本編《Feb》

第二章 十三夜2



 藍を車に残してエレベータに乗ると、隣に立つ美月の緊張が伝わってくる。
「顔、強張ってるぞ」
 それを少しでも解そうと頬を突いて笑い掛けると、何とか淳也に笑い返してみせた美月は、けれどエレベータが最上階について扉が開いても、その場を動こうとしなかった。
「ほら、もうここまで来たら諦めろ」
 エレベータを出ると、すぐ目の前にドアがある。美月の手を引くと、指先が冷たくなっていた。
「これは上層階専用のエレベータなんだ」
 人が乗り込み上層階の部屋番号を押した瞬間から、その部屋にエレベータ内の映像が映し出されるシステムとなっている。だから功は、淳也が美月を連れて戻った事をもう知っているはずだった。
 
「どういうことだ」
 淳也が指紋認証で玄関のドアを開けると、既に功が目の前にいた。途端に、美月の手に力が入るのを感じる。
「……そういうことです」
 ただそう答えた淳也は、美月の腕を引き自分の前に立たせた。
「じゃあ、宜しくお願いします」
 そう言って功を見つめると、淳也は美月の手を離し部屋に押し込んでドアを閉めた。
「淳ちゃ――」
 美月の声が一瞬聞こえたが、ドアを閉めてそのままエレベータに戻り、B1ボタンを押した。

 ………

 部屋の中に取り残された美月は、溜息を吐いた功を見ることも出来ず、そのまま踵を返そうとした。
「美月」
 功に呼ばれて、ゆっくり振り返る。
「とにかく、上がって」
 それだけ言うと、功は廊下を戻って行く。しばらく躊躇ってから、美月は部屋に上がった。
 廊下の奥の、広いリビングに通される。出発に向けて片付けられたのか、最低限の家具等を除いて、ほとんど何もないガランとした部屋だった。 
「そこに、掛けて」
 入口で立ち尽くす美月に、キッチンから功がソファーを指し示す。言われた場所に腰を下ろしながら、美月は部屋の中をもう一度そっと眺めた。余り露骨に見てはいけないと顔を戻そうとした時、コーヒーの香りが漂い、目の前にマグカップが置かれた。
「コーヒーは駄目だろ、紅茶でよかった?」
 本当はコーヒーは苦手だと、今まで誰にも言った事はなかった。美月は、功がそのことを知っていることに驚きながら頷く。向かいに腰掛けた功のカップからは、コーヒーの香りがした。
「傷、ほとんど消えたな」
 掛けられた声に視線を向けると、功が美月の顔を見つめていた。顔が熱くなって思わず視線をカップに落としてしまう。
「足も、もう痛みはないか」
「はい。もう、ほとんど痛みません」
 美月の硬い答えに功が笑った。それから、声のトーンが僅かに低くなる。
「田邉の事件、あれは君のせいじゃない。絶対に違うから自分を責めたりするな」
 功を見ると、真剣な眼差しが美月を心配そうに見ている。
「直接あいつを追い詰めたのは俺だ。美月が自分を責めるなら、追い詰めた側の人間として俺は自分を責めなきゃならない。むしろ俺の方に責任がある」
 美月は驚いて、首を横に振った。
「そんなこと、そんなの、……違います。あれは、私の為に功さんがしてくれたことです。功さんが自分を責めるなんて、違う」
「それなら美月も、自分を責めないって約束してくれないか? じゃないと俺もその考えを捨てられない」
 じっと功を見つめる。美月のために、美月が背負う痛みを、自分が背負うとこの人は言っているのだ。自分が罪悪感を抱えている限り、功を苦しめる事になるのだ。美月が頷かざるをえない要求を敢えて突き付けている功に向けて、静かに頷いた。
 我ながら勝手だと思うけれど、さっき聞いたばかりの正巳が起こした事件の衝撃も、今はどこか霞んでしまっていた。美月がそれに捕われている限り、きっと功にいつまでも心配を掛けてしまう。何より、遠くへ行く功をちゃんと安心させたかった。
「約束だからね」
 優しく微笑む功にもう一度頷いてから、美月はふと思い出して、鞄からポーチを取り出した。
「――これ」
 功の視線が、美月の手元に向けられる。
「……ああ」
「ありがとうございました。大切に、します」
 言いながら頭を下げると、功の笑う声が耳に入り顔を上げた。
「今日は敬語なんだ」
「えっ、あの、それは……」
 思いがけない言葉に、しどろもどろになる。傷を負い功の部屋にいた時はまだ混乱していて、そこまで深く考えることができなかった。
「あの、緊張してて」
「そうだな。こんな風に屋敷の外で二人になるのは初めてだし、俺も緊張する」
 そう言って笑う功からは、緊張など微塵も感じられない。
「嘘ばっかり」
 少し笑ってそう言い返すと、笑みを浮かべたままの功が、立ち上がると同時に美月の手を取った。
「功さん」
 声を上げる美月を無視して、功はその手を自分の胸に当てた。トクトクと音をたてる功の鼓動は、思いがけず早いものだった。
「わかったから、離して」
 顔を赤くしながら引こうとした美月の手が、強い力に引き戻される。視線を上げた美月は、功の苦しそうな表情に目を見張った。
「……功、さん?」
 しばらく強く美月の手を握っていた功は、やがてゆっくりとその手を離した。絡み合う視線を、先に逸らしたのは功の方だった。
「ごめん。ちょっと待ってて」
 言い置いて、美月の顔を見ることなく、部屋を出て行く。残された美月は、功が握っていた手にもう一方の手を重ねた。強く握り締めた功の温もりが、まだそこに残っている気がした。

 部屋に戻って来た功は、もう、いつもの様子に戻っているように見えた。もう一度美月の前に腰を下ろした功から、白い封筒を差し出される。
「……これ、何?」
 尋ねながら、手を伸ばして封筒を受け止る。
「開けていいよ」
 言われて封筒を裏返すと、封がされていないその中には、手紙より少し厚い白く滑らかな用紙が入っている。
「……写真?」
 美月の呟きに、功が頷いた。ゆっくりとそれを取り出して、表に返す。高校生位の、制服を来た女の子の写真だった。少し古いその写真に映る人の顔を見て、美月の唇が震えた。
「これ……」
「そう。その人は美月、君の、お母さんだよ」


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