正巳が美月を連れて行ったのは、生徒会長室だった。先に中へ入るよう美月を促すと、続いて部屋に入り中から鍵を閉める。
美月はそれを見ながら、もう一度、硬い表情で口を開いた。
「どういうつもりですか」
何も答えず笑みを浮かべたまま、正巳は革張りの生徒会長用の椅子に腰を下ろした。
淳也が会長の時に何度か入ったことのあるこの部屋も、主が変わった今は、何故か同じ場所のような気がしない。高等部に上がるまで一人で裏庭でお昼を食べていた美月に、せめて雨の日と寒い冬の間だけでもここで昼食をとるようにと、淳也は美月に合鍵まで貸してくれたのだった。
「座れば」
目の前のソファを指差してから「何か飲む?」と聞かれる。美月は口を引き結び、その場に立ったまま正巳を見ていた。わざとらしく溜息を落として、立ち上がった正巳が冷蔵庫の方へ歩いていく。
「何でさあ、電話出ないの」
椅子から立ち上がるその動きだけで思わず身体がビクッと動いてしまった美月は、目を逸らしたまま結んだ唇に力を入れた。その様子を横目に見ながら口元に笑みを浮かべた正巳は、冷蔵庫からペットボトルを二本取り出しその一本を美月へと向けた。
「すぐ電話してくるかと思ったのにしてこないから、せっかくこっちから掛けてあげたのに。人の厚意を無視するからこんなことになっちゃっうんだよ」
受け取られなかったペットボトルをテーブルに置くと、正巳は、席に戻らずに美月の正面に立った。
「座って話さない? あ、もしかして、この部屋での芙美の指定席はあそこだった?」
そう言って正巳は、なぜか会長の椅子を指差す。
「香川の膝の上」
思わず顔を上げた美月は、目の前の男を睨みつけた。
「今朝も一緒に来てたよね。香川淳也と」
「そんな話なら」
「もうやっちゃった?」
「なっ……」
正巳はその思い付きが嬉しくてたまらないとでもいうように、ニコニコと笑っている。言葉の内容と、表情とのギャップに戸惑う。
「私、もう戻ります」
これ以上ここで正巳と向き合っていることに耐えられず、美月は部屋を出ようと扉に手を掛けた。
「出てったら教えないよ。芙美夏のママのこと」
「どうせ、嘘なんでしょ。あの時と同じ」
顔を扉に向けたままの美月の後ろから、肩に手が伸ばされる。その手が触れた途端、美月は避けるように身を翻した。
正巳が、また面白そうにくすくすと笑う声が聞こえる。
「何がおかしいの」
「いや、まあ。そんなに怯えなくても、こんなとこでやっちゃったりしないから安心してよ。それとも襲って欲しいわけ」
「変なこと言わないで」
「ふーん。で、どっちとやってるの? 香川、それとももしかして二条の方?」
じっと美月を見つめる正巳に負けないように、その目を睨み返す。
「一緒に住んでるんだろ。ねえどっち? もしかして二人ともとか」
「おかしいんじゃない」
「まあね。僕がおかしいのは生まれつきだよ、きっとさ」
正巳は、そう言うとすぐ後ろのソファに腰掛けた。
「ラッキーだったよね芙美。どっちに転んでも玉の輿じゃん。やっぱ女はいいよな。けど知ってる? 今じゃ僕みたいに綺麗な男にも、その手が使えるんだ」
「なんの話してるの。そんなのどうでもいい。お母さんことを教えてくれるつもりがないなら」
「慌てないでよ。せっかくの感動の再会なんだし、ちょっとくらい話しようよ」
「なにも話すことなんてない」
「そう? 二条のこととかでもいいけど」
さっきから功や淳也の名前が出てくることに、美月は動揺と共に奇妙な違和感を覚えていた。
けれど正巳の性格を思えば、その理由は明白な気もした。正巳は、昔から自分よりも人が目立つことを異様に嫌うところがあった。誰よりも自分が、一番でないと気がすまない。
自身の前に同じ生徒会長の地位についていた二人と、比べられることもあるだろう。増してや彼らは、生まれながらにして持つ側の者だ。だからこそ、より強くその存在を意識しているのかもしれない。
「そんな話する気ない」
「なんで」
