淳也が卒業した今は、友人達と下校するのに不便だからと迎えの車は断りを入れ、美月は電車で下校している。
その日は放課後の当番の用事を済ませ、いつもより遅い時間に一人で駅に向かっていた。
駅までは学園から十分ほど。角を曲がり駅へと続く大通りの歩道を歩いていた時、背後から美月のペースに合わせるように近寄ってくる車があった。不自然なほどゆっくりとしたスピードで並走する車の気配に気が付き、美月は歩みを止めずそちらへと視線を向けた。
濃紺の重厚な車体――恐らくはベンツSクラスの車。
タイミングを合わせるように、スモークが貼られた後部座席の窓が静かに降りていき、中から穏やかな笑みを浮かべた整った男の顔が現れる。少しずつ露わになるその姿を見つめながら、鼓動が早くなり、美月の表情は強ばっていった。
「みぃづきちゃん」
微笑を浮かべた薄い唇が開く。美月の歩みが止まるのに合わせ、車がゆっくりと動きを止めるのを見ながら、背中が粟立つ。
唇を強く引き結ぶと、美月は車から目を逸らし再び駅へ向けて歩き始めた。いや――殆ど小走りになっていた。車が再び並走を始め、窓から顔を出した男がクスクスと笑う。
「待ってよ、美月ちゃん。そんなに慌てたら危ないよ。ねえってば」
美月は更に足を早めた。
「ねえって、聞こえてるんだろ、美月ちゃん。あっそうか……ふーみ、ちゃん?」
身体がビクッと強ばり、美月の足が止まる。ゆっくり振り向くと、止まった車の後部ドアが開き中から男が降りてきた。
「なんだ。はじめから芙美って呼べばよかったんだ」
笑みを浮かべたままゆっくり近づいてくると、顔を覗き込んでも目を合わそうとしない美月の目の前で手を振ってみせる。
「こんにちは、香川美月ちゃん。僕のこと覚えてるよね」
美月は、強張った唇をようやく動かした。
「……田邊……会長」
「ま、それはそうなんだけどさ。そういう意味じゃないってわかって」
「すみません、私急いでるので」
笑いながら話し続ける田邊を遮り、美月はその瞳から逃れるように踵を返そうとした。けれど、距離が開く前に、手首をひんやりとした指に掴まれていた。
「触らないでっ」
咄嗟にそれを強く振り払うと、美月は、その男を――嘘つきまあ君の顔を、睨むように見遣った。
「傷付くなあ。けどやっと僕を見てくれたね」
「何か、ご用ですか」
「これでも僕さあ、結構女の子に人気あるんだけど」
「私、急いでるんです」
「あ。だったら送ってあげるよ」
「結構です」
「冷たいなあ。久しぶりなのに」
「何の……ことでしょうか」
「ふうん。そういうこと、言うんだ」
軽い口調で楽しげな顔を美月に見せている田邊の目は、けれど藍が言ったように、本当に笑っているようには見えなかった。
「僕のこと知ってるよね?」
「だから、田邊会長です」
「知らない?」
「知りません」
「ふーん、そう」
田邊は、つまらなそうに鼻をならすと、さっきまでとは違う唇の片方だけを引き上げたような、歪んだ笑みを浮かべた。
「嘘は僕の専門なんだけど、芙美も僕の仲間入りかな」
顔を寄せ、これまでより少し低い声で囁く。思わず目を逸らしてしまった美月は、何とか乾いた口を開き声を押し出した。
「すみません、失礼します」
踵を返し駅へ向かおうとした美月の後ろから、笑みを含んだ声が追いかけてくる。
「ねえ、お母さんと会った?」
田邊の言葉が耳から入り、その意味を捉えた美月の足が止まった。ゆっくりと後ろを振り返る。
「それ……どういう意味」
「まんま」
「お母さんって、誰の」
「芙美夏のだよ。……あ、その顔、もしかして知らされてなかったとか」
驚きに強ばった美月の顔を見ながら、田邊は楽しくて堪らないとでもいう風に声を出して笑った。まるで恋人と笑い合いながら楽しく会話をしているかのような、見る者が見れば一瞬で虜になるような笑顔だった。
「なんで……お母さんって」
震えるその声が、自分のものではないように美月には聞こえた。
「訪ねて来たんだって。園に」
「……嘘?」
「さあ、どうかな」
笑い声が耳につく。
「いつ?」
「うーん、ま、一年くらい前ったっけ」
「嘘、なんだよね」
「嘘かもね。僕の言うことだし。じゃ、香川さん。邪魔してごめんね」
そう言って手を振った田邊は、さっきまでのしつこさが嘘のように、あっさり車の方へと戻り始める。
「――待って」
頭の中で、これは嘘だ、相手にするなと警告する声が聞こえる。けれど、どうしても確かめずにはいられなくて、美月は思わずその後ろ姿に追い縋るように声を掛けた。
「待って。ねえ、嘘だよね。ねえ……ねえ、まあ君」
田邊の足が止まる。振り向くと、大げさな素振りで肩を竦めてみせた。
「なんだ。やっぱ知ってるじゃないか僕のこと」
彼のその瞳の奥に、引っ掛かった獲物をゆっくりといたぶるような残忍な光が宿るのを見ながら、美月は、自分の身体が冷えていくのを感じていた。それを振り払うように、田邊の目をじっと見つめ返す。
しばらくの間、互いに目を逸らすことなく視線を交わしていた。
「知りたい?」
先に口を開いた田邊が、優しい口調で問い掛けてくる。しばらく躊躇してから、美月は声を出さずに頷いていた。
少し目を細めた田邊が、鞄を指差す。
「携帯出して」
躊躇いを捨てきれず、動けずにいると、耳元に顔が寄せられる。
「知りたいんだろ」
再び促されて、のろのろと鞄から携帯を取り出した。奪うようにそれを手にとりロックを解除させると、田邊はポケットから自分の携帯を取り出して操作をしてから、美月にそれを返した。
「高宮正巳……じゃなくって、まさみ、で登録しといて」
高宮――そういえば正巳の名字は高宮だった。と、美月は携帯を手にぼんやりとそんなことを考えていた。
「夜にでも電話くれるかな。芙美のためならいつでも時間空けるからさ」
そう告げると、伸ばされた指が美月の頬を撫でた。
「やめて」
飛び退いて頬を押さえる。田邊が触れたところから冷たい指の感触が逃げて行かず、肌が粟立つ。
「芙美。君さ、綺麗になったね」
そう言うと田邊はまた、極上の笑みを浮かべ片手をあげた。
「じゃあ、またね。電話待ってるから」
車が走り去るまで、美月はそこを動けずにいた。しばらくして我に返ると、強ばった身体を引き摺るように、混乱を抱えたまま駅へと向かって歩き始めた。