本編《Feb》

第二章 二日月9



 生徒会長室を足早に後にした美月は、トイレの洗面台で何度も口をゆすいでから、昼休みが終わるぎりぎりのタイミングで教室に戻った。
 周りを取り囲んだ友人たちが口々に何か質問しようとしていたが、すぐに授業の開まりを知らせる音楽が流れ、名残惜しそうに席へと戻っていく。
 授業が始まると、背中をつつく感触があり、藍から小さく折りたたまれた紙が手渡された。
『大丈夫? 何言われたの?』
 小さな文字でそう書かれた紙に、美月はすぐに返事を書き入れて、振り向かずに後ろの席へと返した。
『生徒会長として、淳ちゃんの話が聞きたかったみたい』
 きっと、信じてなどいないだろう。
 けれど、振り向くことさえしない美月に、藍はそれ以上何も尋ねてはこなかった。

 翌朝、通いの使用人が用意した朝食をダイニングで済ませ外へと出ると、目の前にいつもとは違う車が停車していた。昨日乗せてもらった淳也の車だ。美月が出てきたのを見計らったかのように、助手席の窓が下がる。
「乗って」
 顔を覗かせた淳也の表情には、全く笑みがない。気まずい思いをしながら、ドアを開けて美月が乗り込むと、車は静かに動き始めた。
 淳也は何も話そうとしない。ただ黙って口を引き結んだまま運転をしている。十分程はそうして沈黙の重さが増してく車内の空気に耐えていたが、ふと何か違和感を覚えた気がして、美月は視線を窓の外へ移した。
「淳ちゃん……これ、どこに向かってるの」
 淳也の方を見ても微動だにせず、前を見つめたままだ。
「ねえ、これって学校にいく道じゃない」
「みい、その前に何か言うことないか」
 ようやく口を開いた淳也が発したのは、そんな言葉だった。
「淳ちゃん、学校に間に合わなくなる」
「間に合わないどころか、行けないかもな」
 淳也の返事に、焦りと不安が膨れ上がっていく。もしも今日学校に行かなければ、きっと正巳は、それが美月の出した答えだと思うだろう。
 正巳が何を考え、何をしようとするのかはわからないが、彼は決して脅しだけで済ませるような人間ではなかった。
「なんで淳ちゃん、こんなこと……昨日連絡、返さなかったから?」
 正巳からの連絡を避けるためだ――と、それを自分への言い訳にして、昨日は携帯に入る連絡を殆ど無視した。本当は、淳也や藍からの追及を避けたかったのだ。悪手だとわかっていても、嘘を重ねる後ろめたさから、少しでも目を逸らすことを選んでしまった。
 淳也は、ちらっと美月を横目で見ただけで、また何も言わなかった。
「お願い、戻って。謝るから、だから」
「謝るって何を」
 冷たい声に、思わず口を噤む。こんなに怒っている淳也を見るのは久しぶりだった。本気で怒っている。美月を心配しての事だとは勿論わかっていた。
 それでも、美月は必死で言い訳を考えていた。とにかく何とか学校に連れて行ってもらわなければならない。だからといって、淳也を薄っぺらい嘘で騙すことは出来ないし、通用もしないだろう。
「昨日、みいに何回連絡入れた?」
「……8回くらい」
「電話は?」
「……4回」
「それなりに気にしてたんだ」
 返す言葉が出てこない。
「なに? 俺がみいのストーカーしてるとでも思った?」
「ちがっ……」
 美月は、どうにか首を横に振った。
「普通そんなに連絡あったら、何かよっぽどの事だって思わない?」
「……ごめんなさい」
「思わないか?」
「……思う」
「なのにみいは、連絡しなかったんだ」
「ごめんなさい」
「謝って欲しいわけじゃない。わかっていながら連絡してこないのは、何か疾しい事があるからだろ。連絡して聞かれたくない事があるからだ。違うか?」
「ごめん」
「だから、謝らなくていい。俺が聞きたいことに答えて」
「何を」
「わかってるんだろ。昨日俺があれだけ連絡してた理由」
「それは……」
「昨日の朝の電話、あれ本当に知らない人だった?」
 美月は自分の顔が強ばるのを感じた。
「本当に何もない? 俺が心配するようなこと、本当にないのか?」
「……ない」
「じゃあ、着信見せて。何もないなら構わないだろ」
「嫌」
 着信を消しておくべきだったと、今更ながらに悔やむ。
「やっぱり何かあるんだな」
 顔を横に何度も振りながら、美月はそのまま俯いてしまった。もはや何も話さずにこの場を切り抜けることなど、無理だろう。

 しばらく車内で二人して押し黙ったままで、外の景色だけが流れていく。気が付けば授業の開始時間は過ぎていて、車は海に架かる大きな橋を渡っていた。
「なあ……何で言えないんだ、何がある」
 橋を渡り終えたところで、漸く、淳也が口を開いた。
「……それは……約束、したから」
「誰と、何の? 内緒にするって約束なのか、誰にも話さないって」
 やがて淳也は、海浜公園内にできた駐車場に車を止めた。
「人に言えないような事してるのか? それとも、誰かに何か弱味でも握られてるとか」
 美月は矢継ぎ早に繰り出される問いかけに、思わずスカートを握りしめた。顔を上げることも出来ず、何も答えようとしない美月の耳に、大きな溜息が聞こえた。続けて、運転席からガタっという音がして、淳也がシートの背もたれを倒した。
「持久戦だな」
「えっ」
 思わず顔を上げると、淳也は倒したシートに凭れ、頭の後ろで手を組み目を瞑っている。
「みいが話すまで、戻る気ないよ」
「淳ちゃん……学校に連絡させて」
 何とか、正巳に連絡を入れる手段がないかと考えてみるが、淳也は上手をいっていた。
「学校には連絡してある」
「うそ……」
「じゃ、喋る気になったら起こして。そうそう、車から出て歩いて帰ろうなんて考えるなよ。すぐに追いつくから」
 美月が考え付きそうなことには全て先手を打ってくる。やがて、車内をまた沈黙が支配した。車の立てる音が遠くからかすかに聞こえるだけだ。
 二人が立てる息の音が、やけに大きく聞こえる気がした。
「淳……ちゃん」
 淳也は無反応だ。本当に眠ってしまったのかと顔を向けると、目を開けてこちらを見ている。美月は、すぐに目を逸らしてしまった。
「……話すから。ちゃんと言うから。一つだけ約束して」
「何を」
「絶対に誰にも言わないって」
「聞いてから考える」
「じゃあ、言わない」
「学校行けなくなるけど」
「いい。もうどっちでも」
 美月は半ば自棄になってそう答えた。
「だって」
「だって何?」
「約束したから。私、絶対に守るって」
「だから誰と、何を」
「香川さんと」
 淳也が驚いたように、上半身を起こす。
「何でここで父さんが出てくる」
「淳ちゃんのお父さんと、私がここに引き取られる時に、約束したことがあるの」
「学校とか友だちのこととじゃないのか」
 その言葉を聞いて、淳也がどういうことを想像し心配していたのか少しわかった気がした。
 けれど、自分はもう既に今、違う蓋を開いてしまった。開いたからにはその箱の中身を見せなければ、淳也も納得などしないだろう。
「だから、約束してくれないなら言えない。絶対に誰にも言わないって。淳ちゃんのお父さんには、知られるわけにはいかないから」
 淳也はしばらく逡巡したあと、シートの位置を元に戻し、美月のほうに顔を向けた。
「わかった。約束する」

タイトルとURLをコピーしました