「ちょっと正巳。やめなさい」
さっきまでより少し硬さが取れた表情の絵美が、呆れたようにソファに腰掛ける正巳に注意する。
「返して」
玄関先から踵を返した美月は、真っ直ぐにソファーに向かい正巳に向けて手を差し出した。携帯と財布を脇に置いた正巳は、何食わぬ顔でゆっくりとコーヒーを味わってから、美月を無視したまま目の前の絵美を見上げた。
「先生、さっきのお願い。芙美にお母さんの話を聞かせてやって欲しいんだ。先生の知ってることでいいから」
――え……
美月の鼓動が早くなる。絵美は、明らかに嫌そうに顔を顰めていた。
「そんなの聞いてどうするの」
「それを決めるのは芙美だと思うけど」
「自分を捨てた身勝手な親の事なんて、本当に知りたい? 知ったところでいいことなんて何もないわよ」
辛辣な言葉を投げながら苦々しい表情を浮かべた絵美に、美月は思わず問い掛けていた。
「先生……何か、知ってるんですか?」
美月の頭の中からは、つい今しがた帰ると言ったことも、正巳への怒りも消え失せていた。
「先生、お母さんが訪ねてきたって本当なんですか、本当に、私のお母さんが」
声が上ずるのを止められない。目を逸らしたままの絵美に詰め寄るように、その腕を掴み頭を下げた。
「教えて下さい、お願いします。どんなことでもいいんです。いい話でなくたって構いません。知ってることを教えて下さい」
「……そんなに知りたい?」
何故知りたいのだと言わんばかりの投げやりな口調で、どこか辛そうな顔をした絵美が問う。
「知りたいです。先生から聞いたって誰にも言いません。お願いします」
絵美は、正巳を肩越しに見た。
「本気なの? だいたいどうして正巳が」
手を伸ばした正巳が、絵美の手首にそっと指を這わせる様子が視界に入る。甘く優しい笑みをその顔に浮かべ、絵美を見上げている。
「誰も、芙美に本当のことを教えてあげる人がいないんだ。先生ならきっと、ってそう思ってここに連れてきた」
手首を掴んだ指先をぼんやりと見つめた絵美は、その手をゆっくりと解き、正巳の触れていた手首を自分の右手で握り締めた。
「本当に……知りたいの?」
横顔を向けたまま、絵美は、もう一度確かめるように問うた。
「……知りたいです」
絞り出すように答えながら、美月は、これから聞かされる話は、きっと自分にとって酷く辛い話なのだろうことを予感していた。
けれどその怖さも、知りたいと希求する気持ちの強さに、すぐに呑み込まれてしまった。
「それが、どんな話でも?」
「――はい」
しばらくの間口を噤んでいた絵美は、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「わかった。だけど先に言っておく、芙美」
絵美が美月へと顔を向ける。絵美は、ここへ来て初めて見せる、美月がよく知っていた先生の顔をしていた。
「期待するような話じゃないからね。きっと、聞いて良かったって思うような話じゃない」
「先生」
美月も、身体ごとまっすぐに絵美を見返した。
「私には、最初からないものだから。……だから、どんなことを聞いても今更失くすものはありません。お願いします。先生の知っている本当の事を教えて下さい」
――最近この辺りで女に声を掛けられた。
そういう報告が子ども達数人からもたらされたのは、一年程前、まだ桜の花が見頃の時期のことだった。
その女は、声を掛けた子どもに広葉野の児童かどうかを確かめてから、園で暮らす女の子の中に、生まれてすぐに親に捨てられた今中学生くらいの子はいないか、と尋ねたという。ちょうどその年頃の女生徒は、あなたは違う?と、直接聞かれていたようだった。
女は、自分の子どもを探していると言ったらしい。
けれど子ども達が、先生を呼んでくるとその場を離れると、女はその間にどこかに消えてしまっていた。
立て続けに三、四人の子どもからそういった報告があり、園側の指導員が数名で見回りを行い、ちょうど帰園中の子どもに声をかけているその女を見つけたのは絵美だった。
女は、かなり疲れた容貌と決していいとはいえない身なりをしていた。四十代半ば位に見えたが、実際の年齢はもう少し若かったのかもしれない。
園長室に女を伴い戻った絵美は、みどりと副園長と共にその場に同席する事となった。
みどりが、子ども達から報告のあった話を確認すると、女はオドオドしながら、自分は人に頼まれて女の子を探しているだけだと、そんな風に答えた。自分の子どもではなく、知り合いの子どもを探しているのだ――と。
では何故子どもらに自分の子を探してると言ったのかと聞くと、途端に言動が怪しくなる。落ち着かなげな様子で、次第に、心当たりがないのならばすぐに帰りたいと言い始めた。
「心当たりと言われれば、少なくはありますが、そういう境遇の子どもは、うちを含めたこういった園には居なくはありません」
「ここにいるのっ」
途端に勢い込んで、前のめりになる。
「落ち着いて下さい。いずれにしても、お答えするにはもう少し詳細な事情や情報をお伺いする必要があります。まずは、お子さんを探しているお母様とあなたの身元なども明かして頂きたいのです」
途端に女はまた落ち着きを無くした。
