本編《Feb》

第二章 十三夜3



 事態を飲み込めず茫然としたまま、功の顔から、美月はもう一度写真へと視線を落とした。震える指先で、写真に写るその人の顔の辺りにそっと触れる。人に言われなくても自分でもわかるくらい、その人と美月はよく似ていた。
「どう、して……」
「あの日、美月が聞いた話。あの時美月を探して園を尋ねて来た女の人は、君の母親じゃなかった。でも彼女は、君の母親に繋がる情報を少しだけ持っていたんだ。そこから、調べる事ができた」
「今……どこに」
 功の表情が、僅かに顰む。
「今はまだ、会わせてやることも、事情を説明してやることもできないんだ」
「どうして……」
「それも答えられない。ただ、美月は、母親に捨てられたんじゃなかった。それだけは、ちゃんと話しておきたかったんだ」
「じゃあ、どうして会えないの、どうして?……新しい家庭があるから? 私の事忘れてしまったから? もしかして病気なの? それとも……私が二条の家にいるから? だから駄目なの?」
 昂ぶった感情のまま問いかける全てに、無言で首を横に振って功は答えた。
「本当は迷った。いつかちゃんと全てを話せるようになるまでは、言わない方がいいのかもしれないって。知ったら、会いたくなるし、知りたくなるだろ。それは当たり前の事だ」
 功は、美月の手から写真を取りじっとそれを見つめた。
「よく……似てるな、美月に。いや、芙美夏に」
 言い直して、功は写真を美月に返した。
「写真は、君のものだ。勝手を言ってごめん。だけど今は、それ以上何も聞かないでくれないか。時期が来れば、多分香川が話してくれる。それまで、どうか待っていて欲しい」

 美月は、じっと母の写真を見つめた。ずっと、穴が開くほどじっと。今どこで何をしているのだろうか。幸せ……なのだろうか。
 私を覚えている? 何故私を手放したの? 聞きたい事は次々と溢れてくる。
「これが。……きっと俺が君にしてあげられる最後の事だ」
 功の静かな声に、顔を上げた。最後だと言うその言葉の意味が、ゆっくりと美月の胸を締め付けるように迫ってくる。
 しばらく功を見つめていた美月は、黙ってその言葉に頷いた。
 母の事は、もう、功が言う通り時が来るまで自分からは尋ねたりしない。功が駄目だと、今は言えないと言うからには、何か深い理由があるのだ。そして、それは美月のために言っているのだという功の気持も、何故だろうか、ちゃんと伝わってきた。
 こうして母の存在を教えてくれた。それだけで、自分の欠けたどこかが、少しだけ埋まった気がした。
「……ありがとう。私、功さんに貰ってばっかり。何も返せないのに」
 言いたいことも伝えたい事も、もっと沢山あった気がするのに、美月の口をついて出たのは、そんな言葉だけだった。
「貰ってるよ」
 微笑みながらもどこか苦しそうな功の瞳に捉えられると、目を逸らす事ができなくなる。功が、美月を見つめるその瞳が、少しずつ色を変えていく。部屋の空気が密度を増したみたいに、胸が苦しくなった。
 その時不意に、部屋に鳴り響いた携帯の着信音に、空気が変わった。息を吐いた功が立ち上がり、電話に応答した。
「……はい。…… ええ、もうほとんど送りました。……今日、ですか?……いや今日は」
 言いながら美月を見やる功に、立ち上がってもう帰る事を示す。このままここにいるべきではない。いたら――きっと駄目だという気がした。
「わかりました。では今夜七時に伺います」
 電話を切ると、しばらく背を向けていた功がこちらへ向き直った。
「ごめん」
 美月は首を横に振ると、受け取った写真の入った封筒をそっと胸に押し抱き、それを、鞄へと仕舞った。功を真っ直ぐに見つめて、これまでの全ての気持ちを伝えるように、もう一度、同じ言葉を口にした。
「ありがとう」

 黙って功がそれに頷くのを待ってから、鞄を両手で握り締めて。美月は、もう一度功の方へと身体を向けた。
「じゃあ私、帰ります。功さん……身体には、気を……」
 言いながら、笑顔を見せているはずだった。なのに、途中で息が詰まり何も言えなくなる。頭を下げると、美月は踵を返し部屋を後にした。 
 足早に、廊下を玄関へと向かう。その時、突然後ろから手首を掴まれ強い力で引き寄せらた。
 気が付けば、温かな身体に包まれていた。苦しい程強く、功に抱き締められていた。
「功……さん」
 頭の上から、功の震えるような声が聞こえた。
「こんなことなら、……もっと……優しくしてやればよかった……」
 美月は、功の胸の中で何度も首を振った。自分は、見えない功の優しさをずっと感じていたのだと、今になって気が付く。自分に冷たく接しながら、それが本心でなかった事をどこかで知っていたのだと。
 だから功を――
 しがみ付くと、回された腕の力がもっと強くなる。美月は、腕の中で何度も功の名前を呼んだ。やがて、美月の髪を撫でていた手が止まる。顔を上げようとした時、それを留めるように、より強く胸元に引き寄せられた。
「――芙美夏」
 優しくて苦しげな声に、名前を呼ばれる。美月ではない名前を。
 いつか夢の中で呼ばれたと思っていたのと同じ声が、自分だけの名前を呼ぶ。
 ゆっくり顔を上げると、功の手が頬に宛がわれ、美月の涙を拭ってくれる。見上げた功の瞳を捉えた瞬間――。
 功に、唇を塞がれていた。大きな手に後頭部を支えられて、何度も、何度もキスを交わす。美月はただ、必死でそれに応えていた。
「こう……さ」
 唇を開いた瞬間を逃さないように、キスが深くなる。入ってきた功の舌が美月の舌を捉え、絡み付き吸い上げる。
 オレンジのライトが灯る薄暗い廊下に、水音と息遣い、そして時折美月の口から洩れる声にならない声が響いていた。
 息も胸も苦しくて頭がボンヤリしてくる。腰の力が抜けて崩れ落ちる直前、功が漸く唇を離した。息が上がっている美月を支えながら見つめている功の瞳は、今まで見たことがない深い色をしている。二人の唇を繋いで途切れた糸を、功が美月の唇の端から拭う。
「ごめん……」
 謝る功に、美月は首を横に振った。

 功の瞳が、少しずつ逸らされていくのを見つめながら、美月は、力を振り絞り何とか功にしがみついていた腕を離した。心臓が、暴れすぎていてどうにかなりそうだった。
 ゆっくり落としていた鞄を拾い上げ、深く呼吸を繰り返し息を整えると、もう功を見ることなく玄関へと向かう。ぴったりとくっついた磁石を無理矢理引き離すように、全部が痛かった。
 俯いて靴を履く。そうして廊下に向き直ると、功はさっきの場所に立ったまま壁に片方の肘を当て、手で顔のあたりを覆っていた。
「……さようなら」
 ほとんど声にならない掠れた声で、功に告げる。美月の声に弾かれたように、功は顔を上げた。
 功の表情は、後ろから差し込む部屋の光で逆光になっていて、よく見えない。
「ああ……」
 辛うじて聞こえるくらいの功の声を聞いてから、美月はドアを開けて部屋を後にした。ゆっくりドアが閉まってから、何度も息を吸い込み、嗚咽を堪える。

 ドアが閉まると同時に、部屋の中から、何かが壊れるような大きな音がした。
 一瞬、扉に手をかけた美月は、けれどそのドアを叩くことなく、迎え入れるように開いたエレベータに、ひとり乗り込んだ。


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