「興味ない」
「嘘」
「ないから」
「へえ。香川とは仲良さそうなのに、二条には取り入れなかったの」
「何が言いたいの」
「やってみればいいのに。芙美ならいけそうじゃん」
「やめて」
「結構、凄いらしいね。あの人」
「……なに?」
「……ナ、ニ」
眉根を寄せた美月へ向けて、下卑た笑いを漏らした正巳の表情がこの部屋にきて初めて崩れた。
「あの人さ、あんなだし女なんて選び放題って感じじゃん。羨ましいよね。あ、だから芙美みたいな子どもの相手はしてくんないのか」
大して羨ましくもなさそうに正巳は鼻で笑う。
「特定は作らないけど、それでもいいって女の方から次々擦り寄ってくる。結構遊んでるって噂聞くのに、それでいて不思議と女と揉めないんだって。上手いことやるよね。まあ、あからさまに金や地位が目当ての奴は歯牙にもかけないらしいけど、女も、あんな人となら一度だけでもいいからお願いって、そう思うのかな? ね、美月ちゃん」
美月は、顔に熱が上がってくるのを止められなかった。
「あれ、何か想像しちゃった?」
正巳の顔を見ていられなくなって、目を背けてしまう。
「いい、加減にして」
そう言い返すだけで精一杯だ。けれど正巳には、美月の制止など雑音にすらならないかのようだった。
「遊んでるとさあ。時々、二条とやったって女に当たることがあってさ。僕も何人か頂いちゃった」
「もう、いい」
「話が本当なら兄弟だよね、二条と。上等そうな女ばっか、すごいよ」
「聞きたくない」
「まあ、足開いたらどいつも同じたったけど。たださあ、どっちが上手いってきくと、大概笑って慰められるんだ。そんなにあの人って」
「もうやめてっ」
美月は両手を耳に当て、その場に座り込んだ。何故ここでこんな話を聞かされているのだろう。早くこの部屋から出ていきたいと思うのに、座り込んだまま頭を抱えてしまった美月のそばに、正巳が近寄ってくる気配がした。
男性にしては華奢な指が美月の顎に触れ、顔を持ち上げる。
「ねえ芙美。ママのこと教えてあげるからさ」
振り払おうとしても、両側から挟み込んだ手がそれを許さない。
「キスしてよ」
抵抗していた身体が、一瞬動揺に固まる。目を見開いた美月は、すぐに我に返るとその手を振り払おうと両手で正巳の腕や背を叩いた。
「嫌っ、放して」
「痛いよ。芙美」
抵抗を封じるように手を掴み、背後の扉に両腕ごと押し付けた正巳によって身動きが取れなくなる。
ゆっくりと近づいてくる正巳から、美月は必死で顔を背けていた。
「ねえ……。芙美は、どっちだと思う」
甘えるように小さく囁いた正巳の言葉に、美月の動きが止まる。視線が間近で交差したその時を逃すことなく、正巳が美月の唇を捕らえた。
「い、やっ」
思い切り突き放すと、さほど抵抗を見せず正巳の身体が美月から離れた。必死で何度も何度も唇を拭う。
「感じ悪いなあ。初めてじゃあるまいし」
クスクスと笑い出す正巳を睨み付け、震えそうになる身体に力を入れて立ち上がった。
「もしかしてそうだった? へえ……あいつらよっぽど」
「もう、これ以上関らないで」
今度こそ部屋を出て行こうと扉に手を掛けた美月の背後から、正巳が声を掛けてくる。
「明日さ。……懐かしい人と会わせてあげるよ」
美月は、つい振り向きそうになる自分を何とか抑え込んだ。
「行かない。もういい」
「来るよ」
「あなたのことは信用できない」
「怒んないでよ。たかがキスくらいで」
「そういう問題じゃない」
クッと短く笑う声に、神経が逆撫でられる。
「来るよ。芙美夏は」
「だから行かないって言って」
「僕たち付き合ってるって、言いふらそうかな」
その言葉に、つい振り返ってしまった。
「何、言ってるの」
「昨日、声を掛けた大通りで。明日の放課後拾うから待ってて」
「……いかないから」
「来なくてもいいけど。そうしたら多分僕さあ」
見つめる視線の先で、正巳の顔に、再び楽しげな笑みが浮かんだ。
「芙美。君から、友達を取り上げちゃうよ」