高速に入った車は、どうやら他県へと向かっているようだった。
正巳が、懐かしいところに寄るとそう言った場所。それは恐らく、二人が幼い頃に過ごしていた施設――広葉野学園だろう。
確信的に思いながらも学園が近くなるまで実感が湧かなかった美月は、やがて車が緑に囲まれた公園に差し掛かったとき、思わず声を上げそうになった。
懐かしさに、胸が熱くなる。
この公園で、ここで初めて由梨江と出会った。全てはここから始まったのだ。
背後に流れていくその景色を、窓にへばりつくように振り返って目に映す。
「どうしたの?」
怪訝な声で尋ねる正巳を無視したまま、美月は胸に手を当て、あの日の由梨江の温もりや香りを思い出していた。
この選択は、きっと由梨江をも裏切ることになる。このままでは手の中にあった全てのものが嘘になってしまうのではないか。ふと、そんな思いに捉われた。
「降ろして」
「えっ?」
「まあ君降ろして。私、やっぱり帰る」
突然言い出した美月に、正巳は呆れたように肩を竦めてみせる。
「今更でしょ」
「お願い、帰して、もういいよ」
「駄目だよ。君は知らなくちゃ。あいつらが君から取り上げた芙美夏という存在を、僕が君に返してあげるんだから」
何度も降りると繰り返したが、結局無駄に終わり、気が付くと目の前に記憶に残る景色が広がっていた。
思わず言葉を無くす。まるで昨日までここで過ごしていたかのように、鮮明な記憶が蘇る。
車は、園の手前の道路際に停車した。
「覚えてる? 毎日通ってた道だよ。でもほら、園が随分綺麗になってるのわかる?」
親しげな正己の口調に、視線を塀の向こうに見える建物へと向ける。
「建て替えたの?」
美月はつい素で答えてしまっていた。
「あれ建てたの、二条だよ」
「え?」
「君を売った対価じゃない? 随分と高く見積もってもらったよね」
「どういうこと」
「君が引き取られたあと、二条ホールディングスの関連会社の一つが学園に多額の寄付をした。表向きすぐには二条との繋がりがわからない会社だ。君を引き取るにあたって、あいつらは随分と色んな条件を学園に飲ませたらしいからね。交換条件として二条家が申し出たことの一つが、この園を恒久的に支援するというものだったみたいだよ」
その話を聞いても、美月の中にそれ程の驚きはなかった。あり得ない話ではない。
「そういうこと……」
美月が引き取られたあの日、香川と共にいた見知らぬ男性が、園長室にそのまま残ったことを思い出していた。
「あんまり驚かないね。これくらい大した事じゃないか」
「そんな事はないけど……」
「ま、いいや。因みに今この園の園長は、みどり先生だよ。覚えてる?」
その名前に、美月の胸に懐かしい思いが込み上げた。学園で一番長く美月に接してくれた、自分を育ててくれたとも言える先生のことを思い出す。
しばらく園の建物を見上げていた美月は、顔を振り向けて尋ねた。
「もしかして懐かしい人って……みどり先生のこと?」
だが正巳はそれを否定した。
「先生に知られるとちょっと不味いんだ。じゃあ、そろそろ行こうか」
結局外から見ただけで、園には寄ることなく再び車は何処かへ向けて走り出した。
何を尋ねてみても、今度は押し黙って答えようとしない正巳に、やがて聞くのを諦めた美月は視線を窓の外へと向けた。
未だに迷いを断ち切れず、胸の内で針が左右に大きく振れている。
どれくらい走っていただろうか、速度を落とした車が停止し、正巳が閉じていた瞼を開いた。
「到着だよ。降りて」
座席に座ったまま周囲へと顔を巡らせてみると、車はマンションの前に止まっている。問うように正巳を見遣ると、いつものように読めない笑みを返される。
「懐かしい人に会わせてあげるって言ったよね。とにかく降りて」
――誰なんだろう
針が、知りたいという方に動く。
オートロックのマンションのロビーで、正巳はパネルに触れ、どこかの部屋を呼び出した。さほど待つこともなく応答したのは、女性の声だった。
「僕です」
暫くの沈黙のあと「どうぞ」という短い答えと共に、ドアのロックが解除される。
「今の人なの? ねえ、ここに誰がいるの?」
「君の知ってる人だよ」
「知ってるって、だから誰?」
「あ、今更やめとく、はナシだよ。大丈夫、相手は女の人だしここには彼女しかいないから、変な心配はしなくていいよ」
正巳はそう言うと美月の腕を取り、エレベータへと乗り込む。5階で降りると、正巳は右側二件目のドアの前で立ち止まった。
インターホンを押すまでもなく、鍵が開かれる。思いがけず強く握られた正巳の手を引き離そうとしていた美月は、薄く開いた扉から顔を出した女性を見て、動きを止めた。
――絵美、先生……?
