本編《Feb》

第二章 上弦の月6



 田邊の居ると思われる高層マンションの前に、功はハザードを灯し車を止めた。助手席の淳也が、携帯を取り出し発信すると、しばらく呼び出し音が聞こえやがて繋がった。
 田邊こと高宮正巳の電話番号は、美月から入手していた。
 見知らぬ番号に警戒しているのか、応答の言葉はなく、無言で様子を伺う気配がする。功は淳也の手から携帯を受け取った。
「田邊、いや、高宮だな」
「……」
「俺が誰かわかるか」
「……誰、あんた」
「お互い、色々言いたい事があるだろ」
「……ああ、二条か?」
「今マンションの下にいる。会って話がしたい。お前がここを出てくるまで、ずっと待たせてもらう」
 電話の向こうで、正巳がクッと笑みを漏らす声が聞こえる。
「ストーカーか」
「そうだな。不本意ながら」
「わざわざ捕まりに降りていく趣味ないんだけど」
「どっちにしろ、そこにはもうそう長くはいられない」
「どういう……へえ、学校だけじゃなくこっちにも手を回したわけだ」
「……」
「たかがあんな女のためにそこまでするなんて、正気じゃないね」
「正気じゃないのはお互い様だろ」
「ふーん、いいよ。わかった、いくよ。ちょうど退屈してたんだ」

 通話が途切れ十分ほど待つと、ロビーの自動ドアが開き、ハーフパンツにTシャツのラフな格好をした正巳が現れた。
 左手には包帯が巻かれている。眩しそうに車の方に目をやると、歩み寄って来た。
 正巳を待つ間に、淳也と席を入れ替わり座っていた助手席の窓を開ける。
「立ち話もなんだから、後ろに乗ってもらえるか」
「そのまま拉致られてどっかに埋められたりして」
 薄っすらと笑みを浮かべてそう口にしながら、正巳は後部ドアに手を掛け、後ろに乗り込んだ。どこか今の事態を楽しんでいるようにさえ見受けられる。
「こっちの人は、俺が気に食わなさそうだけど」
 そう言って運転席からミラー越しに正巳を睨みつけている淳也を顎で示した。
「心配するな。俺も気に食わないから」
 正面を向いたまま答えて、淳也に車を出すように指示する。殆ど音を立てることなく、滑らかに車が動き始めた。
「やっぱいい車は乗り心地いいね。でも、さあ」
 正巳は後部座席から身を乗り出すように、二人の座席の間に顔を突き出してくる。
「処女とカーセックスはやめた方がいいよ。この間もひどい目にあったからさ」
 嬉しそうにくすくすと笑い声を漏らす正巳に、淳也が顔色を変えた。
「お前っ」
 ハンドルを握りながら思わず振り向こうとする淳也を、功が止める。
「お前は運転に集中していろ。くだらない挑発に乗るな」
 淳也は舌打ちをすると、正巳を睨みつけてから前を向いた。
「さすがに冷静だね、二条さんは。大人の余裕っていうやつですか」
「高宮」
 その呼びかけに、今度は正巳が大きく舌打ちをした。
「その名前嫌いなんです。それで呼ぶの止めてもらえます?」
「どうして? お前を捨てた親の名前だからか?」
「……」
「まあ、もう二度と顔を合わす事もないんだ。呼び方なんてどうでもいいだろ」
 そう告げたきり功は口を噤み、正巳もふてくされたように、座席のシートに凭れかかった。

