと笑おうとした。
 絵美の眉根を寄せた心配そうな表情が、ぼんやりとした視界の中で揺れる。
「やっぱり……聞かない方がよかったでしょ」
 どうにか口元に笑みを浮かべようとしたが、上手くいかずに美月は俯いて首を横に振った。気持ちを切り替えるように一度ぎゅっと目を閉じ、それからゆっくりと目を開いて顔を上げた。
「話してくれて……ありがとう先生。私……帰ります」
 自分の声がどこか遠い所から聞こえているみたいだった。絵美に頭を下げてから、窓際へと視線を移す。背を向けていたはずの正巳は、いつの間にか窓際の壁に凭れて、じっと部屋の中を見ていた。
 その顔に、笑みは浮かんでいなかった。

「まあ君、私、本当に帰るね」
 手を伸ばして、ソファに置かれていた携帯と財布を掴んだ。
「芙美……」
 絵美が伸ばした手を、咄嗟に身体を引いて避けてしまう。今、触れて欲しくはなかった。絵美の手が宙に浮き、その表情が哀しそうなものに変わるのを見つめながら、美月は今度こそちゃんと笑顔を浮かべた。
「先生、私大丈夫です。だからそんな顔しないで。先生に久しぶりに会えて嬉しかった。本当の事を教えて貰えてよかったです」
 絵美の口元が何か言いたげに開いたが、その言葉を遮るように頭を下げ踵を返した。
「芙美、待ちなさい、待って。どうやって帰るの……ねえ正巳」
 困ったように正巳に呼びかける絵美の声が聞こえたが、振り返らずに玄関に出て靴を履く。扉に手を掛けた瞬間、強く腕を引かれる。振り返ると、必死な顔をした絵美が立っていた。
「芙美……私」
「先生、どんな話でもいいから知りたいとお願いしたのは私です。それがどんな話でも、先生を恨んだりはしません。本当です。でも……今は少し一人になりたいです。ごめんなさい、ちゃんと分かるところまではタクシーで帰ります」
「なら、せめてタクシーを呼ぶまで待ちなさい。この雨じゃすぐにはつかまらないわ」
 手を掴む絵美の力が少し緩む。その隙に腕を引き離すと、美月は頭を下げて玄関を出た。
 エレベータを待つ間、手が震えているのに気が付き、目を閉じて強く指を握った。昇って来たエレベータの扉が開くと、そこに乗り込みすぐに閉じるボタンを押す。扉が音を立てて閉まる寸前、絵美の部屋のドアが開き、正巳が飛び出てくるのが見えた。
 ほんの僅かな間、視線が絡む。
 その直後、美月を載せたエレベータは、僅かな浮遊感を与えたまま階下へと降り始めた。

「芙美っ」
 正巳の声が、マンションのエントランスに響く。一階に降りちょうど自動ドアを出ようとしていた美月は、すぐ後ろから聞こえたその声にほんの一瞬足を止めたが、振り向かずに外に出た。
 雨の降る暗い夜道を、躊躇いもなく傘も持たずに濡れながら歩いて行く。
 確か大きな通りがあったはずだと、見当を付けた方角へと向かうその足は機械的に動いていたが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 絵美の話をどう受け止めればいいのか、何もわからなかった。
 ――金で解決したってことじゃないの
 ――あの子も捨てられてよかったじゃない
 ――金をやるから全部なかったことにしろ
 今しがた聞いたばかりの話が、頭の中でぐるぐると回っている。不意に喉元を何かがせり上がるのを感じ、気持ち悪さにそばの街路樹に手を付いた。
 また、捨てられた。お金で売られたのだ――。
 酷くなる頭痛と胸の痛みに、強く目を閉じる。しばらくそうしてから息を吐き出し、激しさを増す雨の中を再び歩き始めた。

