功はあの日以来、一度も屋敷には戻っていなかった。そして淳也も、美月が学校に通えるようになった日に一度だけ顔を見せたが、それ以降は戻って来ている気配が感じられない。
美月は、功はともかく淳也にまで避けられているかのように感じていた。
携帯に電話を掛けてみても、今度話すから、という返答の後は美月の質問に答えることなく、身体の具合を確かめるとすぐに通話を終えてしまう。
功や淳也達が、あれからいったい何をしているのかは美月には全く知らされず、田邊が退学した事も、毎日放課後見舞いに来てくれていた藍から聞いて初めて知った。
藍には――もうきっと嫌われただろうと思っていた。けれど藍は、毎日美月を見舞う事でそれを否定してくれた。何度も謝る美月に、「これ以上謝ったら本当に怒るからね」とそう笑って許してくれた。
傷も幾分癒えて学校へ通える程度に回復した美月は、事件後一週間を経過した頃から、通学を始めた。捻挫した足が完全に回復していない事もあったが、功の言い付けによるらしく車での送迎を余儀なくされている。
それは、学校に通えるようになった初日のことだった。藍が、心配だし遊びに行きたいからと、今日は一緒に帰ると言い出した。二人して迎えの車で屋敷に戻り、美月の部屋に向かうと、部屋の前に人影があった。
「お帰り」
「淳ちゃん?」
二人を待ち構えていた淳也は、なぜか美月の部屋の前から動こうとしない。それだけでなく、一緒に返ってきた藍に向かって手を上げてみせる。藍も淳也がそこにいるのを知っていたかのように、手を上げて応えてみせている。
美月は、淳也の前で足を止めた。
「淳ちゃん、今日大学は?」
「まあいいから」
美月の問いかけをあっさり聞き流して、淳也が美月の両肩を後ろから押すように部屋のドアの前に立たせた。
「何?」
「ドア、開けて」
怪訝に思いながらも、美月は部屋の扉を開けた。そして、目を見開いたままそこに立ち尽くした。
今朝まで、飾りけのない無機質な部屋だったそこは、今、シンプルではあるが、年頃の女の子が好みそうな、明るい色合いの内装と家具、そして可愛い小物などが飾られた部屋に様変わりしていた。
「どう、気に入った?」
美月は弾かれたように振り返り、淳也を見上げた。淳也の横で、なぜか藍も楽しそうに笑っている。
「何で……?」
戸惑いを隠せずに、問う声が震える。美月の様子を純粋な驚きだと思っているらしい淳也と藍は、嬉しそうに二人でハイタッチを交わしていた。
「待って、淳ちゃん、この部屋……私、こんなことして貰うような、そんな立場じゃない」
口を突いて出たそんな言葉に、淳也と藍が笑みを収めて、美月を見遣る。
「美月……」
「みいは、この部屋気に入らないか?」
そう言った淳也を見上げてみると、優しい視線を部屋へと向けている。美月も、もう一度顔を振り向け、ゆっくりとそこを見渡した。
「ううん、私にはもったいないくらい、可愛い部屋だよ」
「無理に褒めなくても構わないけど」
「無理になんて言ってない」
からかう様に言われ、ムキになって答えた美月の頭に、淳也の手のひらが軽く乗せられた。
「じゃあ、気に入ったか?」
手を乗せたまま、小さく頷く。
「じゃあ、どうせなら使ってあげたらいい」
淳也が手を除けたため軽くなった頭を巡らせ、もう一度淳也を見上げた。藍が隣で微笑みながら頷いている。
「この部屋は、みい、お前のための部屋だ。美月様の部屋じゃなくて、みいが使うための部屋だよ。どうせ聞いても希望なんて口にしないだろうから、勝手に俺達がみいが好きそうな部屋をイメージして仕上げたんだ。勿論女の子の意見も取り入れた。藍ちゃんや母さんにも協力してもらって」
「藍ちゃん……和美さんも?」
藍がちょっと得意げな、けれど悪戯を見つかった子どもみたいな顔をして笑う。
「嬉しいなら、ただ笑ってありがとうって言ってみ」
声を詰まらせた震える美月の背中を、ポンポンと軽く淳也に叩かれる。ようやく美月は、嬉しさが込み上げてきた。
「……ありがとう。嬉しい……ホントに」
気が付くと笑みを浮かべている自分がいた。中に入り、藍と二人であちこちを見て回る。喜んでいる美月を見て、淳也が嬉しそうに笑った。
「よかった」
微笑んでそう静かに口にした淳也を、足を止めてじっと見つめる。
「それで十分。あの人も……きっと満足するよ」
その言葉に、この場にはいない人の面影を思う。部屋を開けた瞬間、誰がこんなことをさせたのかは、すぐにわかった。
「ちゃんと、みいが喜んでたって伝えておくよ」
淳也は、そう言って美月の様子を見届けると、時間がないからとそのまますぐに部屋を後にした。
