――お母さんが訪ねてきた。
本当なのだろうか。
美月は、親が居ながら施設で暮らさざるを得ない境遇の子どもではなかった。生まれてすぐに親に捨てられ、命も危うかったという事だけは、先生達の話から何となく知ってはいた。
だから、記憶のある初めのときから両親はいない。それが当たり前のように、親が居ない自分しか知らなかった。名前すら――実の親からは与えられなかった。
電車に乗っていても駅の改札を出てからも、ずっと、田邊の言葉が頭にこびりついて離れない。ぼんやりと考えながら歩いていると、すぐ後ろからクラクションが鳴らされた。
先程のことを思い出し、反射的に鞄を抱えて逃げるように走り出す。
「――みい」
名前を呼ぶ声が聞こえたが、すぐには頭が切り替わらない。
「みい、ちょっと待てって、俺、おれだって」
それがよく知っている人の声だと理解した途端、身体の力が抜けた。立ち止まった美月に追いついた車の助手席の窓が開く。わかっていても、現れた人の顔が見えてからようやく安堵した。
「お前今、俺を変質者か何かとでも思っただろ」
運転席から身を乗り出すように、笑いかけてきたのは淳也だった。
「淳ちゃん……どうしたの、車」
「免許取ったんだ。ほら、乗って」
嬉しそうに笑いながら、助手席の扉を中から開けてくれる。美月は頷くと新しい車の匂いがする助手席に乗り込んだ。
「今日は遅かったんだな」
「え?」
「いや、だいたい何もなければ、五時頃駅に着くはずだって母さんから聞いてたから。ちょっと心配した」
そう言いながら後ろを確認し、車をスタートさせる。
「あ、うん……今日は当番だったから。もしかして、ずっと駅で待ってた?」
「まあ、連絡すれば良かったんだけど。ちょっとびっくりさせようと思って。そしたら違う意味で驚かせたみたいで、焦ったよ」
「ごめん」
「女子高生を付け回す変質者と勘違いされたらどうしようかと思った」
美月は笑い声をあげた。
「ならもっと逃げればよかったね」
「馬鹿」
そう言いながら、淳也も笑う。
「今日はこのままお屋敷に帰るの?」
「うん。たまには家でご飯食べないと、母さんが拗ねるしな。車の借金もしたから、ご機嫌とっとかないと」
「この車、淳ちゃんのなの?」
「そう。どっちにしろ車の運転もゆくゆくは仕事に必要になるから、二条が用意するって言われたんだけどな。大学生にベンツやビーエム、普通に用意しそうだろ」
「確かに……」
「運転に慣れるまでの間は、自分の身の丈にあった車でいいって親父とも話して、自分で買うことにしたんだ。って言っても、親に借金してるから実質まだ親のもんだけど。バイトして少しは返さないと」
「バイトって何の」
「ん、まあ家庭教師とかだな。今は」
「そんな時間あるの」
「一、二年の間は何とか」
香川の家は、二条家ほどとは言わないがかなり裕福な家庭だ。昔から二条家に仕えてきた家柄であり、それ相応の待遇が与えられている。
淳也も、将来に備え、通常の学業と併せて功と共に学外での英才教育を受けていた。語学のレッスンや通常大学院で学ぶレベルの国際情勢、経済学、経営学、マーケティング、情報処理や通信工学などを含め、特殊な専門分野についても、各専門家から特別講義を受けることを義務付けられている。
それでも、香川夫妻は淳也をなるべく特殊な環境に染まらない、普通の感覚がわかる子どもとして育てることを教育方針としていた。だから淳也は、家柄を笠に着て高慢に振舞うようなところが決してない。そんな彼を慕う者はとても多く、功からも厚い信頼を得ていた。
しばらく近況を聞いたりするうちに、車は二条の屋敷の門前に到着した。淳也が認証パネルに手をかざすと、門が開く。中に車を滑り込ませながら、「みい」と、淳也が改めて声を掛けてきた。
「ん?」
「何かあった?」
「え?」
美月は顔を上げて運転席を見た。目線を進行方向に向けたまま、淳也が口を開く。
「いや、さっき駅から出てきたときも、歩いてるときも、なにか思いつめたような顔をしてるように見えたから」
「何にもないよ」
動揺を覚られないように、できるだけ普通に聞こえるように答えたつもりだ。
「ならいいけど。お前のナンもないはあんまり信用できないからな」
ゆっくりと、瞬きをする。
「本当に何もないよ。今は友達もいるし、学校楽しいよ」
「そっか……。でもさ、もし何かあったら」
「ないって。大丈夫」
