そう遠くない自宅まで藍を送り届けた淳也は、すぐに功のマンションへと引き返した。
駐車場に車を止めて暫くの間待っていると、下って来たエレベータが開き中から美月が出てくる。
車の外に出て、こちらへと向かい歩いてくる美月を見つめていた視線を、淳也はつい、逸らしてしまった。目を赤くし、泣いたことがわかる美月の唇は、二人の間で何があったのかを勘ぐるには十分なほど、熱を持っているように見えた。
美月も、淳也と交わった視線を逸らし、視線を俯けたまま車へと戻って来た。ドアを開けると、「ありがとう」とだけ小さく口にして、助手席に腰を下ろす。それを見届けてから、淳也は運転席へと乗り込みエンジンをかけた。
車が高速に乗り上げてから、ようやく助手席を見遣る。美月は、唇に指を当てたままボンヤリと視線を外に向けていた。
「……みい」
呼びかけると暫く間が空いて「ん?」と、応える声がした。
「みいが、今日功さんと会っていた事、……誰にも内緒なんだ。俺は今日、功さんと一緒にいる事になってる。だから、みいには駅から普段通り屋敷に帰ってもらわなきゃいけない。勝手な事言って、ごめん」
「……うん、わかってる」
「駅まで、車を回してもらうか?」
「ううん、大丈夫だよ」
大丈夫だと口にする美月に、平気でないとわかっていながら、淳也はいつものようにそれを軽口にして言い返すことは出来なかった。
「……みい……俺」
「ん?」
「ごめん」
隣で美月が小さく笑う声がする。横目で見た美月の笑顔は、とても淋しげなものに見えた。
「みんな……謝ってばっかり。私、謝られるようなこと、何もされてないのに」
そう言うと美月は、もう一度顔を窓の外に向けた。
この顔のまますぐに返すわけにもいかないだろうと、少し遠回りしながら時間を潰した。淳也がそうする理由に気が付いているはずの美月も、何も言わなかった。
途中コンビニで水を買い、濡らしたタオルを渡してやってから、夕方が近付いたのを目処に、駅へと向かいターミナルに車を停める。
「ここで、いいか?」
淳也へと顔を向け、微笑んだ美月の表情は、もう、だいぶしっかりしたものに戻っていた。
「ごめんなさい。淳ちゃんとも暫く会えなくなるのに、私……今日は、上手く喋れなくて」
美月の頭に手を置き、軽く揺する。
「わかってる。みい、一人にしてしまうけど、ちゃんと連絡先残していくし、俺からも連絡を入れるから……。頑張れよ」
言いながら、そんな在り来たりの事しか言えない自分に、淳也は胸の内で苦笑した。
「淳ちゃんも……」
瞬きした美月の瞳から、静かに涙が流れ落ちる。その滴を見つめながら、淳也は唐突に口にしていた。
「みい……お前に初めてキスしたの、田邊じゃないからな」
「……え?」
「功さん、だから」
美月の視線が揺れ動く。
「え……?」
笑って頷いて見せる。
「しょうがない人だろ」
美月はもう一度瞬きをした。
「うん……しょうがない人だね」
そう言って笑った顔が、すぐにくしゃっと崩れた。
美月と別れた淳也は、そのままもう一度、マンションへと引き返した。
最上階に向かうエレベータの中で、さっき見た美月の泣き顔が鮮明に脳裏に浮かび、胸がキリキリと痛んだ。
開いた扉から足を踏み出すと、認証キーの前で一つ大きく息を吐き、ロックを解除する。目の前のドアを開けると、センサーが反応し、薄暗い廊下にライトが灯った。
その瞬間、目に入った光景に、淳也は全身を強張らせた。すぐに我に返り、靴を履いたまま慌てて廊下へと足を踏み入れようとした途端――。
「来るな」
視線の先でしゃがみ込んでいる功から、鋭い声が飛んだ。
「……功さん、いったいこれ、何をしたんですか、……怪我は?」
廊下には、破片のようなものが散乱している。ライトに反射して光るものは、ガラスのようだった。壁にかかっていた筈の額のフレームが折れ曲がり、床には破かれた絵や写真が散らばっている。割れたガラスの欠片は、恐らく額のものだろう。
足を動かした拍子に、何かを踏みつけた感触に視線を落とす。それは、壊れた携帯だった。足元からそれを拾い上げた淳也は、再び顔を廊下の奥へと向けた。
片足を投げ出し、リビングのドアの前に座り込んだ功は、蹲るように頭を抱えている。唇を咬んでその姿を見つめていると、功の腕に走る数本の黒い筋のようなものが目に入った。瞳を凝らすと、それは血のように見える。
