本編《Feb》

第二章 上弦の月9



 淳也の顔を見た途端、美月は、さっき康人から聞いた話に顔が強ばるのを感じた。
「お前らがほったらかしにしとくから、みいちゃん駐車場で、イカレた馬鹿にナンパされてたぞ」
「えっ、みい駐車場なんかにいたのか?」
「え、あ……うん」
「何であんなとこ」
「ストップ」
 康人が口を挟む。
「何でみいちゃんがここに来たのか、理由は淳也が一番よくわかってるでしょ」
 どこか気不味そうな顔をした淳也は、美月から目を逸らした。
「いや、まあ……近いうちにちゃんと話すつもりで」
「淳ちゃん、留学するって本当?」
「その話、誰からきいた」
「やっぱり、本当なんだ。いつから」
「いや、ちょっとちゃんと話すから、向こうに行こう」
 そう言いながら、淳也が康人に視線を向ける。康人は拝むように片手を顔の前にあげて見せていた。
「ごめん……みいちゃんがまだ知らないって思わなかったんだ」
「お前か」
 淳也が舌打ちをした。
「淳ちゃん、康人さんのせいじゃないよ、知らなかったんだし。それにさっきは康人さんが居てくれたから……」
 美月が俯いてぎゅっとカバンを握る。淳也は驚いて問いかけるように康人を見た。
「冗談じゃなかったのか?」
「一回生だと思うけど、頭の軽そうなヤロー三人が、みいちゃんを囲んでたんだよ。お前らの名前を出したら、即引っ込んだけど」
「何かされたのか?」
 慌てて問い掛ける淳也に、美月は首を横に振った。
「大丈夫、ちょっとからかわれただけ」
「お前の大丈夫は信用出来ない。康人、ありがとう、助かった」
 溜息を吐き出した淳也の言葉に、康人は軽く肩をすくめてみせた。
「んじゃ、僕はここで」
 淳也に付いて歩き出そうとすると、片手を挙げた康人が美月に笑みを向ける。
「康人さん、ありがとう」
 その言葉に頷くと、康人は来た道を戻って行った。

 淳也に連れて行かれたのは、大学の敷地内の芝生が敷き詰められた美しい庭に面したベンチだった。
「ごめん。……ちゃんと色々話さないといけない事があったんだけど、ホントにばたばたしてたんだ」
「うん……」
「田邊の事、だよな」
「それも、だけど。留学って」
「ああ、うん……それな。この月末に出発する事になった。イギリス」
 美月は驚いて顔を上げる。 
「月末って、もうあと二週間」
「うん」
「何で、そんな……もっと何年か先の事だと思ってた」
「ちょっと早くなったんだ。それで準備とかもあって」
「いつ、決まったの?」
「それが……二条の家の都合とかもあって、最近急に決まったことなんだ」
 淳也の答えは、どこか歯切れが悪かった。
「家の都合って」
「うん……会社とか、まあそれ以外にも色々。とにかく、俺も功さんに付いて二年間、留学しないといけなくなった」
「うん。功さんが留学する時には、自分も一緒について行く事になるって、前に淳ちゃんそう言ってたもんね」
「そう、だったな」
 話を切り替えるように、淳也は手に持っていた缶コーヒーのプルタブを上げて、ひと口含んだ。美月も買ってもらった紅茶のペットボトルを開ける。
「田邊には、功さんが直接会って話をした」
 ひと呼吸置いて、いきなりそう切り出した淳也の言葉に、紅茶を持つ美月の手に力が入る。
「え……?」
「二度とみいには関わるなって、そういう話を。まあまず二度と、あいつもみいに近寄る気にはならないだろうけど」
「それって」
「次やったら、どういうことになるかってこととか」
「どういうことになるの?」
 美月は不安を覚え尋ねた。
「みいがどんな事を想像してるのかはわからないけど、それなりに、こっちには打つ手がいくつもあるんだよ」
「でも……どうして病院まで」
「多分気にしてるとは思ってたんだけど。あれは――」

