本編《Feb》

第二章 上弦の月5




 一度マンションの部屋へと戻りスーツに着替えた功と淳也は、本社ビルに向かい地下の駐車場に車を停めた。
 昨夜とは違い、本社ビルへの訪問は日中だった。
 ――12時45分から13時15分
 それが二条家の当主であり、二条ホールディングスの最高責任者である二条永が、時間を都合して欲しいという息子の要望に対し指定してきた時間だ。
 香川からは、きっちりこの時間に受付で来訪を告げるように指示されていた。
 受付に近付くと、功が口を開く前に女性の一人が立ちあがり、洗練された笑みを浮かべて腰を曲げる。
「功様、淳也様でいらっしゃいますね。香川専務より、お伺いしております」
 女性達が二人を認識した瞬間、僅かに見定めるように視線を走らせたのを、功も淳也も察していた。

 案内を受け、ロビー奥の重役用エレベータに乗り込む。最上階のボタンを押すと、案内の女性は外へ出て定められた角度に腰を折った。
「ありがとう」
 そう言葉をかける。ドアが閉まるまで彼女の姿勢は崩れる事がなかった。
 高速で上昇したエレベータのドアが開くと、目の前に香川が待ち構えていた。毛足の長い絨毯の上を進み、廊下の中程にある重厚なドアをノックした香川に続いて中へ入ると、役員付の秘書が立ち上がり功たちを迎え入れる。
「どうぞ、中でお待ちです」
 彼女の言葉に頷いた香川は、淳也にはここに残るように告げて、功を更に奥の扉まで案内した。

 香川が下がるのを待って、扉をノックしドアを開いた。
 父の姿を見たのは久しぶりだと思いながら、功は差し示されたソファーに腰を下ろす。
「久しぶりだな」
 そう言った父の目に、特別な感情を感じ取ることは出来なかった。
「今日はお願いがあって参りました」
 功が言葉を返すと、頷いた永は向かいに鷹揚に腰を下ろした。
「でなければ、お前がわざわざ私に会いにはこないだろう。おおよその事情は香川から聞いたが、それに関係する事か」
 仕立ての良いオーダーメイドのスーツに身を包んだ永は、一見すると穏やかな紳士に見える。だが発する言葉には、周りの人間を従わせる威圧感があった。
 次男である永が当主となったのは、長男の素行に問題があったからではあるが、元々継嗣であった長男は自分より優秀なこの次男の影に、ずっと怯えていたのではないだろうか。
 今となっては、誰も永が長男の代わりに二条の当主に納まった事を忘れてしまっていた。
 功はその父の顔から目を離さぬまま、口を開いた。
「はい。病院を一軒、潰してください」

* * *

 退室のためドアに手をかけた時、「功」と、永に呼び止められた。
「――あとの事は心配しなくていい」
 そう続けた永は、今はもう自身の執務用の椅子に腰掛けていた。
 この話はもうお前の関知することではなくなったと、念を押されたのだ。
 ドアにかけていた手を離すと、功は父と正対した。
「よろしくお願いします」
 頭を下げていた功は、その時の永の表情が、ほんの僅かではあるが悲しげに見えたのを知る事はなかった。
 扉を開けて永の部屋を出ると、淳也が弾かれたように立ち上がり視線を向けて来る。功は秘書と話をしていた香川へと、声を掛けた。
「すまない。色々面倒をかける事になって」
「いいえ。私も同じ気持ちですから」
 微かに首を横に振った香川は、功を見つめた視線をそっと伏せて、軽く黙礼し、永の執務室へと姿を消した。
 秘書の女性に声を掛け、功は淳也を伴って、部屋を後にした。
「車に戻ってから話す」
 物問いたげな淳也に一言だけ告げると、後は無言のまま、エレベータで階下に降りて、運転席側に回ろうとした淳也を制し、功がそちらはと乗り込んだ。

 ナビをセットすることもなくビルを出た車は、マンションとは逆の方向へと向かい始めた。
「どこへ行くんですか」
「あの男に、会いに」
 淳也が軽く息を飲む気配がした。
「今から、ですか。でもまだ……」
 戸惑いが伝わってくる口調に、顔を向けることもなく口を開く。
「田邊と病院、それに美月のことは、父に全てを任せる事になった」
「そんな……功さんはあいつを許さないって」
「許さないから、そうしたんだ。あいつらを追い詰める為なら、手段を選ぶつもりはないと言ったはずだ。俺のプライドもどうでもいい。今の俺が使い得る最大の武器は父の力だ。それを使って、美月を傷つけたことへの責任を取ってもらう」
「功さん、旦那様といったい何を話したんですか。父に聞いても、何も答えてくれませんでした」
「淳也」
「……はい」
「留学の日にちが早まった」
「今そんな話は」
「七月下旬には日本を発つことになる。淳也も、そのつもりで準備をしてもらいたい」
「……え? 七月って……それもう一か月も残ってないじゃないですか。なんでそんな急に、だいたい留学の予定はまだ二年は先の事だったはずです。それを、しかもこんな時にみいを置いて――」
 そこまで口にして、淳也は何かに思い当たったようにハンドルを握る功の腕を掴んだ。
「もしかして今回の件の交換条件ですか」
 その問いを、功は否定も肯定もしなかった。
「功さんはそれでいいんですか、みいを置いて、一人にしてまた何かあったら」
「出発までには解決する」
「でも」
「淳也」
 功は指示器を点滅させると、車を追い越し車線へと滑り込ませスピードを上げた。
「決まったことだ。それに……遅かれ早かれこうなることはわかっていた。そうだろ」
「でも……こんな……」
 そう言ったきり、口を噤んでしまった淳也の納得していない様子に、功はふと笑みを浮かべた。
「何が……おかしいんですか、功さんはそれで平気なんですか」
「平気じゃない、って言ったらどうにかなるのか?」
「海外に行かなくても、日本で、それに見合うだけのスキルを身に付けるって言ってたじゃないですか」
「父は。美月が俺の部屋に一晩いた事を知ってた」
 淳也は、運転席の功へと顔を振り向けた。
「誰が旦那様にそんなこと。それにあの日は、そんな事言ってる場合じゃなかったじゃないですか」
「理由なんて関係ない。話に尾ひれがついてうるさい連中の耳に入ったら、美月があの家に居られなくなる可能性だってある。それに……」
 前方の信号が赤に変わりスピードを緩めた功は、車が止まると同時に淳也を見つめた。その口元に、ふっと自嘲するような笑みが浮かぶ。
「何より、俺が苦しい。もう、今までのように振る舞える自信がない」
「……功さん」
「離れた方がいい。俺の想いは、美月の立場を危うくする。いつか彼女を苦しめる」
 ――今なら
 きっと間に合う。忘れられる。何もなかった事にすることが出来るはずだ。功は自分にそう言い聞かせていた。
「思ったより、小さい男だとがっかりしただろ」
 淳也は、それ以上何も言わなかった。けれど、ただその功の言葉だけは、大きく首を横に振り否定した。

