(美月と淳也)
父が二条家に彼女を連れてきたのは、淳也が小学部四年の秋のことだった。彼女は小学一年生の割には小さな女の子で、どことなく見た目が美月様に似ていた。
細い身体に大きな目、父に手を引かれた彼女は、妻と息子だと父から和美と淳也を紹介されると、頬を赤くしてはにかんだ。
父に促された彼女は、大きなはっきりとした声で「こんにちは」と挨拶をして、和美と淳也とを抑えきれない好奇心で輝いた瞳で順々に見た。
「えっと……み、づき?」
どう名乗るべきかわからなかったのだろうか、口ごもり父を見上げた彼女の目の前に屈みこんで、父は、視線を合わせて穏やかな口調で、噛んで含めるように言って聞かせた。
「さっき言ったね。これからは、君の名前は美月になるんだよ。そう言ってみなさい」
「美月です。よろしくおねがいします」
父から予め事情を説明されていた二人は、複雑な思いを抱えながらも挨拶を返した。
父からは、これからは彼女を自分の妹だと思って大事にするようにと、淳也は強く言い聞かされた。
けれど同時に、形式上は香川家に養子として入ったものの、純粋に香川の娘になった訳ではない美月に対して、淳也には、彼女が奥様と一緒に過ごすときには二条美月様として、そしてそれ以外の時には香川美月として接するようにという、歪な区別も求められた。
それだけに淳也は実のところ、新しく美月として、美月様の身代わりに二条家に引き取られた女の子に、最初の頃はどのように接していいものかわからず戸惑っていた。
生きていた頃の本当の二条美月は、身体が弱くそして非常に我の強い、良くも悪くもあらゆる意味で本当のお嬢様だった。淳也のことは、最初から自分の従者であるように扱っていたし、遊び相手というより遊び道具にされている感覚に近かった。
だから、彼女が事故で亡くなった時も、正直なところ大きな悲しみが込み上げるようなことはなかった。ただ子どもながらに、それまで存在していた人間がこうも容易くいなくなってしまうのだということに、少なからず衝撃を覚えた記憶は残っている。
美月として引き取られてきた当初、奥様がその存在をそばに置いて離そうとしなかったため、美月は学校も可能な限り休み、家で勉強を見てもらっていた。
そんな風に出会って間もない頃は、二条美月として、殆どの時間を二条家で奥様の娘として過ごす美月と接触をもつ機会も少なかったこともあり、人に対してそれほど物怖じする事のない淳也も、彼女との距離のとり方を図り損ねたまま、月日が流れていった。
顔を合わせると、いつも美月は少しはにかみながら笑みを浮かべた。それに対して、淳也はどんな顔をすればいいのかわからず、ぎこちない笑みを返していた。
そんなある日、淳也が学校から戻り家に鞄を置いて屋敷の本館――功のところへ向かおうとしていた時、庭の隅を隠れるように門に向かって歩いていく美月の姿を目にした。
一瞬迷ったが、気になった淳也はそちらへと走って行った。近づいてくる足音に、美月が明らかに慌てて手にしていた箱を後ろ手に隠すのが見えた。
「美月……様」
詰まりながらそう呼びかけた淳也に、美月は相手が淳也だとわかってホッとしたような笑みを浮かべる。その顔を見ながら、本物の美月はこんな風に僕に笑いかけることはなかった、と、そんなことを思っていた。
「どこへ、行くんですか」
「あの……あっちの公園」
その時、小さな手が抱える箱から、かさかさと何かが動くような音と、小さな鳴き声が聞こえてきた。
「それ、何?」
興味をそそられた淳也は、すっかり素に戻って尋ねていた。美月は迷うように目をうろうろさせている。
「大丈夫。誰にも言わないからさ。見せてよ」
わくわくしながらその箱を指差すと、美月はゆっくり箱を下ろし、周囲に視線をやって人がいない事を確かめた。
「誰にも言わない?」
内緒の話をするように、小さな声で下から上目遣いで見てくる。淳也もそこに屈みこんだ。
「言わないよ」
「淳也君のお父さんにも言わない?」
「言わない。淳ちゃんでいいよ」
少し言いにくそうに淳也君と呼びかけた美月にそういうと、彼女は頷いて、そっと数箇所に穴の開いた箱の蓋を持ち上げた。
蓋が開いた箱の中から、キュンと微かな鳴き声を上げて、小さな子犬が飛び出す。
「あっ、だめ」
箱を膝に載せたまま追いかけようとしてバランスを崩した美月の変わりに、淳也が子犬を追いかけ捕まえて戻ってきた。
「ほら」
その子を座り込んでいる美月に抱かせる。美月は愛おしそうに子犬の身体に顔を沈めると「ありがとう」と、淳也に笑みを見せた。
「そいつ、誰かに貰ってきたの? それとも拾ったとか?」
「学校の帰り道に、公園のところで捨てられてるのを柿崎さんと見つけたの」