 淳也はまた缶に口をつけてから、事情を話し始めた。
 二条が以前から病院経営に進出する計画があり、病院買収の話がコンサルタント会社を通じて持ちかけられていた、その買収先の病院が田邊総合病院だったのだと。
「信じないかもしれないけど、あの病院に強制調査が入るっていう噂はかなり前からあったらしい。今回の件で田邊の事を調べていくうちに、俺達もその情報に行き当たった。それで、病院の件に二条が絡むらしいっていうことを知ったんだ。病院買収の話に二条は乗り気だった。けれど向こうの経営者一族がネックになっていて、交渉が上手く進んでいなかったみたいで。実は元々買収の話についても、経営の行く末を憂えた内部の者から内密に持ちかけられた話だった」
「……それで?」
「で、二条としては、あの病院を手に入れるために多少強引な手を使ってでも、経営者を刷新する必要があった。だから田邊病院を突かせるように仕向けたのは、確かに二条だった。俺たちも、多少はそれに手を貸した。功さんと俺がそうしたのは、あわよくば田邊にもう一つダメージを負わせる事ができるって、ただそれだけのためだよ」
「……本当に、それだけ?」
「そう、それだけ。ちょっと突いたら、後は向こうが勝手に転がり落ちて行っただけだ。遅かれ早かれ、きっとこうなってたってことだよ」
「あの……今、まあ君は」
「まあ君って、田邊の事か」
 淳也の声色は、不快さを隠そうとしないものだった。
「あ……田邊、さん」
「あいつがどうしてるか気になる?」
 学校を辞めたことに、美月との件が関係しているのは明らかだろう。その上、病院や養父母も騒ぎの只中にいる状態なのだ。正巳が今どんな状況に追い詰められているのか、こうなった原因に関わった美月は、気にならないとはとても言えなかった。
「あいつがどうなったところで、正直言って俺も功さんも、罪悪感の欠片も感じないから。まあ、みいは――」
 美月を見て、淳也が苦笑いを浮かべる。
「そんな訳にはいかないって感じだけど。でも、あいつのは自業自得だ。みいが感じてるよりもずっと、あの男はヤバい人間なんだ。多分あいつは、みいのことも、傷つけて用済みになったら捨ててしまうオモチャ程度にしか思ってないよ」
 美月は、それを否定も肯定も出来ずにいた。
「あいつの生い立ちがどうとか、そんな事は、俺達にはどうでもいい。どんな不幸な生い立ちでも、それは、誰かを立ち上がれない程傷つけていい理由にはならないよ。あいつにお前を傷付けていいどんな理由がある? みいなら、誰かを傷つけて平気か? 違うだろ。あいつは根本的にここに――」
 淳也は胸元に拳を何度か宛がった。
「欠けてるものがある。欠けた理由も……正直俺達にはどうでもいいことだ」
 美月にも、淳也が言わんとする事は理解はできる。だが、正巳の感情に同調してしまう自分がいることも否めなかった。
 ――僕たちは一番わかり合える
 頷きたくはない、違うと否定したいと思う心の奥底では、その言葉に引きずられそうになる気持がどこかにあることを、正巳には見抜かれていた気がした。
「わかるけど……でも、私の事くらいでそこまで」
「美月」

 淳也が、鋭く美月の名前を呼んだ。みい――ではなく美月と。滅多に淳也の口から出ることのないその呼び方に、続けようとした言葉を咄嗟に飲み込む。
 淳也は、厳しい視線で、半ば美月を睨むように見つめていた。
「自分があいつに何をされたのか、覚えてるよな。私の事くらいってなんだ? 俺や……功さんがあの時、どんな気持ちだったかわかるか? あいつを野放しにしたら、お前今度は殺されるぞ」
「まさか……」
 そこまでするほどの執着を、正巳が自分に持っているとはとても思えなかった。
「命を奪わなくても、精神的に殺す事くらいやりかねない。みいは、許せばあいつとも少しは分かり合えるんじゃないかと思ってるのかもしれないけど。あいつはな、そんなみいの気持ちごと弄んで利用するような、ボロボロになるまで傷つけ苦しめて喜ぶような……そういう、男だ。だから功さんは、あいつを美月に関わらせないために、自分で動いて打てる手を打ったんだ」
 紅茶の缶を持つ指が、微かに震えていた。
「ごめん、なさい……」
「もしお前があいつに最後までやられてたら」
 身体が、小さくビクッと動いてしまう。
「功さんは、この程度じゃ済まさなかったよ。だいたい田邊の奴……」
 言葉を途切れさせた淳也を見やると、遠くを睨むように見つめていた。
「ナイフで功さんを刺そうとしたんだ」
「えっ」
「本当のことだ。あいつはあの時、多分本気だった」
「……功、さんは?」
「あんな奴にやられる訳ないだろ。逆にやり返したよ。まあ最も……先に手を出したのは功さんだけどな」
 そういって苦笑した淳也に、戸惑いが増す。
「え……?」
「いや、あれでもむちゃくちゃ我慢してたよあの人。俺なんか、あいつの挑発に何回切れそうになったことか。……とにかく、頼むからみいは、もうあいつの事は忘れてくれ。お前があいつに同情してたんじゃ、いったい何の為に功さんがあそこまで……」
 言い掛けた淳也が、突然口を噤んだ。
「あそこまで……?」
 明らかに言い過ぎたと思っているらしい淳也の跋が悪そうな態度に、美月は何か引っ掛かりを覚えた。何も答えない淳也を見つめながら、不意に一つの考えが頭の中に浮かぶ。
「もしかして、二人の留学が早まったの、今回の事が原因?」