 ――病院を潰して欲しい。
 そう言ったものの、功の頼みや私怨だけで動く父でない事はわかっていた。父を説得するだけのプランを示す必要がある。
 二条のグループ企業の中に、製薬会社がある。そこで力を入れて取り組んでいるのは、不妊治療薬と癌の治療薬だ。それらの研究部門と別会社で研究開発されている介護ロボット、オペの遠隔操作システムなど、今後医療部門の充実を図ろうという計画がなされていた。
 それぞれの研究に臨床の現場が備わる事は、開発促進には効果が見込めるであろうこと。
 また病院の再建に乗り出すことによる企業のイメージアップは、それ以外のグループ関連企業へも少なからず恩恵をもたらすであろうこと。
 功は、それらのシミュレーションを、具体的な数字と併せて提示した。病院を潰すと言っても、患者やスタッフ、従業員から病院を奪うことが目的ではないのだ。
 そして最後に頼んだのは、田邊正樹の処遇だった。
 功が全て話し終えた後、永はその頼みを承諾する代わりにと、交換条件を提示した。
「再来年からと考えていたお前の留学だが、この夏には行ってもらう」
 功は驚き、顔を上げた。
「お前が色々やってる事は耳に入っているが、留学は義務だ。否はない。それから」
 永は功を正面から見やった。
「二年たって戻ったら、それなりの相手と婚約してもらう」
「婚約……ですか。その頃、まだ僕は二十二ですよ」
 苦笑を浮かべた功の言葉を、永は表情を変えることなく聞いていた。
「早すぎませんか」
「早い方がいいだろう」
「何もそこまで急がなくても、それなりの年齢になれば」
「早い方がいい理由は、お前が一番わかっているはずだ」
 黙って視線を交わす。
「お前は、二条の力をあの娘のために使えと私に言ってきた。それは何故だ」
「……二条家は、彼女に負い目があるはずです」
「私には負い目はない。それなりの境遇は与えてきた。あの娘が本来なら得る事のなかったものをだ。それに、もしもそうだとしても、それはお前が負うものではない」
 功は、眉根を寄せて顔を逸らした。
「それだけではない。あの娘がお前の部屋に一晩いたと屋敷の者に知られている」
「それは……ですがあの日は」
「何があったかは香川からあらかた聞いている。だが他の者は事情を知っているわけではない。お前がそばにいなければならかった理由が何か説明できるか? 誰か人を……香川や和美を呼ぶのが、お前が取るべき行動だった。それに、言い訳をするために、その事情とやらを広めるつもりか」
「……いえ」
 何も言い返すことができず、功は手を握り締めた。
「だったら何を勘繰られても仕方ない。お前は、自分の立場を忘れ付け入る隙を与えた。それがあの娘の立場を危うくする事も、冷静であればすぐにわかることだ。今回はこちらに情報が回って来たが、中にはお前を引きずり落とそうとする連中と繋がっている者もいるんだ」
「申し訳ありません」
 苦渋の表情を浮かべ、辛うじて侘びの言葉を口にする。
「功。あの娘は、お前と並んで生きていく者でなない。私がそれを認める事はないとお前もわかっているはずだ。あの娘は二条の家に相応しい者ではない。これは、お前や二条のためだけに言ってる訳ではない。あの娘も、苦しむだけだ」
「……わかっています」
「ならそれでいい。さっきの件はお前が戻ってくるまでに、こちらで進めておく。あの娘の事は悪いようにはしない。お前が心配する必要はない」
 功は暫くの間、言われたことをどうにか自分に納得させようと、両手を握り閉め顔を伏せていた。
「功――時間だ。どうするのか決めろ」
 父が決断を促す。功は一つ大きく息を吐いて、立ち上がった。
「わかりました。条件を呑みます」
「……そうか」
 暫く黙って功を見つめていた永は、そう頷いて立ち上がると、自身の執務用デスクへと戻りその身分に相応しい椅子に腰掛けた。
 話は終わったという合図だ。
 功はもう一度深く父に頭を下げると、いずれは自分が使う事になるその部屋を後にした。


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