本編《Feb》

第二章 十三夜1


 功と淳也の出発を五日後に控えたその日、衝撃的なニュースが流れた。
 それは、逮捕が間近に迫っていると噂されていた田邊病院の副院長田邊尚子が、未成年の息子に刺されたというものだった。幸い命は取り留めたが、重症であるとの報道がなされていた。
 息子田邊正樹――すなわち正巳は、警察に連行された後、逮捕されていた。
 夏休みに入って久々に藍と街中に出かけていた美月は、それをビルの電光掲示板に流れるニュース速報で知った。
 二人して、言葉を失ったまま掲示板を見つめていたが、先に我に返った藍は、すぐに美月を気遣うように声を掛けた。
「美月、大丈夫?」
 尋ねる藍の顔も、少し青ざめて見えた。大丈夫だと頷く。
「ね、美月のせいじゃないからね。本当のこと言って、あの人いつかそういうことをしそうな気がしてた」
「うん……」
 曖昧に返事を返しながら、あの二人の歪んだ関係を思う。
 僕があの女を利用してるんだ――正巳はそう言っていた。
 利用価値がなくなった時、それまでの憎悪が一気に噴出したのだろうか。纏まらない頭でぼんやりと考える美月を、藍が心配そうに見ている。
 その時、藍の鞄の中で携帯が震えた。
「ちょっとゴメン」
 言いながら携帯を見ると
「香川さん」
 慌てて通話ボタンを押している。
「もしもし、……はい。今一緒に、はい。聞きました。いえ、多分気付いてなかったと……それで、……わかりました。構いません。ちょっと待って下さい」
 藍が、美月の目の前に電話をかざす。代われということのようだった。
「……もしもし」
「みいか」
「うん。淳ちゃん、まあ君のニュース……」
「今から迎えに行くから、今どこにいる?」
「え、でも」
「悪いけど、俺たちも中々時間がないんだ。ちゃんとお前が大丈夫か確かめておきたい」
「だい、じょうぶだよ」
「だからだ。言ってるだろ。藍ちゃんにはお願いしたから。とにかく場所を。ああ……ちょっと藍ちゃんに代わって」
 美月では、埒が明かないと思ったのか、淳也に言われてしぶしぶ藍に電話を返す。
「あ、はい。わかりました。……あ、いえ渋谷です。……はい。連れて。はい、じゃあお願いします」
 通話を終えると、有無を言わせぬように美月の手を引き、藍は人ごみをすり抜け歩いていく。
「藍ちゃん、ねえっどこ行くの、待って」
 やがて、待ち合わせたらしい場所まで来ると、藍が歩みを止めその手を離した。
「香川さん、ここで待てって」
「だけど、……今日は藍ちゃんと」
「美月、香川さん達あと五日で行っちゃうんでしょ。会える時に会っとかないと」
「けど、今すぐでなくても」
 藍が、真っ直ぐに美月を見つめ笑みを浮かべる。美月を励ますような笑みだった。その瞳が、一瞬宙を向く。
「それに、私にも最後に香川生徒会長様を、もう一回拝ませてよ」
 そう言って、さっきとは違う少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「藍ちゃん……」
 その言葉には、頷かざるを得ない。頷かざるを得ない風に言ってくれる藍に、ちゃんとありがとうと言う事が出来なかった。また今度遊びに来ようねという藍の言葉に頷きながら、二人で淳也の到着を待った。
 暫く待つと、見覚えのある車が歩道寄りにハザードを出して止まった。
「みいっ、藍ちゃんも、帰るのなら一緒に乗って」
 助手席の窓を開けると、淳也が二人を急かした。場所柄、長くは車を止めていられない。二人が後部座席に乗ったのを確かめると、淳也はすぐに車をスタートさせた。
「待たせた?藍ちゃん、ありがとうね」
 ミラー越しに、淳也は先に藍に声を掛けた。
「いえ、……あの、でも私」
 一緒に乗るつもりは無かったのだろう、藍は少し戸惑ったように淳也を見返す。
「どこへでも、都合のいい場所に送っていくよ。今日のせめてものお詫びだ。遠慮なく言って」
「あの、香川さんは、どこへ行くんですか?それ次第で駅を考えます」
 じゃあ遠慮なく、というように答える藍に、淳也は笑みを浮かべた。
「家に帰るつもりなのかな、それともどこかに寄る?」
「今日は、家に帰ります」
