翌朝は学校まで淳也が送ってくれるというので、それに甘えて車に乗せて貰った。夕べ殆ど眠れなかったため、助手席で揺られながら自然と目が閉じてしまう。
「みい、……みい、電話なってる」
淳也の声に瞼を上げる。鞄の中から唸るようなバイブ音が聞こえていた。一旦途切れたそれが、また鳴り出す。一瞬で現実に揺り戻され、身体が強張る。慌てて鞄から取り出した電話の画面に表示された名前を見て、心臓がドクッと音を立てたような気がした。
「出ないのか、誰?」
画面を見つめながら固まっている美月に、訝しそうに淳也が声を掛けてくる。我に返った美月は、素早く着信を切ると電話を握り締めた。
「……でなくていいのか?」
「うん。知らない番号だったから」
ちょうど信号待ちでブレーキを踏んでいた淳也の手が、すっと電話へと伸ばされる。
「何?」
思ったよりも鋭い声が出て、びっくりしたように淳也が美月を見るのがわかった。
「あ、いや、ごめん。深い意味はなかったんだけど。そうだよな、人の携帯見るような事。つい、みいだと思って」
淳也に他意はないとはわかっている。けれど知らない番号だと答えた着信履歴には、『MASAMI』という名前が表示されていた。
昨日の深夜、自分から電話を掛けるべきなのか、それとも登録を抹消するべきなのかと、何度も携帯を手に取りながらずっと葛藤していた。けれど、結局いずれとも決心がつかず登録を残してしまっていた。
「ごめんなさい、つい、びっくりして」
謝りながら、手に持っていた携帯がまた音を立てるのに動揺した。
「みい、お前」
慌てて電源を落とす。
「なあ、やっぱり何かあるんじゃないのか」
「だから、ただの間違い電話だよ」
苦しいが、そう言い訳するしかない。淳也が納得するとも思えないが、もう後に引けなくなっていた。
「本当か?」
「本当だって、淳ちゃんもうしつこい」
「しつこいって……心配してるだけだろ」
「……ごめん」
自分への嫌悪感が募っていく。本当は心臓が口から出そうなほど、鼓動も早くなっていた。
やっぱり、淳也に話してみようか――。
一瞬浮かんだ考えを、だが即座に否定する自分がいた。淳也に話せば、内容が内容だけに香川にも伝わってしまうかもしれない。そうなれば、真実を確かめる術はきっとなくなる。
何より、真実を知ろうとするのは、約束に反することだ。
――芙美も僕の仲間入りかな?
そう言った正巳の声が、脳裏を過る。
本当だ。嘘つきまあ君のために、自分も淳也に嘘をついている。そう思うと、美月は淳也の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
それから学園に着くまで、二人して黙ったままだった。多くの車が次々に入ってくるエントランス前に車が止まると、美月はシートベルトを外して助手席から降り立とうとした。
「ありがとう淳ちゃん。気をつけてね」
笑顔を浮かべて、運転席の淳也に声を掛ける。
「みい、やっぱりお前、何か隠してるだろ、なんか変な奴に」
そう聞いてくる淳也の言葉を遮る。
「他の車が入ってくるから、もう行って」
「ちょっと待って、みい」
ドアを開けて車から降りると、すぐに背を向けた美月の背後から淳也の声が聞こえる。途端に、周囲がざわつき始めた。
「うそ、もしかして香川会長」
「えっ。やだ、本物?」
淳也の存在に気が付いた生徒たちが、車のほうへと集まってくる。顔を伏せて軽く舌打ちした淳也は、クラクションを小さく鳴らすと、寄って来る生徒たちに手を上げて助手席の窓を閉めながら車をゆっくりとスタートさせた。
淳也は、学園の門を出る時、その手前でこちらを見ながら笑顔で頭を下げる男子生徒を目の端に捕らえた。
――誰だっけ。
暫く考えて、ああ、新しい生徒会長かと気が付いたが、そこに意識が捕われていたのはほんの束の間で、車の中での美月との遣り取りに思考が戻っていく。そうして、その生徒のことなどすぐに忘れてしまった。
