ある日、学校から戻った淳也は、母を探してキッチンルームに顔を覗かせたところで、飛び出して来た功と鉢合わせた。
「美月が……」
珍しく動揺した様子の功が、美月の名前を口にしたことに驚きながら、その手にあるものに目が止まる。
「怪我したんですか?」
迫るように問うた淳也に頷いて、功は薬箱を抱えて走り出した。
後を追いかけると、功が入っていったのは美月の部屋で、中で蹲るその姿を見た途端に淳也は血の気が引いた。
美月の右手にはハサミが握られ、左手には血に染まったタオルが巻かれている。そんな状態でありながら、二人に目を留めると青ざめた顔で必死に懇願してくる。
「お願い、ママには言わないで。お願い」
美月に近づいた功は、固まった指を剥がすように、右手からハサミを取り上げた。それをタオルに包むと、厳しい表情を崩さないまま口を開いた。
「腕をみせて」
「大丈夫、大丈夫だから。ママには言わないで。お願い」
美月は、怪我を負っているらしい腕を後ろに引きながら、功に必死で訴えかけている。
「淳也、母さんに見つからないように和美を探して来て。絶対に母さんには知られるな」
我に返った淳也は、部屋を飛び出した。庭先にいた和美を伴い戻ってくると、さすがに功もホッとしたような顔を向ける。
「美月ちゃん」
慌てて美月の元に駆け寄った和美は、功が止血のためにタオルを巻いて押さえていた腕を、そっと掴んだ。
「どうしたのこの怪我、いったい何が」
「ごめんなさい……ごめんなさい」
美月は、そんな風に小さな声でごめんなさいと繰り返すばかりだ。埒が明かず功へと顔を向けて、和美は厳しい表情で問いかけた。
「何があったんですか」
「廊下の前を通った時に、中からおかしな声がきこえたんだ。扉が少し開いていたから部屋の中を覗いてみたら、こんなことに」
眉根を寄せた功は、答えながら顎の先で美月を示した。
「美月ちゃん、ちょっと我慢して」
和美がタオルをそっと剥がすと、流れた血の痕で赤く染まった腕は、今は出血が止まっているようにも見えた。けれど少し見ただけでも、傷口は、開くとすぐに新たな血が流れ出るほどに深いことがわかる。
「どこが大丈夫だ」
功が呆れたように呟く。
「淳也、奥様をお呼びして」
「駄目っ」
止めようと必死になるあまり咄嗟に手を動かしてしまった美月が、顔を痛みに歪める。腕の傷がまた開いたようで、血の滴がスカートにぽたぽたと落ちた。
「ちゃんと手当てしないと駄目よ。ねえ美月ちゃん、いったい何をしてこんな――」
「ハサミだよ」
二人を見下ろして、功が口を挟む。和美と淳也が顔を向けると、美月は下を向き俯いてしまった。
「何をしようとしてたのか知らないけど、ハサミで切ったんだ」
「ハサミって……本当なの美月ちゃん」
眉根を寄せた和美が、問い詰めるように美月を見遣る。
功は、呆然としている淳也に、タオルを持ってくるように指示をした。慌てて言われた通りタオルを手に戻った淳也が、止血のため腕を強く抑えた和美にそれを渡すと、厳しい口調で母が淳也に言いつけた。
「淳也、とにかく奥様を呼んで来なさい」
「だめ、お願い、お願いします。ママには言わないで。お願い。お願い、ごめんなさい、ごめんなさい」
美月は首を横に振りながら、何度もそう繰り返す。その様子をみていた功が、溜息を吐いた。
「和美、美月がハサミで怪我したなんて言ってこの状態を母さんに見せてみろ。あの人がどうなると思う? とにかく治療が先だ。治療してから母さんにはどこかで転んで怪我をしたとでも言って誤魔化すしかないよ。それだってまた当分、この子を離さなくなるだろうけど」
冷静に告げる功の言葉に、しばらくの逡巡の後それが最善だと判断したのだろう、和美は淳也に美月の傷をしっかり押さえておくように指示して、掛かり付け医に電話を入れた。
往診の希望に続けて、それまでの対処方法を確認した和美は、電話を終えると美月の腕を少し高く持ち上げて立たせた。
「和美、今日は母さんは?」
「旦那様と夕食のご招待を受けられていますので、そろそろご支度中ではないかと」
小さく舌打ちをした功は、冷たい声で言い放った。
「どうせ怪我するんなら母さんが出かけてからにすればよかったんだ」
「功さんっ」
その言葉に、淳也が声を荒げる。和美も驚いたように目を見開いていた。
「ごめんなさい」
静まり返った部屋に、もう一度、小さな美月の声が響いた。
和美が美月を伴い洗面所へと消えたあと、淳也は功に詰め寄った。
「なんであんなひどいこと」
睨み付ける淳也にも、功は冷たい視線を向けた。
「母さんにそこまで知られたくないのなら、いないところで怪我すればいい。そう言っただけだ。いったい何をして自分の腕を切ったのか知らないけど、実際こうして皆に迷惑を掛けてるじゃないか」
「迷惑って、怪我なんて誰だってわざとするわけじゃない」
「どうだか。母さんに言うなっていいながら、本当は気を引きたくてわざとやったのかもしれない。それが思ったより傷が深くなって」
「みいはそんな子じゃないっ。だいたい、そんな事しなくたって奥様はみいにべったりじゃないか」
そう言った後、不意に淳也の頭の中にある光景が浮かび、そのままその場で固まってしまった。
「わざと……」
呆然とそう呟き、美月と和美のいる洗面所の方へと慌てて向かう。
洗面所から出てきた美月は、血の付いた場所を洗い流し、和美に腕を持ち上げられたままの傷口には、新しい布が巻かれていた。血で汚れたスカートも、パジャマのズボンに着替えている。
「みい、もしかして」
近付いてくる淳也を、美月の大きな目が見上げた。
「またわざと傷をつけようとしたのか」
途端に、目を見開いた美月は視線を彷徨わせた。
「そうなんだろ。傷をつけるためにやったんだろ」
「傷をつけるって、それどういうこと淳也。これ、わざとやったっていうの? そうなの美月ちゃん」
和美が戸惑ったように淳也と美月の顔を見比べる。美月はすっかり俯いて首を横に振るだけだ。その姿に、あり得ないと思う皆の疑念が、確信へと変わっていく。
「まさか……本当なの? どうしてそんなことを」
困惑した様子の和美は、屈み込み美月の顔を覗きこもうとした。
「今度は何て言われたんだよ」
淳也が美月を更に問い詰める。そうしながら、泣きそうになっていた。流石に功も、本気で美月が自らハサミで傷を作ったとは思っていなかったようで、驚いた顔をしている。
「本当に、わざと怪我をしたのか」
「違うの、髪の毛を切ろうとして、転んで切ったの。本当なの」
美月が、顔を上げ三人に向けて言い放つ。だが美月が必死で言い募るほどに、淳也の言葉が信憑性を増すだけだった。
和美の厳しい目が淳也へと向けられる。
「淳也。どういうことかきちんと話しなさい」
「だめっ淳ちゃん」
美月は必死で止めようとしていたが、最後に淳也の躊躇いを断ち切ったのは、功の静かな、だが有無を言わせぬ声だった。
「話せ、淳也」
淳也は、美月の目を見ることができないまま、和美を、そして功へと視線を移し、口を開いた。
「お母さん……本当の美月様のここに」
怪我を負った美月の腕を指差す。
「何か傷痕がなかった?」