本編《Feb》

第二章 上弦の月3



 功が運転をしながら次々とこれからのことを指示していく。頭の中でそれを系統立てて整理するうち、淳也はこれから功がいったいどう動くつもりなのか、自分がやるべきことは何かを理解した。
 そうしながら、淳也は今日の昼間の美月の様子を思い出していた――。

 ***

 功と倉知が部屋を去り、入れ代わるように淳也が部屋に入っていった時、美月は胸に手を当て俯いていた。
「みいっ、苦しいのか」
 慌てて駆け寄ると、驚いたように顔を上げた美月は、今まで淳也が見たことがないような表情を浮かべていた。ほんの一瞬で、切なげなその表情は消え去り、まだ傷痕が生々しく痛々しい顔にいつもの笑みが浮かぶ。
「大丈夫、何でもないよ」
 ベッドサイドに立ち美月を見下ろすと、躊躇うように瞳を揺らし、やがて小さな声が尋ねてきた。
「淳ちゃん」
「ん?」
「……功、さんは?」
「ああ、もう出かけたよ」
「そう」
 視線を手元に落とした美月は、両手の中にベージュ色の柔かな毛並みの何かを握っていた。
「それ、何?」
 ピクリと動いた指が、それを閉じ込めるかのようにぎゅっと握り締める。微かに赤みが差した頬を隠すように俯いたまま、美月が口にした答えは「宝物」というものだった。
 見覚えがある気がする、何だっただろうか――とぼんやりと考えていた淳也の耳に、ポツリポツリと話し始めた美月の声が耳に届く。
「淳ちゃん……あのね」
「うん、なに?」
「功さん。ずっと、優しかった。私がこんなだったから……だからきっと仕方なくだったって思うけど。迷惑かけたのに、嘘をついてたのに。なのに私、ちゃんとありがとうもごめんなさいも言わなかった」
「うん……」
 ――そりゃ優しいだろう
 そう思いながら口にはしなかった。あの人は、本当はいつだってお前に優しくしたくてたまらないんだ。
 またお礼を言えばいいと口にしようとして、言葉を飲み込んだ。二人の関係を思えば、その機会が容易に訪れるとも考え難い。
「俺さ……あの人に言われた」
 口を開くと、美月が、淳也へと顔を向けるのがわかった。
「本当のこと言えば、俺、最初はみいに怒ってた。ムカついてた。どんな事情があったにしても、まさかみいが俺に嘘をつくなんて……。あんな風に俺の目を真っ直ぐ見ながら、何でもないように嘘をつくなんて信じられなくて」
 美月が口元を強ばらせ、ごめんなさいと言おうとするのを制するように話を続けた。
「そしたら功さんは、俺にはみいの気持ちはわからないって言ったよ」
 美月の目が、微かに見開かれる。
「母親を……お母さんのことを、心の底でいつでも渇望してるみいのその気持ちの強さは、俺には理解できないって。けど、あの人は……功さんはわかってた」
「どう、して」
「少し冷静になれば、俺だってお前が平気であんな嘘をついた訳ないって事くらいはわかる。けどやっぱり俺は、功さんに言われなかったら、わだかまりを持ったままで、みいの気持ちをちゃんと考えてやることができなかったかもしれない。正直、何でこの人にはわかるんだって。ずっとみいといた俺より何でってそれにも腹が立ったけど、あの人は……みいと同じだから。だからわかるのかもって思ってさ」
 そう言った時、美月の顔が苦しそうに歪んだ。
「でも同じなら――」
 呟くように何かを言いかけた唇が震え、頬を涙が流れ落ちる。涙の滴を追うように美月の顔が下を向き、両手のひらで覆われた。

 そういえば――と、淳也はさっきは気付かなかった事に気が付いた。泣いている美月を見た記憶がなった事に。
 遣る瀬無さに歪めた視線を落とした先、美月が握り締めていたものが、掛け布団の上に取り残されていた。
 ――ああ、そうか。みいがいつも持ち歩いていた熊のポーチだ
 それが何だったのかがわかるのと同時に、ふと疑問が頭に浮かぶ。あれは、美月が由梨江の棺に入れたのではなかったか。
「……同じなら、何?」
 尋ねながら、そっとポーチを手に取った。美月が持っていたものはだいぶくたびれていたが、これは随分新しい。そう思いながら淳也が何気なくポーチを手元で裏返したのと、美月が答えを口にしたのは、ほぼ同時だった。
「同じなら、功さんにそんな思いをさせたのは、私だよ」
「なに、言ってる」
 思いも寄らない言葉と、ポーチに縫い留められた名前とに動揺する。
 淳也を見上げた美月は、苦しげな表情を浮かべてはいたが、もう泣いてはいなかった。
「だって私、功さんからママを奪ってた。ママは私がここに来てから、ずっと私しか……美月ちゃんに成りすました私しか目に入ってなかった。功さんとママが一緒に居れなかったのは、私がここに来たせいでしょ。私が母親を欲しがって、自分の事しか見えてなかったから、だから功さんはずっと淋しい思いをして」
 そこまでひと息に口にして、再び俯いてしまう。
「違う、それは違うよ。みい」
 慌てて否定しようとしても、美月はただ首を横に振るだけだった。
「違うんだよ、みい。功さんは……あの人は、みいがこの家にくる前からひとりだった」
 言い聞かせるように話しながら、淳也は俯く美月の頭をゆっくりと繰り返し撫でた。
「奥様は、昔から身体が弱く線の細い人だった。功さんを産んですぐに、体調を崩して何日も入院して精神状態も不安定で。二条家の跡継ぎをそういう状態の母親に任せておくことはできないからって、功さんは生まれてすぐに奥様から引き離されたんだって……」
 初めて聞く話だったのだろう、美月は俯いたまま何も言わずじっと聞き入っているようだった。淳也はベッドサイドの椅子に腰掛け、話を続けた。
「子どもに会えない毎日が続いて、元々神経の細い奥様の状態は益々悪化した。だけど功さんは普通の子どもじゃない。この家の跡継ぎだ。二条家にとっては誰よりも重んじられる人だ。だから、病気の母親の側で育てるよりも隔離して育てる方法が選択されたんだ。奥様が退院し療養先から戻って、ようやく対面を果たしたのは、もう功さんが二歳になった頃だっていう。功さんは、奥様には懐かなかった。奥様はそれがまたショックで、懐かない子どもをどうやって扱えば良いのか分からなくて、しばらくするとまた精神状態が不安定になって、何度も入退院を繰り返した。そうするうちに、奥様と功さんの関係は修復の機会を失っていった。奥様がようやく本当に落ち着いたのは、二人目の子どもを――美月様を妊娠してからだ」
 美月がハッとしたように顔をあげた。