朝から教室の中では、もう淳也が学園に来ていたことが話題になっていた。
「もうっ。一緒に来たんなら教えてくれたらよかったのに」
それを耳にしたらしい藍が、美月を小突いてくる。
「ごめん藍ちゃん。今朝はぼーっとしてたから、そこまで頭が回らなくて」
美月は、本当に少し申し訳ない気がして藍に謝った。しかし藍は美月の顔をじっと見つめると、眉をひそめてしまった。
「美月、しんどい?」
「え?」
「何か、顔色よくないよ。大丈夫?」
そう言って額に手を当ててくる。
「大丈夫。何でもないよ。昨日遅くまで本を読んじゃってあんまり寝てないから、多分そのせい」
「ほんとに?」
「うん。ありがとう。もし授業中眠ってたら起こして」
「しょうがないなあ」
座席も前後の藍に笑いながら頼むと、彼女も笑って応えてくれた。
授業中も、ほとんど内容は耳に入っていなかった。皆がノートを取り始めても微動だにしない美月を、藍が何度かシャープペンシルの後ろで突いてくる。その度に美月は指で丸を作り、藍に見えるように起きていると合図を送った。
そうして午前中の授業が終わり、昼休みを迎えた。
皆お弁当を持ってきたというので、今日はそのまま教室で昼休みを過ごす事にした。カフェやサロンに向かう生徒たちが、教室から廊下へと出ていく。
その時、後ろのドアのあたりがザワザワとする気配がした。何事かと皆がそちらに目をやったとき、ドアの影から田邊が顔を見せた。
美月の笑顔が、解けて強張る。周囲に寄ってくる女生徒達に笑顔を向けると、田邊は中の一人に小声で何かを話しかけた。
声を掛けられた時には顔を赤くしていた彼女の表情が、すぐに白けたものに変わる。
「香川さん、田邊会長が用があるんだって」
皆に聞こえるほどの大きな声に、周囲の生徒の視線が美月へと集まる。青ざめた顔で立ち竦む美月の腕に、藍が手を掛けた。
「美月……」
田邊が礼の言葉と共にその女生徒にもう一度柔らかな笑みを見せると、彼女は表情をコロッと変えて頬を赤く染めた。
「いえ、そんな。お役に立てたなら嬉しいです」
美月に向けたのとは正反対の態度で、可愛くはにかんでから教室を出て行く。
「香川さん、ちょっといいかな」
田邊は、教室に足を一歩だけ踏み入れ、今度は直接美月へと声を掛けてきた。何も答えようとしない美月に、周囲がざわつき始める。
「あの、美月に何の御用ですか」
美月に代わって田邊に声を返したのは、藍だった。
少し驚いたような表情を浮かべた田邊は、先程の女生徒へ見せたのと同じような笑みを藍に向けた。けれど、藍はそれに惑わされるような素振りもなく、厳しい顔つきのまま美月の腕を握り田邊を見返している。
田邊の顔に、少し困ったような笑みが浮かんだ。
「それを、ここで言っていいのかな」
意味深な言葉に、周りの生徒たちがそれをどう受け止めたのか想像がつく黄色い歓声を上げる。美月は、藍の手に自分の手を重ねるとそれを腕から外した。
「藍ちゃん、いい。行ってくる」
そう言いながらも、不安を隠しきれない目で藍を見つめてしまう。
「私も一緒に行くよ」
そう言ってくれる藍に小さく首を振る。
「大丈夫。ありがとう」
この場でのやり取りに不安を覚えているのは、美月と藍だけだ。あとの友人たちは、興奮した様子で美月と田邊を見ている。それ以外の女子生徒の中には、露骨に、不快そうな表情を美月に向けている者もいた。
藍のそばを離れて、田邊の前まで足を進める。
「どういうつもりですか」
目を合せずに、小さな声で問いかけた。だが、彼は取り合うことなく、藍ににこやかな顔を向けた。
「じゃあ、香川さんをちょっと借りるね」
周囲に笑みをばら撒き軽く頭を下げて、田邊は、騒めきの中美月を伴い教室から出ていった。
藍に触れた美月の手は、冷たく、微かに震えていた。
浮かれる周囲を余所に、藍は二人が出て行った戸口を不安げにじっと見つめていた。