柔らかなウェーブのかかったブラウンの長い髪、今は化粧気はないが、それでも綺麗な顔をした大人の女性だ。
記憶に残る面影より少し華やかな事を除けば、当時とそれ程変わりがないように見える。あの頃、確か新しく園で勤めるようになった絵美とは、短い期間ではあっても日常を共にしていた記憶が、美月の中にもはっきりと残っている。
怪訝な顔でこちらを一瞥した絵美は、僅かに表情を変え、すぐに正巳に視線を移した。
「正巳、誰なのその子?」
知っていた話し方とは違うその砕けた口調に、何故か鼓動が早くなる。
「わからない?」
正巳が、思わせぶりに笑みを浮かべた。
「わかるわけないじゃない。あなたの学校の子なんて」
「絵美……せん、せ」
再び絵美が、ゆっくりと美月へと視線を向けた。眉根を寄せ、しばらくの間じっと突然の訪問者を見つめていた瞳を僅かに見開き、正巳を険しい表情で見遣る。
「どういうこと?」
正巳は口角を上げたまま肩を竦めるだけで何も答えない。小さく溜息を落として、さっきまでとは少し違う眼差しが、こちらへと向けられた。
「芙美、ね。あなた」
美月が頷く。
絵美は、懐かしさと戸惑い、そしてほんの僅かに嫌悪の入り混じったような、複雑な表情で、美月と正巳を交互に見つめた。
「突然だしびっくりして。正巳、何にも言ってなかったから」
そう言うと、視線を外し身体を引いて扉を押し開ける。口調からは、歓迎はされていないのだろうことが伝わってきた。
「どうぞ、入って」
絵美の部屋は、シンプルな内装の2DKだった。
部屋に入ると正巳は、勝手知ったる様子でダイニングのソファーに腰を下ろす。そうして、後から入ってきた絵美に親しげに声を掛けた。
「せんせ、僕コーヒー、ミルク多めね」
部屋の入口で、その様子を戸惑いながら見ている美月の背を、絵美が押す。
「あなたもとりあえずその辺に掛けてて。同じものでいい?」
曖昧に頷きながら立ち尽くしている美月に向けて、正巳が自分の座るソファーの隣を叩く。
「ほら、芙美。ここ」
美月は、示されたソファーではなく入ってすぐのラグの端に、おずおずと腰を下ろした。
カウンターキッチンに入った絵美の姿は、そこを背にした美月からは見えていない。なのに、なぜか絵美の視線を感じる気がした。
我が物顔でソファーに座り携帯を触っている正己を、キッチンから絵美が呼び立てる。
「ちょっと取りに来て」
立ち上がるべきか迷うそぶりを見せた美月に、正巳は僅かに面倒そうな顔を向けてから、いつもの笑みを繕い立ち上がった。
「なーに? せんせ」
コーヒーメーカーのものらしき音にまぎれ、正巳が入っていったキッチンから、二人が小声で話す声が僅かに聞こえてくる。
会話の内容は、やはり黙って突然美月を連れて来た正巳への不満や、その意図を問いただすもののようだ。けれど、宥めようとする正巳の声色や、拗ねたような絵美の口調に、美月は次第に聞いてはならない会話を盗み聴きしているような、心地悪さを感じ始めていた。
気のせいだろうか、耳に届く声の断片の中に、男女の関係を匂わせる響きが混じっているように感じられるのだ。
美月はなるべく声が耳に入らないようにと身体を所在無げに動かした。とても落ち着いて座っていられない。
二人はいったいどういう関係なのだろう。もしかして恋人なのだろうか。
昔の二人の記憶が鮮明な美月には、俄には飲み込めない。けれど、恐らく当時二十代前半だった絵美の年齢を考えると、今の二人ならあり得なくはないのかもしれない。
他にたくさん考えなければならないことがあるのに、小さな声で交わされる会話が嫌でも耳に飛び込んでくる。
甘えを含んだ口調で許しを乞いながら、正巳がくすくすと笑う声がキッチンから漏れ聞こえてきた。やがて会話が途絶えたと思った途端、何かを飲み込むような微かな絵美の息遣いが聞こえた。
――え……?
美月は、思わず息を呑んだ。見えていないからおかしなことを妄想してしまうのだろうか、まるでキスを交わしているようなその気配に、顔が熱くなる。
「……んっ……ちょっと、正巳」
「……ね。絵美センセ、おねがい」
睦み合うような声色に、美月は、息を潜めて座り込んだまま、身動きひとつできなかった。
「じゃ、せんせ。これ先に持って行くね」
突然、何事もなかったかのようにわざとらしく明るい声が響き、正巳がキッチンからコーヒーカップを持って現れる。
美月はとっさに顔を伏せてしまった。顔が赤くなっていることを、正巳に見咎められたくなかった。
美月の横に立ち止まった正巳が、かがみ込んでくる。指がすっと熱を持った耳たぶを掠め、揶揄うように囁く声が耳元に届く。
「耳、真っ赤」
咄嗟に両耳を手で押さえると、正巳は目の前のガラステーブルにコーヒーカップを置いて、ソファーの元の位置に腰を下ろした。
「どうぞ。せんせのコーヒー美味しいよ」
俯いたままの美月に、正巳が楽しげに声を掛けてくる。
「どうかした? あれ、もしかしてコーヒー好きじゃない?」
パッと顔を上げると、正巳と目が合った途端にまた頬が熱を持つ。
「ごめん、何か聞こえちゃった?」
声を顰めた正巳の顔に浮かんだ笑みが、一瞬の後、仮面を剥がすように冷笑に変わる。美月は、顔の熱が急激に引いていくのがわかった。寒くもないのに肌が粟立つ。
出て行こうと立ち上がり、後ろを振り返ると、ちょうどキッチンから両手にペアのマグカップを持って出てきた絵美と目が合った。
先に目を逸らしたのは、絵美の方だった。
「ごめん、コーヒー嫌いだった?」
言いながら美月の横をすり抜け、マグカップの一つを正巳に手渡す。
美月は、背を向けた絵美に向けて頭を下げた。
「私、帰ります」
そう言って、返答を待たず玄関へと歩き出す。
「ここがどこだか、わかってる?」
楽しそうな正巳の声に答えることなく、靴を履こうとしたとき、後ろから更に声が追いかけてきた。
「東京から結構遠いよ。お金も携帯も持たないで、どうやって帰るの?」
手に持っていた鞄を慌てて漁る。携帯も財布も見当たらなかった。
振り返ると、マグカップを口元に当てた正巳が微笑んでいた。