「奥様は、今度は子どもを誰にも取られたくないと、妊娠中も産まれた後も、大事に大事に美月様を育てていた。それこそ目を離したら誰かに奪われるとでもいうように、片時も目を離さずべったりで。美月様が生まれてから、奥様の目に功さんが映る事は殆どなかったって。その頃の事は俺も少しは憶えてる。奥様は、功さんには敬語で話すんだ。まるで他人の子どもに話かけるみたいに。深く事情をわかってなかった子どもの頃の俺は、功さんは跡継ぎだからあんな風に話すのかって、母さんに尋ねたことがある。普通の親子関係にはとても見えなかったんだ。母さんは難しい顔をして何も答えてくれなかった。ただ、他の人に同じことを尋ねたりはするなって注意されたよ。俺が成長して色んな事情が見えて来るようになった時に、初めて父さんと母さんが、何があったのかを話して聞かせてくれたんだ。お前は功さんの側にいることになるのだから、知っておくべきだって」
「……ずっと、一人だった?」
 小さな声で、美月が問うてくる。
「うん。小さな頃から一人で真っ直ぐに立っている。そういう印象が強い人だった。美月様に対する奥様の執着は、お前が一番良く知っているだろ?」
 美月は微かに頷いた。
「みいがこの家に来なければ、奥様はきっと美月様の後を追っていただろう。そう、父さんはよく言ってたよ。功さんもそれは否定しなかった。自分では繋ぎとめることは出来なかったし、繋ぎ止める気もなかった。本心かどうかは分からないけど、一度だけそう言った事があったよ」
「そんなの、本心じゃないよ」
 否定するその言葉は、確信に満ちていた。
「――みい」
 呼びかけると、問い返すような眼差しが淳也に向けられる。
「功さんは、みいを恨んだりしていない。みいを……功さんは」
 言いかけて躊躇った。それを口にしたところで、それが二人のためには良いことなのかどうか、わからなかった。
 ただ、功の気持ちがまるでどこにも存在しないもののように、決して美月に伝わることがない事に、とても遣り切れなさを感じていた。
「みいをずっと……幸せになって欲しいって、思ってるよ。みいだって、知ってるだろ」
 それが精一杯だった。
 手にしていた熊のポーチを裏向けにしたまま手渡すと、壊したくない何かに触れるようにそっと、それを手に取り見つめた美月が口を開いた。
「淳ちゃんが、お願いしてくれたの?」
「それ?」
「うん」
「俺じゃないよ。俺が知ってるのはみいが奥様の棺に入れたところまでだ。だからそれは、功さんからのものだ」
 華奢な指先が、慈しむように優しく熊の毛並みを撫でる。
「わかるよな。あの人の気持ちが」
 美月は、何も答えることなく少し泣きそうな眼差しを淳也に向けた。
「みい。……もう田邊とは二度と会うな」
「淳ちゃん」
「もう、こんな風に皆に心配を掛けないでくれ。望みがあるならちゃんと口に出して言ってくれ。お前が何を望んでも、誰もお前を責めたりしない。だから、あいつとはもう――」
「わかってる。会わない。もうお母さんにも、会いたいと思ってない」
 そう答えた美月は、やはりどこか苦しそうな表情をしていた。
「それはいいんだ。みいがそれを望むのは当たり前のことだろ。それに、みいのお母さんの話には、何かきっと事情があるはずだ。だから、あんまり思い詰めるな」
 笑顔を向けて、そう言い聞かせた。
「田邊の事も、みいのお母さんの事も。しばらく俺たちに任せて、今は身体を治すことを考えろ。皆に悪い事をしたって思ってるなら、それが功さんや俺や、みいが申し訳ないって思ってる人たちに対するお詫びになるって思って」
「……うん」
「それから」
 少し意識して、明るく言った。
「藍ちゃんが心配でたまらないからお見舞いに来たいって言ってる。呼んであげて構わないか?」
 美月もやっと、本当の笑顔を見せて頷いた。

***

 それぞれが物思いに耽っている車内は、いつしかエンジン音以外は殆ど何も聞こえなくなっていた。
 淳也の脳裏に、さっき見た美月によく似た彼女の母の写真が浮かぶ。
 もう会えないのだと、今の美月に告げることなど、できる訳がなかった。
 ――お母さんにも、会いたいと思ってない
 そう口にした時の美月の表情を思い出し、遣る瀬無い気持ちと怒りが込み上げる。淳也は吐き出したい気持ちを抑え込むように、窓の外、揺らめく灯りを見つめていた瞳を硬く閉ざした。


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