柿崎は、二条家の運転手である。
「飼うの?」
「ううん」
「じゃあ、どうするの?」
「公園に……連れていくの」
「なんで? 連れて帰ってきたんだろ」
「うん」
「じゃあ、ここで飼ってもらおうよ」
そういった淳也に、口を噛み締めた美月は子犬を抱きしめたまま首を横に振った。
「だめって」
「なんで」
「だって……美月ちゃんは、犬が大嫌いだったって」
泣きそうになりながら頑なに首を振る美月を、何も言えずじっと見つめた。
「犬に追いかけられて怪我をしたって、それからどんなに小さな犬も怖がってたって」
「誰がそう言ってた?」
美月は首を振るだけで何も言わない。奥様か使用人の誰かが、それを美月の耳に入れたのだろう。
確かに、小さなころ美月様は、犬にイタズラをして追いかけられ、転んだ拍子に地面に埋まっていたガラスで大怪我をしたことがあった。それ以来犬を見るだけで泣き出したり、ときには物を投げたりしたことを思い出した。
「それで、こいつをどこかの公園に連れて行こうとしてたの」
美月は頷く。
「ここで待ってて。僕が戻るまでどこにも行っちゃだめだからね」
少し考えてから、淳也は美月にそう言いおいて屋敷の方へと向かった。
「一緒に来て」
しばらくしてから戻って来た淳也は、庭の隅で子犬を撫でながら待っていた美月の手を掴んだ。
美月を連れて急ぎ向かったのは駐車場で、そこには、車のエンジンをかけて待っている柿崎がいた。
「淳也さん、申し訳ありません。私が気をつけていたらよかったんですが」
その謝罪が、自分が犬を連れて帰ってきたせいだと思ったのだろう美月は、柿崎の前で項垂れた。
「ごめんなさい。連れて帰るってわがまま言って。ごめんなさい」
小さな身体で謝る美月の頭に、柿崎は優しく手袋をした手のひらを乗せた。
「子どものあなたが謝ることはないんですよ。こんなことは我侭のうちには入りません。うちで……飼ってあげられればよかったんですが」
申し訳なさそうな顔で、二人を見遣りながら柿崎はそんな言葉を美月に掛けた。それから、柿崎の運転で向かった先は、淳也の同級生の家だった。
二条ほどではなくても山手の広いその家の門の前で、淳也が同級生に礼をいいながら、途中で買ったキャリーケージに入れた子犬を手渡す。淳也は、犬を飼ってくれそうな友達の何人かに電話を入れ、その中の一人が引き取ると言ってくれたのだった。
子犬を渡すとき、美月がもう一度だけ抱かせて欲しいとお願いをした。
「よかったね。おうちが見つかって」
腕に抱いた小さな温もりに、美月はそう話しかけていた。そうして淳也の友人に引き渡すと、名残惜しそうにその場を後にした。
「淳ちゃん、ありがとう。ありがとう」
帰りの車の中で、何度もそう笑いながら初めて自分を淳ちゃんと呼んだ美月に、淳也の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
少し大きくなってから美月の境遇をはっきりと理解したとき、淳也は、この日のことを思い出した。
捨てられていた子犬を拾った美月、その子犬を自分の手で再び捨てに行こうとしていた美月。その気持ちを考えると、子どもながらに、胸が痛かったのを覚えている。
それから、淳也は美月と急速に打ち解けた。
父に言われたように、彼女を自分の本当の妹のように守ってやりたいと思うようになるのに、それ程時間は掛からなかった。
美月は、驚くほど聡明な子どもだった。そして人の感情に敏感だった。ほんの七、八歳で、自分が美月として振舞うために何を求められているのかを察して、そのように行動するのだ。
美月と親しくなって、いくつかわかったことがあった。本当の彼女は、体を動かすのが好きで好奇心もとても旺盛だ。動物も勉強もとても好きなようだった。けれど二条美月であるために、彼女は体が弱く運動も苦手な振りをし、動物は余り好きでないと言い、勉強もすぐに投げ出してみせて、奥様にわざと世話を焼かせるのだ。
本物の美月がそうであったように――。
学校にあまり行くことのできない彼女には、たまに通う学園には友達がおらず、学園の中ではいつも一人で過ごしていた。だが家に帰ると、奥様を相手にして今日学園で遊んだお友達のことを話して聞かせるのだ。
美月として奥様に愛されるために、彼女は本当の自分を封じ込めてあの屋敷の中で過ごしていた。
その不自然さや歪さに、何度か淳也は父に疑問や怒りをぶつけたことがある。しかし父は、苦い顔をするだけでそれに答えることはなかった。
ただ、そうやって美月が必死で守ろうとしている奥様からの愛情を、取り上げてはならないと。いつも美月の味方でいて、あの子の力になってやりなさい。と、父はどこか祈るような切実さで、そう淳也に言い聞かせた。