和美が弾かれたように、美月を見遣った。功は、ゆっくりと顔を美月へと向けた。
「傷痕……あったわ。転んだ時に、落ちてたガラスで傷つけた痕が。まさか美月ちゃんあなた」
「今日だけじゃないよ。みいは前にも同じように、自分の足を鉛筆で刺した事があるんだ」
言いながら淳也は、泣き出してしまった。黙っていた重圧から解放されたためか今の動揺を引きずってか、堪え切れない嗚咽の合間に、どうにか声を絞り出して二人に話して聞かせた。
鉛筆の芯が皮膚に入り込むと、ホクロのような鈍い濃灰色が皮膚に残ることがある。どこでそんな事を覚えたのか、淳也がその行為を初めて目にしたときも、美月は誰にも言わないでと必死に懇願した。
鉛筆の時は傷自体はそれほどひどく見えるものではなかったので、その時は美月の願いを退けることが出来なかった。だが、試しに自分で腕に鉛筆を突き立ててみた時、その痛みと怖さに淳也は怯んだ。とてもそのまま力を入れて、皮膚を突き破ることは出来なかった。
偶然知ってしまった美月のそんな衝撃的な行為は、子どもの淳也が一人で抱えるには重いものだった。けれど、内緒にしてくれと必死で頼む美月がそうまでして守ろうとしているものを、どうしても誰かに話す事ができなかったのだ。
「……どうして、そんな」
和美が戸惑いながら、美月と淳也を見つめた。
「奥様が……みいに、美月のここには大きなホクロがあるはずなのに、どこに消えたのかって言ったって。だからみいは自分も同じところにホクロを作ろうって、……きっとあれがはじめてじゃない。それまでもそんな事があったんだ。誰も気が付かなかっただけで」
「じゃあ、今度もそうなの、そうなの美月ちゃん、奥様が何か仰ったの?」
和美が何度も問いかけたが、俯く美月は頑なに何も答えようとしない。
「きっと奥様がまたみいに言ったんだ、怪我の痕のこと。こんなのおかしいよ。奥様のせいだ。みいに傷がないのなんて当たり前じゃないか。なのになんでみいがこんな……お母さん、僕、鉛筆で自分の腕を刺そうとしてみたんだ。痛かった。怖くて出来なかった。けどみいは、それを自分でやってるんだ。ねえ、何でみいがこんな風に」
「淳也……」
声を震わせた淳也は、後はただ言葉にならない嗚咽を漏らした。
「――馬鹿じゃないのか」
そんな言葉が耳に届き、淳也は耳を疑った。頭に血が上り、気がつけばそれを口にした功に掴みかかってその身体を殴りつけていた。
「淳也っ、止めなさい」
和美が慌てて止めに入る。無抵抗な功に向けて泣きながら声を上げる淳也は、自分が何をしているのかもわかっていなかった。
「みいを見ようともしない功さんにはわからない」
和美に身体を羽交い絞めにされながらも、淳也は止めることが出来なかった。
「みいはいつも功さんの事心配してるのに。何で、なんでそんな事が言えるんだよ」
「どういう意味」
「いつだって、最初に功さんの様子がおかしいことに気付くのは本当は僕じゃない。みいだ。この前みいがひどい風邪をひいたのだって本当は――」
「美月ちゃんっ」
その時、和美が声をあげ美月の元に駆け寄った。先ほどと同じ場所でしゃがみこんだ美月を、すぐに抱き上げベッドへと運んで行く。
「みいっ」
淳也も慌てて和美の後を追いかけた。
「お母さん、みいは」
「大丈夫。多分貧血を起こしたんだわ。意識はあるから」
確かに美月は、運ばれたベッドの中で重そうな目を開けていた。
その時和美の電話が鳴り、医師が到着したとの連絡が入った。淳也と功をそばに呼んだ和美は、ここで美月を二人で見ておくように、くれぐれも美月の前でさっきのような言い争いをしないようにと強く諭してから、部屋を出て行った。
淳也は美月のベッドの側に立ち、功は部屋の入口の壁に凭れながら、二人とも無言で目を合わそうともしない。
「……淳ちゃん」
色を失くした美月の唇が、ポツリと名前を呼ぶ。
「みい、なに?」
「喧嘩、しないで」
淳也を見ている美月は、泣きそうな顔をしていた。
「お願い。功さんと仲直りして」
「だけど……」
「喧嘩なんてしてない」
納得がいかず頷けない淳也の代わりに、そう答えたのは功だった。
「僕が、淳也を怒らせるような事を言ったから、だから叱られただけだ」
淳也が顔を向けると、功は少し俯いていた。
「……そうだよ、みい。あれは喧嘩じゃない」
淳也は美月に向き直り、言い聞かせた。