そんなことがあった数日後、その日も藍は、放課後美月の部屋に遊びに来ていた。二人の話題は、正巳や田邊病院を巡る一連の騒動のことだった。
ここ最近、テレビや雑誌、新聞からネットニュースまで、見ない日がないほどそれらを賑わせているのは、田邊病院の話題だった。
確かに功と淳也は、正巳の事を許さないとそう言った。けれど美月が知っているのは、彼が学園を辞めたという事実だけだ。罪悪感はあったが、正巳と顔を合わせて平気でいられる自信などなかった美月は、その事にどこかでホッとしていた。
それで終わったのだとばかり思っていた。
しかし、美月が通学を始める少し前から、正巳の養父母が経営する病院の名前が連日、世間を賑わせるようになり始めた。最初は小さな扱いだったそのニュースが、各メディアで大きく扱われるようになるのにそれほど時間は掛からなかった。
学内でも、興味本位に噂している生徒達を横目に、美月と藍は複雑な気持ちを抱えていた。
「藍ちゃん、やっぱりこれって偶然なんかじゃないよ」
「田邊の病院のこと?」
「うん……」
「香川さんは、まだ何も話してくれないの?」
「電話もすぐに切られるし、まともに話が出来なくて……。けど、まあく――田邊先輩本人だけじゃなくて家族まで巻き込むなんて、いくら何でも……。私、どうしたらいいのかわからなくて怖くなる」
「香川さんが駄目なら、二条さんには、聞けないの?」
何でもない事のように、藍は尋ねてくる。
「あ……うん、功さん殆どここには帰らないから」
淳也と違って、功は大学生になってから、本当に数える程しか屋敷には戻っていないようだった。だから今も、功が戻らないのは、美月を避けているからなのか、ただ元の生活に戻っただけなのか、判断がつかなかった。
「別に電話やメールなんかでもいいじゃない。聞いてみれば」
「知らない、から」
「えっ、何で」
「淳ちゃんと違って、功さんとは学年も離れてるし、余り接点がなかったし」
「接点って、だって小さい時から一緒に暮らしてたんでしょ」
「うん、そうなんだけど。功さんも私の連絡先は知らないと思う。多分私より他の子達の方が、功さんの情報を知ってたりするんじゃないかな」
そう言いながら静かに笑うと、藍は、まだ納得いかないようにぶつぶつ言っている。
「でも、私ね……功さんって、きっと美月の事を好きなんだって思ったよ」
「何、……言ってるの、藍ちゃん。そんな訳ないから」
笑ってみせるだけで、精一杯だった。
「だって、私一度しか会ってないけど、あの時美月を頼むって、見舞いに行ってやってって、あ、勿論そのつもりでいたけどね。そう言った時の二条さんの顔が……何ていうか、言われてるだけの私が凄くドキドキするくらい優しかったし、それに、ほらこの部屋の事だって。だから、ああこの人は、美月のことを大事に」
「やめてっ」
思いがけないほど強く、声を上げてしまった。藍が驚きに口を開いたままの状態で止まっている。
「ごめ……藍ちゃん、違うの。私……」
美月は自分の言葉の強さに、自分自身が狼狽してしまっていた。一度瞬きをした藍が、我に返ったように眉根を寄せて首を横に振った。
「ううん、こっちこそごめん。嫌な思いさせるつもりじゃなかったのに。こんな家柄じゃ、色々あるんだろうし……無神経にごめんね」
謝る藍に、美月は違うと首を振って何度も謝った。
「美月、もういいから。いいってば」
きりがないからお互いもう止めようと、そう言って笑った藍は、すぐに話題を変えてくれたけれど、美月は、藍に功の事を上手く話せない事に、どこか胸が苦しかった。
連日耳に入る田邊病院の情報は、日を追う毎に、この病院の経営者一族の欲に塗れた裏の顔を曝け出していった。世間には既に、病院の院長田邊博一やその妻尚子の映像も流出していた。
院長は、六十代後半、やせぎすのどこか神経質そうな雰囲気の男で、妻であり副院長でもある尚子は、逆に豊満な体型に派手な身形、写真からも気の強さと傲慢さがにじみ出ているように感じられる女だった。
――この人が正巳と
そう考えると、美月は画面を見ていられなくなり思わずネットの画面を消した。
実際に何が起こっているのか、どこまで功達が関与しているのか、美月にはわからないまま日々が過ぎていく。やがて、病院の支援に二条グループが名乗りを上げているという報道がなされると、美月の中でこの件が全て仕組まれたものだという疑惑が、確信に変わった。
――どうしてここまで
露わになる報道内容は、いつかこういう事態を引き起こすには充分過ぎる程酷いものであったが、その引き金は、自分達とは無関係のところで引かれるべきものだったはずだ。
少しでも話を聞かなければ、不安に押し潰されそうだった。