「じゃあ……悪いけど、先にこっちのこと済ませてからでもいいかな」
 藍は頷いた。美月が少し困惑したように淳也に問いかける。
「こっちのことって淳ちゃん、何?」
 淳也は、それには答えず高速に乗ると車のスピードを上げた。答えるつもりは無さそうな淳也に、美月は一度口を噤んだ。けれど、
「ねえ、どこに行くの?」
 高速に乗りしばらくすると、同じことを尋ねてみた。
 ハンドルを握ったまま、僅かな時間振り返り、もう一度ミラー越しに美月の顔を見返した淳也は、
「思ったほど、ひどくはないか」
 そう一人呟くように口にする。美月も、ミラー越しに淳也に問いかけるような視線を送った。
「田邊のニュース、聞いたんだろ」
「うん……さっき、電光掲示板に速報ニュースが出て。だから心配してこんな風に?」
「いや、まあそれもあるんだけど、どっちにしろ出発までにもう一度みいと会っておきたかったんだ。出発も平日だし、下手したら顔を合わせないままになりかねない」
「家には、もう戻らないの?」
「戻れる時間は限られるし、その時間の中であそこでみいとゆっくり話す事は難しいだろ」
「……うん」
「それに、この事件があったし。少しでも早くって思って。ごめんな、せっかく楽しんでるところを」
 美月は、藍と顔を見合す。
「でももう、それどころじゃ無くなってました」
 藍が、美月の代わりにそう答える。
「……まあ、そうだろうな」
 レーンを変えた淳也は、少し車の速度を落として、口を開いた。
「田邊とあの女は、ちょっと普通の関係じゃなかったんだ。今回の件は、その事が原因だろう」
 視線を前に置いたまま、淳也が美月にそう言い聞かせるように告げた。美月はしばらく黙っていた。そして、静かに頷いた。
「お前、知ってたのか?」
 淳也が驚いたように、ミラーを見上げた。
「うん。まあ君が、そう……言ってたから」
「そうか」
 車の中を沈黙が支配した。藍も、驚いた顔をしていたが、何も言わず口を噤んでいた。
「病院の事も田邊の事も……、裏を知れば知るほど、いつこんなことが起こってもおかしくはなかったって、そんな感じだったんだ。……だから、みい、お前が、気に病むことじゃない」
 藍と同じような事を言う淳也の言葉に、ただ小さく首を振って、俯いた。
 静かになった車内に、やがてウインカーのカチカチという音が聞こえて顔を上げる。淳也が、出口へと向けて車を左車線に寄せた。高速を下りた車から、外の景色を見ながら、心臓にギュッとした痛みを覚えた。
「ここって……」「……うん」 その声に、淳也が頷いた。「待って、淳ちゃん」 戸惑いながら、美月は、咄嗟に淳也を止めようと手を伸ばした。「みい、危ない」 淳也がそう言うのと、藍が美月の手を押さえるのは、ほぼ同じタイミングだった。「私、駄目だよ。ねえ、何で?」「会わせてやりたいんだ」「いいよ。ねえ、いいから」 必死で言い募る美月に、淳也が苦笑いを漏らしたのがわかった。「ごめん、みい。お前じゃない。功さんに、会わせてやりたいんだよ」

 藍に掴まれていた美月の腕から、力が抜ける。
「みいを連れて行くこと、功さんも知らないんだ。今日のニュース、実はテレビで流れるより先にうちに情報が入ってた。みいを心配して俺に様子を見に行くように言ったのは功さんだ。俺、……功さんとお前に、ひどいことしてるのかもしれない。でも」
 ウインカーを出してマンションの駐車場へと車が入っていく。
「ちゃんと会わせてあげたい。あれから、一度も会ってないだろ」
 淳也は駐車位置に車を止めると、エンジンを切り、ようやく後ろを振り向いた。いつの間にか、藍が美月の手を握ってくれている。
 手を伸ばした淳也が、美月の頬を軽く抓った。
「何て顔してるんだよ」
 そう言って、強張った顔をした美月を見て笑う。
「ちゃんとお礼も言ってないって、みい、そう言ってただろ。こうやって二人で会えるのは……本当にこれで最後かも知れないんだ」
 言われて、美月は淳也を、そして藍を見た。
 手を握ったままの、藍が。小さく頷いた。
「会っておいでよ。美月」

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