「ホントに、ほんとに淳ちゃん、功さんのこと嫌いになったりしない?」
「しないよ」
「功さんも?」
問い掛けに、功は小さく頷いた。
「よかったぁ」
ホッとしたように笑ってから、美月は、目を開けているのがつらそうに目蓋を閉じた。
やがて和美が医師と看護師を伴い戻ってくると、二人は部屋を追い出された。
廊下で二人きりになると、淳也は自分が決して手を出してはいけない人を殴ってしまった事を思い出した。悪いことをしたとは思ってなくても、謝らなければならないのだろうかと考えていた。
「功さん……僕」
「謝ることない」
「……でも」
「それより、さっき言いかけたことを話して」
「さっき?」
「淳也の話だと、あの子が風邪をひいたのは僕のせいだって言いたいみたいだった」
「それは……」
「あの子の風邪は僕のせいなのか? 僕には本当に、何であの子があんな風にしてまで必死で美月でいようとしてるのかが分からないんだ」
「功さん?」
「あの子は、母さんのためだけにこの家に存在してる子だ。僕はあの子が何者なのかなんて興味もなかった。邪魔にならなければそれでいいって、そう思ってた。でもさっきは……本当にびっくりしたんだ。この部屋を覗いて血だらけのあの子を見た時、もしかして死のうとしたのかと思って」
そう言って淳也に顔を向けた功の少し青ざめて見える表情を見て、淳也は、功がどれだけ動揺していたのかということに初めて思い至った。
淳也は、ぽつぽつと話して聞かせた。
美月の育ってきた境遇。いつもこの家の中で彼女がどんな風に自分を抑えて振舞っているのか。
由梨江の些細な言動にどれだけ神経を尖らせているのか。
そしてそれを誤魔化すために、どんな風に自分の心や身体を自分で傷つけてきたのか。
誰も気が付かない功の変化に、なぜか美月だけが敏感に気が付くこと。
功が一人で心細いだろうと言ってきかず、こっそりと二人で部屋に行き看病をし、そのために風邪をひいたこと。
自分の知っていることはそれくらいだけれど、きっとそれだけじゃない――
功は、美月が風邪をひいた理由を聞いた時だけ、少し驚き何かを考え込むような顔を見せた。けれどそれ以外は、最後まで口を挿むことも表情を変えることもなく、ただ黙って話を聞いていた。
そうして、その日から、功の美月に対する態度は少しずつ変わっていった。
表立って話しかけたり親しく振舞うことはなかったが、功の中に美月という存在が確かに意識されてきていることに、淳也は気が付いていた。
美月を見る時の目つきが少しずつ柔らかなものになった。
美月がそうするように、功も淳也を通して彼女の様子を尋ねたり気に掛けるようになっていった。
そうやって少しずつ少しずつ。功にとって美月は、自分が守ってやるべき人になっていったのだ。ただ、功の中で美月の存在が大きくなるにつれ、功にはその気持ちを押し隠す必要が出てきた。
美月がこの家に引き取られていることを面白く思わない人間は大勢いた。二条の縁続きの者、由梨江の親族、屋敷で働く者の中にも、育ちの確かでないどこの誰とも分からない子どもを二条の屋敷に引き取っていることに不快感を隠さない者がいて、露骨に美月を無視したり、聞こえよがしに陰口を言ったりする者もいた。
二条の持つ莫大な資産、そしてこの家の持つ地位や名声がゆくゆくは美月のものになってしまうのではないか――。ほんの僅かでも、その様な懸念を抱かせる芽が存在することに、そういった人々はとても過敏だった。
美月が二条ではなく香川の養子であることが分かった後も、功と美月に万一の事があってはならないと、美月を二条の屋敷で育てていることに苦言を呈するものが少なくはなかった。
ただ、目を光らせている永の手前、そのようなことを直接由梨江の耳に入れる勇気がある者は存在しなかっただけのことだ。
功が美月に無関心だったことは、彼らからすれば一つの好材料として捉えられていた。
そんな周囲の大人たちの胸中に気が付いていた功は、だから決して、表立って美月に関心を示す事はなかった。これまでと同様、傍から見れば無関心で冷たいと感じられるような態度で美月に接することで、意図的に彼女をそのような声から守るようになっていったのだ。
彼らに付け入る隙を見せれば、どんな形にせよ居場所を失うのは美月なのだということを、功も淳也も、子どもながらにもう十分わかっていた。