本編《Feb》

第二章 上弦の月7


「ベラベラとよくしゃべる口だな。まるで好きな女の事を話すみたいに、熱が入ってるんだな」
 功が静かに発した言葉に、正巳は、眉根を寄せイラついた表情を見せた。
「あんたらが聞きたがったんだろ?」
「そうだな。芙美夏を傷つけたのがどんなくだらない男か、この目で見ておきたかった」
 功が口にした名前に、正巳だけでなく淳也も、微かに顔を上げる。
「へえ……そう。やっぱ二条さん、芙美のこと気に入ってるんだ。何かあんたらって、報われないね。安っぽいドラマみたいで笑える」
「気に入ってる、じゃない。それに、芙美夏はお前みたいな男が触れていい女じゃない」
「じゃあなに? 上等なあんたなら触れてもいいってこと? っていうかさ、お綺麗な事言ってるけど早い話――」
 正巳が、下卑たという表現がぴったりな顔で笑った。
「要はやりたいんだろ。あいつと」
「お前がそう望むとおり、お前は自分でゴミになったんだな。だが芙美夏は違う。一緒にするな」
「うるさい。あんたに俺の何がわかんの?」
「わからないし、わかりたいとも思ってない。さっきもそう言っただろ? 芙美夏に関わらない限り、お前には何の関心もない」
「随分つれないこと言うね」
 揶揄するように唇の端を持ち上げた男に、功は少し顔を寄せた。
「そろそろ、話を終わりにしようか。……お前はこの先、二度と芙美夏に関わる事はできない。少しでもそんな素振りをみせてみろ、その時は犯罪者として二度と世間に出られなくなると思え」
「何……言ってんの」
「日本語なんだ、理解できるだろ?」
「は?」
「完全に安全だとわかるまでは、例えそれが一生でもお前には監視が付く。完全な自由はなくなる。お前一人を犯罪者に仕立て上げるぐらい簡単なことだ。信じられないなら試してみればいい。お試しでは済まないことになるがな」
「……え、本気? たかが女一人にちょっと手を出しただけで」
「たかが、じゃない。お前が手を出したのは芙美夏だ。それに、俺に正気じゃないって言ったのは、お前だろ。本当なら、俺がこの手でお前を殺してやりたいくらいだ」
「じゃあそうすれば。その方がよっぽどマシだ」
「だから、そうしないんだよ」
「あんた、思ったより卑怯な男だな。自分の力じゃなく家の力を使うって」
「お前に卑怯と思われたところで、痛くも痒くもない。使えるものは何だって使うよ」
 正巳は、捉えどころのないぼんやりとした表情を浮かべていた口元を緩め、小さな笑い声を漏らした。その声は徐々に大きくなり、堪えきれないように腹部を押さえながら笑い始める。
「こいつ、おかしくなったんじゃ……」
 淳也が呆然として呟く。
 身体を前のめりに折ったまま、笑いすぎで浮かんだ涙を手で拭った正巳は、更に時折漏れる笑いを堪えながら、大袈裟に溜息を吐いた。
「二条功ともあろう男が、あんな何てことない女に随分なご執心だね。あー、笑いすぎてお腹痛い。……こんなことなら、ホントにあいつ犯しとけばよかった。そしたらあんたのどんな情けない顔が見れたのかと思うと、むちゃくちゃ惜しい事したよ。ヤレない上に怪我までさせられて、挙句の果てにこれじゃあ割りに合わない」
 正巳は、正面からまっすぐ功に目を合わせた。
「あいつアン時さ、俺に身体ぐらいくれてやるって言ったんだ。処女だし濡れないし面倒だとは思ったけど、そのままさっさとやっときゃよかった。邪魔さえ入らなきゃ、あいつの身体をもう二度とあんたを望めないくらいグチャグチャにして、あんたを苦しめてやれたのに」
 突然功が立ち上がり、正巳の腕を掴んだ。
 淳也が止めようとした時にはもう、顔を殴る鈍い音と共に、正巳がソファから床に転がり落ちていた。
「っ痛って」
 唇から血を流し、ゆっくり起き上がった正巳の目が据わっている。淳也は報告書に記載された「凶暴性」の文字を思い出し、功を守ろうと側に寄った。
「功さん」
「手を出すな」