 やがて、車は功のマンションの駐車場へと入っていった。車を降り、専用エレベータで最上階へ向かう。
 正巳はキョロキョロとしてはいたが、ヒリついた空気は消えることなく、部屋に着くまでの間、誰も口を開く者はいなかった。
 ソファに向かい合って腰掛け、功は冷蔵庫からペットボトルの水を出すと、正巳の前に置いた。
「毒でも入ってたりして」
 そう毒づく正巳を、功はどこか柔和にさえ見える眼差しで見つめた。
「そんな簡単に楽にしてやるほど、親切じゃない」
 腹の内を探り合うように視線を交わしたまま、しばらくは互いに噤んでいた口を先に開いたのは正巳だった。
「――で、話って何?」
「何のために美月を傷つけた」
「あのさ、美月って誰それ。僕が知ってる女の名前は美月じゃない。芙美夏だ」
「悪いが、お前にその名前を口にして欲しくない」
 正巳が顔を上げて、楽しそうに微笑む。
「何それ、独占欲っていうやつ? 面白いね。けどそもそも美月っていうのは、あんたらが勝手にあいつに押し付けた偽物の名前だろ」
「それでも、今の名前は美月だ」
 功は、自分がずっと心の中で呼び続けていたその名前が、この男の口から音を伴って発せられる事がどうしても我慢ならなかった。
「ま、どうでもいいけど。それ聞いてどうする訳」
 正巳の問いはスルーして、逆に功が問いかけた。
「お前は知ってたのか」
「何を?」
「美月の両親の事だ。知ってて、あの女を二条に寄越したのか」
 正巳は否定も肯定もしなかった。「あの女」というのが誰なのかを尋ねることもなく、ただ口元に笑みを浮かべている。
「いったい何が目的だった、美月をどうするつもりだった」
「僕達が再会したのは、運命だよ。僕らは誰よりも近くて分かり合える存在だ。あいつと一緒に、これまで僕たちから全てを奪っていった奴らから、今度は僕達が奪い尽くしてやる予定だったんだ」
「それはお前の意思であって、美月の意思じゃない」
「変な思い違いをする前に、僕が目を覚ましてやらないと。このままじゃ、あいつも全てを奪われてしまうからね。……あんたらに」
 だろ、とでも言うように顎を持ち上げた正巳の面持ちが、突然真剣なものに変わる。
「あいつを……芙美を傷つけるつもりは無かったんだ。あいつは僕の仲間だ。僕の養父があいつの父親かもしれないってことを知ったのは、本当に偶然だった。それを知った時、神様が僕達にチャンスを与えてくれたんだって、そう思った」
「……何のチャンスだよ」
 黙ってソファの後ろの椅子に腰掛けていた淳也が、そう口を挟む。
「自分達が始末したつもりの子どもが……この世にいないはずの娘が生きていて、ゆくゆくは病院を継がせるつもりの息子が、その子を結婚相手として連れてくる。全てを奪ってやった後で、真実を教えてやるんだ。最高じゃない? 何も知らないあいつらがそれを知った時のことを想像するだけで笑いが止まらない。毎日毎日自分達が殺したはずの子どもからの復讐に怯えながら、暮らしてもらうんだ」
「くだらない幼稚な発想だな。お前の復讐に、勝手に美月を巻き込むな」
 嫌悪感を隠そうとせず、吐き捨てるように淳也にが言い放つ。
「なんで? これは芙美の復讐でもあるんだ。あいつにはそれをする十分な理由がある。僕達にはくだらない事なんかじゃない。芙美は一度殺された人間だ。僕は幼い頃から自分の母親に殴られ、碌に食事も与えてもらえず、もちろん愛情なんていったいこの世のどこにそんなものがあるのかすら知らずに育ってきた。僕達は人生の初めからゴミ同然の扱いをされてきた。いやゴミ以下の存在だ。養父母だってただの善意で僕を引き取ったわけじゃない。あの魔女は、僕を養子にする代わりに僕の身体を望んだ。僕は五十を過ぎたおばさんの性欲処理の道具だ。芙美はどう? 自分の名前も実の母親と会うチャンスも奪われた。あんたらの家で、彼女は本当の自分を隠して生きてる。自分が本当はそこに望まれない人間だって知ってる。だから僕が……芙美を救ってやりたいって思った。僕ならそれが出来るって、そう思ったんだ」
 正巳の声が、途中から震えていた。
「お前……」
 淳也が驚いたように顔を上げる。口を硬く結んだ正巳は、項垂れるように俯いた。

「……それで満足か?」
 功が、皮肉混じりの声色でそう口にした。淳也が、目を見開いて功と正巳を交互に見遣る。
「くだらない芝居は、それで終わりか?」
 ゆっくりと顔を起こした正巳の唇が弧を描いた。
「やっぱ駄目? そっちの単純そうな人は簡単に騙せそうだったのにさ」
「お前……今の話嘘だったのか?」
「さあね」
 楽しげに笑う正巳の顔を、功はじっと見つめていた。
「どこまでが芝居でどこまでが本心かなんてどうでもいい。お前が美月を救おうとしたなんてあり得ないだろ。そう易々と人のために何かをする人間とはおよそ思えない。それに、お前がどんな生まれ育ちであろうと、俺には全く興味もないし同情する気もない。俺にとってお前は、ただ美月を傷つけた男でしかない」
 今度は正巳は声を上げて笑った。
「流石に馬鹿じゃないんだな。そうだよ。あいつはただの道具だ。僕の目的を遂げるためのもってこいの道具が現れた。天の恵みだと思ったね。今まで一度も与えられなかったお恵みが、僕の目の前に現れたんだ。これを利用しない手はない。それなのに」
 正巳の顔から、笑みが削げ落ちていく。それは、先ほどの話をする直前の真面目そうな表情が、芝居だったことがよくわかる顔だった。
「何を勘違いしたのか、自分が二条の家で暮らすうちにお前たちと同等の人間になったとでも錯覚してるのか知らないけど、自分は幸せだって、楽しくてしかたないって顔して暮らしてるんだ。ゴミの癖にダイヤにでもなった気になってさ。可哀想だから早く目を覚ましてあげなきゃって思ったよ」
「ゴミだと」
 気色ばんだ淳也が腰を浮かそうとしたのを、功が止めた。
「功さん、こいつ」
「じゃああんた達はあいつを自分たちと同じ立場だって思ってる? 思ってないよね。対等な立場じゃなく上から見下ろしてるだろ? 違うっていえる? あいつと結婚とかできんの?」
「いい加減にしろよお前」
 なおも怒りが収まらない淳也に功は再び「黙ってろ」と静かな声で命じた。
 正巳は、功を見つめながら顔を寄せると、口角を上げて嫌な笑みを浮かべた。
「ねえ、知ってた? あいつ、あんたが好きなんだって。痛くて可哀想で笑えるよな。お情けで寝てやる? きっとあんたになら喜んで脚を開くよ」

 功は何も言わず、じっと正巳の顔を見つめていた。
「あいつさ、あんたの話をすると女の顔をするんだ。必死で否定しようとするくせに、目が耳が、あんたの名前に反応する。ゾクゾクしたよ。あの顔、あんたにも見せてやりたいね。あんたなんかを好きになっても、あいつは所詮親に殺されそうになった捨て子だ。そんな女が、あんたたちの世界で受け入れられるわけない。愚かな夢を見なくて済むように、僕があんたを思い切れるようにしてやろうって思ったんだ。僕たちは幸せになんてなれない。ここまで引きずり落として、早くそれに気付かせてやろうって親切心だよ。ね、僕って優しいって思わない?」

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