終業式の日の放課後、美月は柿崎に頼んで、車を功や淳也の大学に回して貰った。
だが、来てみたはいいものの、相変わらず電話は繋がらず、広すぎる構内でどこに行けばいいのか迷ってしまった。ふと思い立ち、駐車場の場所を通りすがりの学生に尋ね、示された方向へ向かってみた。
大学の中では、制服を来た女子高生はやはり目立ってしまう。途中で声を掛けられたり、囃し立てるような声が聞こえもしたが、ひたすら駐車場を目指した。
駐車場に止められた車の数は多かったが、記憶を頼りに探した淳也の車は、思ったよりもすぐに見つかった。ほっとして車の横に立つと、美月はそこで淳也を待つ事にした。
暫くすると、三人組の学生が通り掛かり、美月に目を留めニヤニヤしながらこちらに近寄って来た。
嫌な感じがするその笑みに、正巳とのことを思い出し指先が冷たくなる。美月は咄嗟に目を反らすと、携帯を取出しリダイヤルして耳に当てようとした。
近寄って来た男の一人が、その腕を掴んでくる。途端にあの時の感触がフラッシュバックし、身体に悪寒が走った。
「離して……くださ」
「なに、むちゃくちゃかわいいじゃん」
「ねえ、来ない男はおいといて、オレ達とどっか遊びに行こうよ」
車を背にして三人に囲まれる。携帯が取り上げられそうになったちょうどそのタイミングで、その場の空気にそぐわない間延びした声が、三人の背後から聞こえた。
「あれぇ? ねえ、ちょっとさ」
男たちが、煩わしそうに後ろを振り向く。その隙間から覗いた顔に、美月は安堵の息を洩らした。
「やっぱりみいちゃん。え、何でこんなとこに居んの?」
緊迫感のない、のんびりした口調で声を掛けてきた男は、目の前の三人を丸きり無視して美月だけに視線を向けている。
「康人さん……」
「もう、大丈夫かな? さっきよりは顔色も良くなったけど……」
康人が功と淳也の名前を口にした途端、三人は関わりたくないとでも言うように、すぐに立ち去っていった。それでも、動揺した美月が落ち着くまで、康人は何も言わずに車に凭れて待っていてくれた。
漸く少し落ち着いた美月は、康人に向かい礼を言った。
「でもさ、こんなとこに何で居たの? 淳也がここで待てって?」
問うてくる康人は、いつもと変わらず自分のペースを崩すことがない。淳也を通じて、美月は数年前から康人とも顔見知りとなっていた。
「違います。私が勝手に来て、でもどこに行けばいいかわからなくて」
「まあ、あいつがこんなとこにみいちゃんを一人で待たせてたんなら、罰金物だからね」
康人の言葉に曖昧に頷く。
「あの、康人さん。さっきのことは、淳ちゃんには言わないで」
美月の請うような視線を感じながら、康人はその頼みには曖昧に言葉を濁した。
「で、淳也に会いに来たんだよね」
「はい。聞きたいがあって。けど最近全然つかまらなくて」
「今ごちゃごちゃしてるあの事?」
「あの……はい」
正巳の情報収集に協力したのは、きっと康人だろうと考えていた美月は、事情をよくわかっているかのような康人の受け答えに、やはりそうだったのだと複雑な気持ちになった。
「じゃあ、一緒においでよ」
康人は少し考えるような素振りを見せてから、そう言って美月を伴い構内へと戻って行った。
「あいつ、今かなりバタバタしてるからさ、それもあってなかなかみいちゃんに話を出来ずにいるんだと思うよ。ほら、留学の準備もあって」
前を歩きながら話す康人の言葉に、思わず歩みが止まる。小走りについて来ていた足音が止まったのに、数歩歩いてから気が付いたのだろう康人が振り返った。
「……留学って」
美月の顔を見た康人が、僅かに顔を顰める。
「僕の方が罰金物か……。淳也、まだ話してないの?」
「淳ちゃん、留学するんですか?いつ、どこに?」
康人は頭を掻きながら溜息を吐いている。
「淳也に聞いたらいいよ。どっちにしろ、言わないつもりじゃなかったって思うから」
「じゃあ……本当に?」
聞きながら、美月はもう一つの事に思い到った。
「功さんと……一緒に、ですね」
曖昧に頷いた康人は、そのまま再び歩き出した。
校舎内に入り、小さな部屋がいくつか左右に並ぶ廊下を進んでいく。各部屋に教授のものだろうか、ネームプレートが取り付けられている。
前を歩いていた康人は、一つのドアの前に立ちノックをした。それからゆっくりとドアを内側に押して、顔だけをその中に入れた。
「香川いるかな?」
中の誰かに声をかけている様子で、暫くすると中から淳也の声が聞こえた。
「え、何? 康人さっき帰ったんじゃなかったっけ? えっ、何で……」
小さな声で遣り取りされている会話は、内容までは美月の耳に届かなかった。やがて、扉が内側に大きく引かれ、淳也が顔を出した。
「……みい」