「警察に、言うの」
みどりがそれに答えずにいると、女は苛々したように爪を噛み突然ソファから腰を浮かした。
「やっぱり帰る」
そういう女を、皆で慌てて引き留める。
「待って下さい。……わかりました。今日のところは、警察には言いません。ですから取り敢えずお話だかでも聞かせて貰えませんか」
「届けたり、しない?」
「はい。今日のところは」
女はしばらく躊躇った後、浮かした腰をソファに戻した。
そうして、女が、ぽつぽつと語って聞かせた話は、その場にいた三人を驚かせるに十分なものだった。
十数年程前、隣接する県との県境にある山の中、山道を逸れた藪の中に生まれたばかりの女の赤ちゃんを捨てた。過去の新聞記事を調べたところ、嬰児が山中で発見されたという記事は見つかったが、その子がその後どうなったかはわからなかった。だから、付近の施設を当たり、その子の行方を調べようとしている。
出されたお茶で何度も口を湿らせながら女が話す内容に、みどりと絵美は息を飲み顔を見合せた。
二人の頭の中には、数年前にこの園を去った女児の姿が鮮明に浮かんでいた。同じような場所で、衰弱し危険な状態で奇跡的に発見された新生児――芙美夏のことが。
「ここに居るのねっ」
二人の様子から何かを察っしたのだろう、嬉々とした声を出した女に、少し冷静になった様子のみどりが答えた。
「正直に申しますと、確かに心当たりはあります。ただその子は今はここにはおりません。こちらも、今のお話だけを鵜呑みにしてお答えするのは、難しい立場にあります。連絡先を教えて頂いて、後日改めてこちらからご連絡するということでいかがでしょうか」
今は居ないとはどういう意味だ、何処かに貰われて行ったのか、そうであれば縁組先を教えてくれ。
迫り乞う女の申出を、みどりは頑として受け入れなかった。何度も拒絶を繰り返すうちにしぶしぶ女は引き下がったが、けれど自身の連絡先を教えることもなかった。
絵美は、女の様子を伺いながら、どうしても腑に落ちずにいる事があり口を挿んだ。
「先ほどからお話を伺っていますと、ご自分では気が付いておられないようですが……。何度も、私、と仰ってますね。私が、と。本当はやはり他の方ではなく、あなたご自身のお子さんの話じゃないんですか?」
聞かれた女の顔に、何故かおかしそうな笑みが一瞬浮かんだ。
「あら、私そんな風に言ってました?」
否定も肯定もせず、そう聞き返してくる。先ほどまでのおどおどした態度と、この状況で何故かおかしくてたまらないように笑みを浮かべる今の姿。
何かとても嫌なものが込み上げてくる。
遺棄されていたところを幸いなことに発見され、なんとか一命を取り留めた芙美夏は、この園に預けられた頃、標準よりも痩せた小さな子どもだった。健康状態にはもう問題が無い程に回復していたが、しかしそうなるまで――危険な状態を脱したとの確信が持てるようになるまで、長い長い時間、呼吸をするのもままならない小さな身体で、必死に生き抜いてきたのだ。
乳児院から引き取る際に、そう院長が話していたという。
その事を思うと、目の前でおどおどと顔色を伺いながら、時には笑みさえ浮かべて、その子を探していると何の罪の意識もなさそうに平然と告げる女に、絵美は激しく怒りを覚えた。
みどりも勿論そうであっただろう。
しかし、ここにいる女が本当に芙美夏の母親なのか、説明通り誰かから頼まれた者なのかは、冷静に見極めなければならなかった。
みどりは、もう少し詳しい状況と、そして何故今更子どもを探す気になったのかなどを尋ねた。
極力感情的にならないようにと怒りを押し殺すみどりの気持ちは、絵美にも手に取るように伝わってくる。
あやふやな女の答えは、こうだった。
子どもの母親は今までどうしても探しに来られるような生活状況になかった。だがようやく暮らし向きが安定してきた時、昔自分が育てられず捨てた子どもの事をふと思い出し、不憫な事をしたと居ても立ってもいられなくなったのだ――と。
絵美は殆ど何の感情も伝わってこない女の言葉を聞いているうちに、我慢がならず声を上げてしまった。
「母親のくせにっ、これまで思い出しもしなかったって言うの。あの子は死んでもおかしくない状態だったのよ。あんなところに平気で子どもを捨てられるなんて、ただの人殺しじゃない」
「絵美先生、やめなさい」
みどりや副園長に止められながら、絵美は涙が零れて止まらなかった。
だが、そうして感情を露わにする絵美を、女はまるでその怒りをぶつけられているのは自分ではないかのように、ぼんやりとした目で見つめているだけだった。
「色んな事情があるのよ。人にはそれぞれね」
副園長に抱かれた肩を上下させる絵美の耳に、そんな言葉が届く。開き直ったかのようなぞんざいなその口調に、頭に血が上った。
「どんな事情なら、生まれたばかりの子どもを殺していいことになるって言うの」
尚も言い募る絵美を、みどりがさっきよりも強い口調で止めた。
結局女は、最後まで名も名乗らず、連絡先を告げることもなかった。
近いうちに必ずもう一度自分から連絡を入れるので、警察には決して言わないでくれと言い残し、逃げるように帰って行った。