(功・美月・淳也)
美月がこの家に引き取られた頃の功は、彼女をまるで存在しない者のように扱っていた。
時に見せるのは、冷たい程の無表情か、ともすれば侮蔑を含んだようにさえ見える視線で、由梨江が美月の側にいる時、ごく偶に由梨江のために会話をしてみせる程度だった。
美月への接し方を掴み損ねていた淳也から見ても、その態度は困惑を覚えるほどのものだった。
二人でいる時も、美月の事を話題にすると途端に不愉快そうな顔を見せる功に、淳也は、一度だけ「美月が嫌いなのか」と確かめた事がある。
「興味ないよ。嫌う理由も意味もない。それにあの子は、美月じゃない」
それが、その時の功の答えだった。
美月は、功に対しても淳也に対しても遠慮や恐れのためか、余り自ら近付くことはなく、子犬の件があるまで、淳也に対しては顔を合わせると少しはにかんだ笑顔を見せる程度で、功に対しては、いつの頃からか目が合った途端に視線を落としてしまう、そんな子どもだった。
けれど美月は、当時から驚く程に、功の体調や感情の変化に敏感だった。
何度も物言いたげな視線を淳也に送ってくることに気がついて、どうしたのかと尋ねると、功は熱があるんじゃないか、と拙い言葉で何とか伝えようとしてくる。
普段通りにしか見えない様子に、笑って否定したものの、余りに真剣な表情で訴えかけてくるので確かめてみると、その通りだったというような事が何度もあった。
淳也が親しくなってからは、体調だけでなく、その日の機嫌についても教えてくれるようになった。
功は将来に備え、ほんの小さな頃から、他人に感情を気取られる事のないよう、コントロールの仕方を教え込まれていた。
側にいる事の多い淳也には、それなりに素の部分を見せることもあったが、そんな淳也でさえも気が付かない微細な変化に、なぜか美月だけが気付いた。
初めのうちはそれでも半信半疑だった淳也も、何度かそういったことが続くうち、すっかり美月の言葉を信じ頼みにするようにさえなっていた。
その週末は大きなパーティーが屋敷の本館で催され、大人はほとんどが接待や、準備、裏方として忙しく駆け回っていた。
そんな日に、功は酷い風邪をひいて部屋で寝込んでいた。
医師の診察をうけしばらくは看護師が付き添っていたが、明らかに流行性の感冒であったため、夜には注意事項を言い残し、引き上げていた。
功に何かあってはと、使用人が一定の時間毎に交代で様子を伺い看病をしていたが、その日のパーティはかなり規模も大きく、二条夫妻、香川夫妻はともに持ち場を一歩も離れられない状況だった。
淳也は、面倒を見るようにと言われていた美月と二人、本館の一室で夕食を取り、宿題に取り組んでいた。人形で遊んでいた美月は、しばらくすると少し躊躇ったように「淳ちゃん」と小声で淳也を呼んだ。
「みい、もうちょっと待って」
遊びの催促だろうかと顔も上げずに答えると、一度口を噤んだ美月は、少しの間を置いてもう一度淳也に呼び掛けた。
「あとちょっとで遊べるから」
「淳ちゃん、あのね……功さん、熱があるのに一人ぼっちで、きっと淋しがってる」
予想もしなかった言葉に、顔を上げる。
「功さんなら大丈夫だよ」
「ちがう、大丈夫じゃないよ。ねえ、淳ちゃん」
「大丈夫だって」
いくら大丈夫だと言っても、美月は頑として譲らなかった。
風邪がうつるといけないから、功の部屋には近寄るなと強く言われていたが、確かに、自分が病気の時のことを思ってみれば、そばに母親がいることに無性に安心感を覚えるところはあった。
功に限って、と思わなくもなかったが、気になり始めると落ち着かなくなり、私はいい、という美月を逆に説得し、二人で功の様子を見に行くことにした。
部屋をノックしたが反応はなかった。
そっと扉を開けて覗き込むと、部屋の奥、ベッドルームから時折咳き込む声が聞こえる。