 そうも進まないうちに、歩道を歩く美月に追いついてきた車が並走する。正巳と共に絵美のマンションまで乗ってきた車だった。
「芙美っ」
 窓を開けて声を上げる正巳を無視する。
「芙美、乗って」
 少しスピードを上げて前方に止まった車から正巳が降りてくると、美月に近づき傘を差しかけた。
「もういいからっ」
 美月は、目も合わさずに傘の下から離れると、ただ足を前へと進めた。本格的に強くなってきた雨が、髪や顔を濡らしていく。正巳が追いかけて来て、腕を掴んだ。
「とにかく車に乗って。タクシーなんか捕まらないよ。こんな雨の日に」
 その腕を離そうと藻掻くが、思いがけず強い力でビクともしない。いつの間にか、正巳が差していた傘も地面に落ちていて、二人してびしょ濡れになっていた。
「なら歩いて帰る」
 なぜ正巳がこの事実を自分に突き付けようとしたのか、今はその目的も何もかもがどうでもよかった。ただ、一人になりたかった。
「歩いてって。何日かけて帰る気?」
 いつものように薄く笑いながら、呆れたように息を吐く正巳を感情のこもらない目で見つめる。
「放っておいて。もう気が済んだでしょ? お願いだから」
 けれど、正巳の手は力を緩めることはなかった。やがて、車のドアが閉まる音がして、二人に傘が差し掛けられる。それは、車を運転していた運転手だった。
「ここは東京から離れています。お乗り頂かないと困ります」
 大人らしい冷静な声に俯きながら唇を咬んで、美月は、諦めたように力を抜いた。

 車の後部座席に乗り込んでからも、口を開く気にはならなかった。
 雫が滴る髪を渡されたタオルで拭い、なるべく車のシートを濡らさないように、前の方に浅く腰掛ける。こちらを見ている正巳の視線を感じたが、タオルを頭から被り顔を隠した。
 しばらくすると、車は高速に乗り入れたようだった。水の上をすべるように滑らかに走る車の車内は、静か過ぎて息をするのも苦しい。
 絵美の話は本当なのだろうか。
 確かにそれが約束事だったとはいえ、香川は、母親かもしれない人が見つかった事を本当に美月には知らせることなく、葬り去るつもりだったのだろうか。
 そしてその為に母かもしれないその人にお金を払い、相手もそれを喜んで受け取ったというのだろうか。
 お金を受け取ったその人は、正真正銘――自分を産んだ人なのだろうか。
 考えたくなくても、気が付けば思考がループのように同じ所を何度も何度も巡る。ずっと黙殺するうち、正巳も声を掛けてくるのをやめた。
 途中一度だけサービスエリアで運転手と正巳が車を降りたが、美月はそのまま車内に留まった。ぼんやりとしてる頭でも、ふと屋敷に連絡をしなければならないことを思い出した。

 和美は昨日から、二条の家の用事で遠方に出掛けていて戻ってくるのは明後日の予定だった。
 泊まりで勤務する使用人に、今日は少し遅くなるとは伝えてあったけれど、時計を見るともう九時を回っている。思ったよりも遅くなってしまった。このまま連絡をせずにいて騒ぎになってはいけない。
 そう思い携帯の電源を入れると、淳也から、前日とは打って変わって1件だけ、今朝の事を詫びるようなメッセージが入っていた。
 今日一日があまりにも長く、あれが今朝のことだと思えないほど遠いことのように感じた。メッセージに重ねて淳也のことを思うと、罪の意識で胸が押し潰されそうになる。それでも、嘘を重ねるために、指をどうにか動かして短く簡単な返事を何とか送らなければならなかった。
 メッセージを閉じて、続けて屋敷に電話を掛ける。どこか迷惑そうな宿直の古参の使用人に「もう少し遅くなりそうだけど、心配しないで先に休んで下さい」と伝えた。
 適当な相槌のあと、電話が先に切られる。
 心配しないで――と口にしながら、美月は自分でも少しおかしくなった。
 あの家で心配すべき人間は、功だけだった。自分は問題さえ起こさず大人しくしていれば、それでいいのだ――と。


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