美月は笑顔を淳也に向けた。車を車庫に入れると、しばらくハンドルに凭れ掛かるようにしていた淳也が美月の頭を軽くポンと撫でる。
「母さんも、みいが学校楽しそうに行ってるって安心してた。よかったな、いい友達が出来たみたいで」
「うん……ありがとう、淳ちゃん」
淳也の言葉に、気恥ずかしさと共に胸が暖かくなる。脳裏を占めている憂慮を、その一瞬だけは忘れることができた。
無事に帰れてよかったと大げさに息を吐いてみせながら車から降りた美月に、淳也が憤慨する振りを返して笑う。
上手く、誤魔化せただろうか――。
美月は、少し前を歩く淳也の後ろ姿を見つめながら、藍たちに聞いた淳也の話を思い出していた。
いつも側にいて当たり前のように接していたから、改まって意識することはなかったが、確かに彼が同性にも異性にも人気がある訳はよくわかる。淳也は、春のように暖かな人だ。
そんなことを考えていると、同時に、対比するようにもう一人の人のことが思い浮かんだ。
彼は、淳也のような柔らかさや親しみやすさを持つ人ではなかった。生まれながらに身に付いていたかのような品の良さと、人の上に立つ者としてのオーラを持つ彼に人は惹きつけられるが、決して容易く近付くことができない。自分に与えられた役割を冷静に完璧にこなしてみせるその姿に、人々は自然と彼に付き従う。
冷静で、そして孤独な瞳をした人――功のことを。
「淳ちゃん」
「ん?」
「功さんは、元気にしてる?」
顔だけを振り向けた淳也は、少し苦笑いしながら答えた。
「ああ、元気にしてるよ。っていうか」
「ていうか、なに?」
「ちょっと箍が外れてるっていうか……」
そう言いながら、淳也を見ている美月の目をじっと見つめて、なぜかひとりで納得したような声を出した。
「ああ……そっか。自棄になってるのか」
「え?」
「いや、何でも。なんていうか、まあ、大学生活を楽しんでるんじゃないかな。それなりに」
口ごもるようなその口調に、美月は少し笑った。
「なんか可笑しいこと言ったか?」
「ううん淳ちゃん、ごめん、私知ってるよ。功さんのことは結構学校でも噂になるから」
「ああ……そうなんだ」
「モデルさんみたいな人とか秘書風のOLさんとか、外国の人とか、とにかく綺麗な人だとか?」
「う……ん」
「色んな女の人と一緒に居るところを見かけたっていう話。聞くたびに女の人が違ってて」
「ああ、まあ……。特定の誰かと真剣に付き合ったりしてるわけじゃないし。っていうか勝手に寄ってきてる相手も結構いるんだけどな」
淳也が気まずそうに言い訳のように口にするのを聞きながら、美月は口元から笑みを消した。
「でも、大丈夫なの? そんな事してて色んな噂とか立つと、立場的に色々言われたりしないのかな」
心配そうに眉をひそめる美月に、淳也は視線を逸らすと、溜息交じりに言葉を返した。
「あの人は、嫌っていうほど自分の立場は知ってるよ。好きにしているようで、ちゃんとその辺の事はわかってる。トラブルにならないような付き合い方しかしてないから大丈夫」
「そう。……そうだよね」
「まあ。俺も見張ってるし」
淳也が笑うのに釣られて、美月にも笑みが戻る。
「そういう淳ちゃんは?」
「えっ」
「彼女とか」
自分に話が振られると思っていなかったのか、狼狽えている淳也をからかうように見つめる。
「俺のことはいいの。まったく」
苦笑した淳也は、屋敷の扉を開くと、背を押して美月を先に中に入れた。
「お帰り。遅かったのね」
モニターで見ていたのだろう和美が、すぐに出迎えてくれる。
「ただいま。あの、連絡しなくてごめんなさい」
「美月ちゃんもだけど、淳也、あなたも遅くなりそうならそう連絡くらい入れなさい。ただでさえ慣れない運転で心配なんだから」
「あー。ごめん」
「私が、当番でちょっと駅に着くのが遅くなったから」
もう一度謝ろうとした美月に微笑みかけた和美は、さっさと部屋に向かおうとした息子の腕を、すかさず掴んで引き止めた。
「美月ちゃん、すぐご飯できるから制服、着替えてらっしゃい」
そう言って、淳也を引っ張って行ってしまう。小言を言いながらも、久しぶりに息子とゆっくり顔を合わせるのが嬉しいのだろうことは、和美の表情にも表れていた。
着替えに部屋に向かいながら、一人になった途端、田邊のことを思い出した美月の気持ちが沈む。
リビングで久々に三人で食事をしている間も、その日は、ずっと上の空だった。