香川の元からマンションに戻るとすぐに、功の指示で田邊病院についてより詳細な調査が行われた。
功達だけでなく香川の方でも、病院や田邊、そして美月の母――矢萩望について調査を続行すると言われていた。
帰ってきた二人にいきなり呼ばれ、最低限の情報で指示を受けた康人は、初めこそややムッとしていたが、恐らく調べている過程でおおよその事情は察したのだろう。少しずつ、キーを打つ指の音が強くなり、顔つきは険しいものになっていった。
翌朝、アポイントの取れた時間に、卒業して以来の学園を訪ねた功は、淳也を車に待たせて、理事長と高等部校長の二人とほんの数十分話をしただけで、理事長室を後にした。
その短い訪問で、田邊に対する学園の処置が決まった。
この学園で、二条の存在は絶対だった。学園の経営母体は二条の一族会社、即ちこの学校は二条家のものでもあったからだ。
これまでの生活の中で、自ら誇示する事のなかったその力を、功は初めて自分の意志で利用した。
車寄せまで戻ってくると、淳也が車に凭れ、一人の女子生徒と話をしていた。こちらに背を向けているが、恐らくは金沢藍だろう。功に気が付いた淳也の視線を追って、彼女が振り向く。
驚いたように目を見開いてから、淳也に向き直り何事かを尋ねているようだった。
淳也が頷いたことからして、功の事を確認したのだろう、再びこちらを振り返り頭を下げてくる。
「淳也、彼女が金沢藍さん?」
「はい」
好奇心を隠そうとしない上気した表情でこちらを見ていた藍が、もう一度ペコリと頭を下げる。
「はじめまして、美月の友達の金沢藍です」
「話は聞いています。二条です。今回は君のお陰で本当に随分助かった。ありがとう」
礼を言うと、大きく首が横に振られる。
「私がもっと気をつけていればよかったんです。昨日、美月のお見舞いに行かせて貰いました。美月、もう大丈夫って言ってたけど……でも」
そこまで口にして、美月の様子を思い出したのか、口を噤んで少し泣き出しそうな表情を見せた。
「あんな……あちこち傷だらけで、顔まで殴られて。女を殴って力ずくでなんて、あんな男絶対に許せません。私に何かできる事はありませんか」
真摯な眼差しで功と淳也を交互に見遣る彼女を見て、功は心から安堵を覚えた。美月を心から心配してくれる人が、ここともいる、と。
「藍ちゃん、そろそろ授業が始まるんじゃ」
「あ、ほんとだ、行かなきゃ。田邊会長、あ……田邊が学校に現れたらすぐに報告します」
「いや、彼はもうこの学園の生徒ではなくなった」
「えっ」
功の言葉に、藍が目を見開く。
「藍ちゃん、彼は君が感じたようにただの品行方正な奴じゃない。とても危険な人間なんだ。だから君も、もしどこかで彼を見かけるような事があっても、絶対に関わりを持ったりしないと約束してくれないか。美月に起きた事を考えたら、君が容易く相手できるような奴じゃないってわかるね」
大きく開いた瞳が何度か瞬き、藍は功に頷いてみせた。
「もしも奴のほうから君に接触してくるような事があれば、すぐに助けを呼んで。淳也の番号は知ってるよね」
「はい」
淳也が後ろで頷く。
「それから、藍ちゃんにひとつお願いがあるんだ」
そう言って微笑みかけると、少し顔を赤らめながらも、問い掛けるように功を真っ直ぐに見てくる。
「美月を、また見舞ってやって欲しい。君の事は家の者にも言ってあるから、出入りに気を使うことはないよ」
「あの……私、毎日行ってもいいですか?」
「それじゃあ君が大変だから、時間のあるときで構わないよ」
「いえ、毎日行きたいんです。私、本当に美月のことをもっとたくさん知りたいんです」
「そう……。ありがとう」
ありがとうと口にした功を、藍は、どこか驚いたように見つめた。
「じゃあ、これからも美月を宜しく頼むね。それから、淳也」
「はい」
「彼女がうちに来てくれる日には、毎日でも送り迎えを手配して」
戸惑いながら必死で遠慮する彼女に、功は微笑むだけでそれを了承させた。
チャイムが鳴り、藍が慌てて教室に戻っていくのを見送ってから、二人は車に乗り込んだ。
「田邊は退学ですか?」
車を走らせるとすぐに、淳也が尋ねてくる。
「そうだ。そっちはどうだった?」
「奴は自宅ではなく、みいが言ってたあそこの――」
そう言って淳也は、学園から程近い場所に聳え立つタワーマンションを指さした。
「マンションに居るようです。腕に包帯を巻いて、近所のコンビニに出かけたという情報が入りました」
「そうか」
「どうしますか? あそこに向かいますか?」
「いや……。今から父に会いに行く」
淳也が驚き、ちらっと横目でこちらを見やる。
「旦那様にですか?」
「ああ、今回は流石に父の力を借りなければ打てない手があるんだ。父の力というより、二条家の力だな」
答えながら、それが不本意である事を隠すように、功は窓から外を眺めた。
「――淳也」
「はい」
「俺は手段を選ばないつもりだ。美月を殺そうとした奴ら、犯そうとした奴を潰すためなら、自分の持っている物は全て使う。父にも頭を下げるつもりでいる。けれど……」
「何か、あるんですか」
「その事でこの先、お前も巻き込んで迷惑を掛けることになるかもしれない」
淳也は、その意味することを考えるかのように、しばらく黙っていた。
信号待ちに引っ掛かるまで何も話さなかった淳也は、車を停止させたタイミングで、功へと顔を向けた。
「功さん。俺だってあいつらを許せないって思っています。どんな事でも協力するつもりでいます。だからその結果何があっても、迷惑だとか思ったりしません。それに、俺はあなたの腹心になる人間です。あなたは俺に構わず命令すればいいんです」
「そうだな……じゃあ、そうさせて貰うよ」
あえて礼を言う事はしなかった。淳也には淳也の思いや、立場があるのだ。
信号が青になり、アクセルを踏み込んだ淳也は、何気ない素振りを装い、功が尋ねようとしない美月の事を話し始めた。
「――熱も下がって、今朝は食欲も出てきたそうです。昨日藍ちゃんがお見舞いに来てくれてから、目に見えて元気になった様子だと、母が言ってました」
少しホッとしながらその様子を思い浮かべて、功は目を閉じた。
「それから……功さん。みいに」
淳也が何かを言いかけて、躊躇っている気配がした。目を開けて尋ねる。
「何?」
「……いえ、なんでもありません。本社に向かえばいいですね」
そう言ったきり口を噤んだ淳也は、結局その言葉の先を口にする事はなかった。