本編《Feb》

第二章 二日月8



 シャワーブースから出て軽く髪を乾かすと、肩にタオルをかけたままベッドルームに戻り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。キャップを開けると、冷たい水を喉の奥へと流し込んだ。
 ホテルの上層階、優に八十平米を超える広さをもつ部屋の窓から、キラキラと光る夜景を見下ろす。
 気だるげな吐息に少し遅れてベッドサイドのランプが灯り、ガラス張りの窓に、キングサイズのベッドにうつ伏せている女の肩から腰までの柔らかな素肌のラインが映し出された。
『ねえ……。私、今日はここに泊まっても構わないかしら』
 フランス語特有の鼻にかかる抑揚の少ない声が、背中越しに耳に届く。特に素肌を隠そうともせず、うつ伏せた身体を横向きにして頭を片手に乗せながら、ガラス越しに視線を送ってきた彼女が言葉を続けた。
『こんな素適なホテルに泊まるチャンスなんて、そうはないもの。いい記念になるわ』
『俺は帰るけど、それでよければ』
『朝まで一緒にいてとは言わないわよ』
『出発はいつ?』
『4日後』
『そう』
『次はどこ、とは聞かないの?』
 答えを期待しているようには聞こえない問いに、功は無言のまま手にしていた水をもう一口含んだ。
 口を噤んだままの功に構わず話しかけながら、彼女は声を立てて笑う。
『まあ、期待以上に楽しめたわ。色んな意味でこの国での時間』
『そう』
『ええ。今夜の事を含めて』
『ならよかった』
『あなたも、楽しんでくれたかしら?』
 功はその質問に再び口を閉ざすと、夜の景色の中に散らばる光の粒を、ただぼんやりと眺めた。
 今度は答えを待つかのようにしばらく功の後姿を眺めていた彼女は、やがて小さく溜息を吐くと、ベッドをきしませて立ち上がり、裸のままでバスルームへと向かった。
 その時、部屋に備え付けられた電話がコール音を鳴らした。振り向いた彼女へと視線を合わせながら、受話器を上げる。
「なに?」
『申し訳ございません。至急とのことで、ご連絡が入っておりまして』
「誰から?」
『香川淳也様からです』
「わかった。すぐにこちらから掛け直すと伝えてくれるかな」
 受話器を下ろすと、首をかしげている彼女に、何でもないというように肩をすくめてみせる。
『部屋は出国まで好きに遣ってくれて構わない。フロントには伝えておくから。もちろん、ルームサービスもお好きに』
 頷いた彼女にそう告げると、満足気な笑みを浮かべて功に近付いて来る。
『ありがとう。あなたは、素晴らしい生徒だったわ』
 素肌の腕が肩に触れ、彼女に抱き寄せられた。
『ありがとう。先生』
 滑らかな背に緩く手を回した功の唇に、ごく軽く薄い唇が触れる。それはもう、先ほどまでの艶かしさは消えた親愛のキスだった。

 彼女の身体が離れていくと、上半身はまだ素肌であった功は、ソファーにかけていた服を身にまとった。
 テーブルの上に置いていた携帯の電源を入れると、途端に、音を立てて続けざまにメールや電話の着信通知がいくつも浮かび上がる。履歴を見てみると、今日だけで淳也から6件もの電話が入っていた。そのうち3件は直近の時間のものだ。
 舌打ちをして、ベッドルームから急いで隣の部屋へ向かおうとする功に、その姿を見つめていた彼女が声を掛けた。
『ねえ』
 電話に気を取られ、彼女の存在が脳裏から消えてしまっていたことに気が付き、振り返る。
『コウ、あなた、誰を忘れたいの?』
 彼女が早口で呟いた言葉は、自分の名前以外聞き取ることが出来なかった。
『お元気で、先生』
 聞き返す事もなくそう告げた功に微かに苦笑いを浮かべた彼女は、きれいに引き締まった背を向けると、耳の横で手を軽く振り、しなやかにバスルームへと消えた。

 ベッドルームの扉を閉め、リビングルームとなっている隣の部屋へと移る。ソファーの背もたれに緩く腰を落とし、功はすぐに電話をかけた。
 ワンコールも待たずに相手が応答する。それは言葉ではなく、深く大きな溜息だった。
「悪かった」
『やっと繋がりましたね』
「どうした?」
『いや……』
 あれだけ連絡を寄越しておきながら、なぜか躊躇うような間があく。
「何があった」
『あったっていうか』
「……美月のこと?」
『はい』
「今どこにいる」
 そう尋ねた功に淳也が告げたのは、このホテルのフロントロビーだった。
「すぐに降りる」
『すぐに出られるような状態なんですか?』
 小言に無言を返すと、呆れたような溜息がもう一度聞こえた。
『下で待ってます』
 通話が途切れた電話をポケットに入れると、功はすぐに部屋を出て、急ぎエレベータへと乗り込んだ。

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