 その淳也を、功が後ろに退けるように押し戻す。
「……何すんだよ」
 目つきの変わった正巳が起き上がりざま、功の側頭部に向けて蹴りを入れてきた。それを腕で受け止め防御する音が、部屋に響く。正巳の手には、いつの間にかサバイバルナイフが握られていたが、功はそれには動じる様子はなかった。
「殺してやる」
 的確な間合いでナイフを振りかざしてくる正巳の動きは、確かに素人にすれば、かなり慣れた動きだった。だが相手をする功も、幼い頃から誘拐や暴漢に備え、護身術をはじめとした訓練をプロから受けている。
 何が起こったのか正巳が把握することはなかっただろう。気が付けば、ナイフは床に叩き落され、功が正巳を締めてしまっていた。
「……大丈夫、ですか」
 愚問だと思いながらも声を掛けると、息もほとんど乱さず立ち上がった功の腕に、薄っすらと血が滲んでいた。
「傷が」
「いい、こんなのは傷のうちに入らない。本当ならこいつが美月につけた傷を、何倍にもして返してやりたいくらいなんだ」
 それでも、最初の顔への一撃だけで、鼻と口から血を流す正巳の鼻の骨は恐らく折れているだろうと思われた。恐らく、一切手加減は加えなかったはずだ。
「淳也。悪いが、奥にいる康人と一緒にこいつを元のマンションに捨ててきてくれ」
 奥の部屋で話を聞いていたらしい康人が、自分の名前が出た途端、動じた風でもなく飄々と出て来る。その康人も、普段余り見せる事のない険しい表情を浮かべ、床に倒れている男を見つめた。
 脇に屈み込んだ淳也と康人が、正巳の身体を確かめていく。ポケットからは、手錠やナイフ、そして何かはわからない薬らしきものも出てきた。それらをテーブルの上に並べながら、二人して眉を潜めている。
「これ手錠。こいつに掛けてやりたくなるね」
「こんなものまで……。みいは、よく無事で戻って来れましたね」
「……ああ」
「薬は、後で成分を調べておきます。とりあえず、こいつを連れて帰ってきます」
「頼んだ」
 淳也と康人とが正巳を連れ出すのを、功は疲れたようにソファに沈み込んで見ていた。扉が閉まる音に大きく息を吐き出し、両手で顔を覆う。
 どれくらいそうしていただろう、怒りを鎮めるように閉じていた瞳を開き、功は正巳を殴った自分の手を見つめた。拳の骨の辺りが、赤く擦り剥けている。
 本当は何度も何度も、正巳の言葉に冷静ではいられなくなる自分がいた。
 動揺を見せないよう平静を装っていたが、目の前の男を殺してやりたいほどの衝動を抑えるのにかなりの労力を要した。
 あの男に身体をやると言ったときの彼女の絶望を思うと胸が痛む。そして。
 ――あいつ、あんたを好きなんだって
 そう言った正巳の言葉にも激しく心を揺さぶられていた。

 田邊病院に捜査のメスが入ったのは、それから数日のうちのことだった。
 脱税や診療報酬詐欺、業務上過失致死など容疑は多岐に渡り、マスコミはこぞって腐敗した病院の体質を糾弾し始めた。経営者――すなわち田邊夫妻による巨額の赤字隠しや、にも関わらず私財を肥やしていたこと、患者とのトラブルや医療過誤など数々の問題も明るみになっていた。
 捜査は一年以上前から年月をかけて隠密に進められており、院長夫妻の逮捕も時間の問題だと、ワイドショーやニュースは連日この事件をトップで扱った。経営陣の逮捕という非常事態に、医師や病院職員、入院患者など関係者の間に大きな動揺が広がっていた。
 病院の経営が破綻するのも、もう時間の問題だろうという噂が流れたその時、支援を申し出たのは、二条ホールディングスの関連会社だった。
 送り込まれたスタッフにより手際よく迅速丁寧に行われてゆく経営の立て直しは、まるで事前にあらゆる準備が整えられていたかのようであった。
 そしてその事が、二条のブランドイメージを更にアップさせるのに、さほど時間はかからなかった。


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