 溜息を落とした淳也が、ゆっくりと美月へ向けた顔が、とても疲れているように見えた。
「どっちにしろ、いつかは行く事になってたんだ。それは初めから決まってたことで、少し……その時期が早まっただけだ」
「大学を卒業したらって、前は」
「うん、そうだったんだけどな。それに、もう一つ。……みいに、言っておかないといけない事があるんだ」
 顔を正面に戻すと、淳也は言い辛そうに言葉を区切った。
「本当は俺が言う事じゃないし、そのうち嫌でも……みいの耳に入る話だ。けど、それなら、俺の口から知らせておいてやりたい」
 鼓動がわずかに早くなるのを感じた。美月は、それを誤魔化すように顔を上げ、明るい声を出した。
「淳ちゃん、大丈夫。心配しなくても私、何聞いても平気だから」
 淳也がクスリと笑う。それは、悲しそうな笑みだった。
「だから、みいの大丈夫は信用出来ないって言ってるだろ」
 美月もつられて小さく笑う。
「けど。……聞かなきゃいけない事なら、私は、淳ちゃんから聞きたい」
「うん……」
 淳也は拳を額にあてると目を閉じて息を吐いた。それから、決意が揺らがないように。そして美月が受けるショックを受け止めるかのように。真っすぐに美月を見つめた。
「功さんな。二年経って戻って来たら、婚約する」

 頭が、一瞬真っ白になった。
 心臓を、ギュッと強く握り潰されたように感じた。
 だがそれもほんの一瞬の事で、美月はそのまま瞬きもせず、口元に力を込めて笑みを浮かべた。
「やだな、もう……淳ちゃん。どんな凄い事言われるのかと思った。もう、何でそんな大袈裟に言うの? びっくりしちゃった。だってそんなの……」
 気が付けば、口から勝手に言葉が流れ出ていた。
「みい……、美月っ」
 身体を揺すり美月を止めたのは、淳也だった。眉根を寄せ心配そうな顔をしている淳也を見つめながら、美月はもう一度笑った。
「そんなの、……そんなことずっと前からわかってる事だよ? 何で改まってそんな……何で、淳ちゃんなんでそんな顔するの?」
「ごめん……」
「何で謝るの?」
 淳也が肩を押さえていた右手を美月の頬に当てて、そこを拭っていく。指でなぞった跡が、風に当たり冷んやりとした。
「……なん……で」
 それでも、美月は笑っていた。遣り切れないような目をした淳也が、美月の頭をゆっくりと胸元に引き寄せた。
「何もしてやれなくて、……ごめんな、みい」
 美月は淳也の胸元に頭を預けたまま、声も上げず、ただ、ポタポタと流れ落ちる滴を目で追っていた。

 その日、車で屋敷へと送り届けてもらった美月は、そのまま大学へ戻ると言った淳也に、去り際にもう一度強く約束させられた。
 何があってもこの先、絶対に田邊――高宮正巳とは関わらないこと。淳也達が留守の間に何かあったら、必ず、誰かに知らせる事を。
 部屋に戻った美月は、制服のままベッドサイドに腰かけ、ぼんやりとしていた。
 手のひらに乗せた熊のポーチをそっと撫で見つめたまま、笑みを浮かべる。
 自分の浅ましさに、呆れてしまう。
 気になっていると言いながら、結局、正巳や田邊病院の事より、功の話に一番気持ちが揺れていた。
 何かを期待していたはずではなかった。わかっていたはずだった。正巳にも、自分の立場を知ってると言ってみせたはずなのに。
 ――私は、やっぱり嘘つきだ。
 顔を上げると、窓の外に美しい半月が出ていた。見つめるうちに、月の輪郭がゆらゆらと揺れ、ぼやけていく。
 きっと、これでよかったのだ。
 二年も経てば、平気になる。
 笑って、功におめでとうと言えるようになる。
 流れ落ちる涙を拭うことなく、じっと滲んだ月を見つめながら、美月の中に一つの決意が生まれていた。


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