「血がっ、出てるじゃないですか」
慌ててもう一度、ガラスの散る廊下を功の側に近付こうとした。
「来なくていい、今日は帰れ」
顔を伏せたまま言われたものの、このままそうですかと捨て置くことは出来ない。
「でも怪我を」
「帰れっ」
踏み出しかけた足を止めて、低く尖った声で言い放った功を見た途端、身体が動かなくなる。顔を上げてこちらを見ている功の表情に、淳也はショックを受けていた。
全ての苛立ちと憎しみ、絶望をない交ぜにしたような瞳で淳也を睨む功は、そばに誰も近寄ることを許さない、手負いの獣のように見えた。どんな時でも、どこかに冷静さを保っていた功が、こんなにボロボロになっている姿を信じられない思い出見つめる。
「功……さん」
功は目を逸らすと、再び頭を抱え込んだ。
「頼む、淳也……今日だけは帰れ。一人にしてくれ」
もう、それ以上一歩も前へ進む事ができなかった。
「……わかり、ました。携帯は……新しいものを用意しておきます」
廊下に背を向け、ドアに手を掛けてから、淳也はもう一度だけ振り返った。
「怪我の手当ては、ちゃんとして下さい。功さん……すみません」
動かない功を一瞥し、そのまま重いドアを開け部屋を後にした淳也は、駐車場まで戻ってきたところで、あの部屋に手当てをするためのものが何もないことを思い出した。今日は康人にも、ここへは来るなと言ってある。あの状態の功が、自らそれを買いに行くとはとても思えなかった。
近くのドラッグストアで薬や消毒液を購入してから、マンションに戻り、少し躊躇った後、薄く開けたドアの内側に買って来たものを置いて。そのまま声を掛けることはせず、淳也は再びマンションから出て来た。
美月をあの部屋に連れて行った事は、やはり間違いだったのだと、自分を詰りたい気分だった。恐らく必死で平静を装い、諦めるための時間を重ねていた功の、その気持ちを煽ったのは自分だ。煽った後の責任も取れないくせに。
あれが、美月を失った功の姿なのだ――。
淳也は先ほど目にした功の姿に、打ちのめされていた。
手の中にある壊れた携帯を見つめて、ハンドルに凭れ掛かる。とはいえ、どうすればよかったのか、いったい自分に何ができたのか、できるのか。どんなに考えても、答えは見つかりそうになかった。
その日の夜、淳也の携帯に父親から着信があった。七時に旦那様と約束をしていた功が現れず、携帯も繋がらない――という連絡だった。
事情を聞きたそうな父に、淳也は明日功から連絡をさせるとだけ答えて、その通話を終えた。
翌日、新しい携帯を持って、昼前に功のマンションを訪れた。ドアを自ら開けずに、インターホンを鳴らして功を呼び出す。しばらく待つと、中から鍵が開く音がした。
昨日廊下に散らばっていたものはもう、全て隅に寄せられていたが、木目の壁の一部が剥がれてしまっている。
リビングへと入っていくと、功はソファに腰掛けていた。
その前に腰を下ろしながら淳也は、向かいに座る功の肘から手の甲にかけて、包帯が巻かれているのを見て、手当てをしたのだと安堵した。
鞄から携帯を取り出し、功の目の前に置く。
「新しいものに変えておきました」
「ああ……悪かった」
「昨日父から、旦那様に連絡を入れるように、俺の方に連絡が来ました。今日、連絡しておいて下さい」
「わかった。そうだったな。昨日約束してたんだった」
苦笑いしながら、功が呟く。
「淳也。昨日は……悪かった」
「いえ。俺の方こそ……すみませんでした」
「いや。淳也には、感謝してる」
そう答えてから、ソファを離れ窓際に立った功は、やはり昨日までの功とはどこかが違って見えた。
人を寄せ付けないオーラを持ちながら、どこかに柔らかさも垣間見えていたこれまでの功とは、違う。目の前にいる功は、優しさや柔軟さを削ぎ落としてしまったような、張り詰めて、触れる事を拒むような空気を纏っていた。
部屋の中は、ここで誰かが生活していた事を感じさせないほど、綺麗に片付けられていた。まるで、ここで過ごした日々も昨日のことも、全て拭い去ってしまったかのように。
日の光が差し込む窓辺に立ち、じっと外を見つめている功に、淳也はそれ以上何も言葉を掛ける事ができなかった。
三日後、二人はイギリスへ向け出発した。