一応は名前を呼び掛けながら、奥へと進み扉をそっと開けた。
こちらに背を向けてベッドに横たわる身体が、大きく苦しそうに呼吸を繰り返し浮き沈みする。熱が高いのだろうか、その様子はとても辛そうに見えた。
もう一度功の名前を呼んでみたが、返事はなかった。眠っているのかもしれない、確かめてみようかと迷っていたその時、淳也の脇を擦り抜けた美月が、足音を忍ばせベッドのそばへと走り寄った。
「みい」
小声で呼び戻そうとするが、美月は功の顔が見える場所から、人差し指を口に当てて静かに、という仕草をしてみせた。
眠る功に近づいた美月は、小さなその手を、どうやら眠っているらしい功の額にそっと宛がった。
その時――
「ママ……」
と、小さく呟く功の声が聞こえた。そうして、ゆっくりと動いた手が額に置かれた美月の手を緩く握った。
功が、初めて子どもに見えた。淳也が美月に視線を向けると、どこか泣きそうな顔をした彼女がそこにいた。
寝ぼけていたのか、功ははっきりと目を覚ましたわけではないようで、しばらくするとその手が力なくベッドに落ちた。
息を潜めてその様子を見ていた美月は、そっと額から手を離し、そして子どものくせに妙に大人びた仕草で、ぎゅっと眉をひそめた。
また功が何度か咳き込む。
美月は、ぼうっと立っている淳也の後ろに回り「こうすると気持ちがいいんだよ」と、背中を撫でてみせた。そうしてやれと、教えてくれようとしたのだろう。
言われたとおり、大きく呼吸を繰り返す功の背を撫でるうちに、咳が次第に落ち着いてきたような気がした。
額に宛がわれていたタオルがベッドの下に落ちてしまっているのに気が付き、それを拾い上げようとした時、寝室を出て何かゴソゴソしていた美月が戻って来た。
中に沢山氷水が入った洗面器を、溢さないようにゆっくりゆっくりと運んでくる。頼りなげなその姿に、淳也はすぐに走り寄り、代わってそれを運んでやった。
冷たい洗面器の中に躊躇いなく手を入れた美月は、新しいタオルを絞り功の額にそれを乗せる。小さな美月は、とても手慣れた仕草で水を含んだタオルを上手に絞っていた。
その様子を見つめながら淳也は、掃除すら外部の業者が行うあの学園の生徒達の中に、布巾や雑巾を上手に絞れる子どもがどれくらいいるだろうか――と、そんなことをぼんやりと考えていたのを覚えている。
見回りの使用人がやってきて、彼女に部屋を追い出されるまで。
淳也は功の背を撫で続け、美月は熱を吸い込んだタオルを時折交換して、大人の見よう見まねで、二人で甲斐甲斐しく功の看病を続けた。
様子を見に立ち寄った使用人は、さっきよりも深く眠っている功の様子に安堵の息を漏らしていた。
「風邪、早く治るといいね」
そう言いながら、口元に手を当て息を吹き掛ける美月の小さな手は指先が赤くなっていた。
手を伸ばして握ったその手はとても冷たくて、淳也は自分の両手で包んで温めてやった。
もともとが健康な功の症状は、翌日にはかなり落ち着き、週明けにはもう淳也と学校へ行けるほどに回復した。
そして美月は、風邪をひいて寝込んでしまった。
功が風邪の時は付き添うこともなかった由梨江は、美月の病状には神経を尖らせ、そばで片時も離れず看病をしていた。
熱が下がった後も、数日の間は外へ出しても貰えず、淳也も会うことができなかった。
学校へ通い始めた功は、あの夜、淳也と美月が部屋に来ていたことを覚えていないようだった。
相変わらず美月には無関心な功に、淳也は何度か、美月が風邪をひいた理由を話してやりたいと思った。
けれど――
「ママが側にいたって思ってくれたよね」
そんな風に満足げに言っていた美月の気持ちや、熱にうなされた功の母親を呼ぶ小さな声を思うと、何故か伝えることができなかった。