本編《Feb》

第二章 上弦の月2



「最低だ……そいつら、みんな狂ってる」
 強く握り締めた淳也の手は、怒りを表すように震えていた。まだどこか信じたくないとでもいうように、泣きそうな顔で父親を見つめている。
「そういう人間もいるっていうことだ」
 功は、そう静かに呟いた。
 息子から功へと視線を移して、香川が、眉間の皺を更に深くするように顔を顰める。
「美月の母親について、ですが……。少し記憶は曖昧なようではありましたが、久慈が子どもを遺棄したという頃と時期を同じくして、その病院で一人の若い女性が亡くなっています」
 功は目を閉じ、淳也は息を飲んだ。
「それは……よくできた偶然じゃないのか?」
 そうではないとわかっていながら、そう聞かずにはおれなかった。
「そう……ですね。残念ながら恐らくは。死亡診断書によれば、女性の死亡原因は腹部大動脈瘤の破裂です。症状を訴え夜間に来院した直後、緊急手術を行ったが結果、死亡した。妊娠や出産に関する記録は全くありません。死亡診断書を記載しているのは……院長です」
「その女性が……」
「ええ、美月の母親でしょう」

 部屋の中を、これまで以上に重い沈黙が支配した。
「女性の死亡原因が本当は何だったのかは、今では調べようがありません。産科の受診履歴もありませんでした。ただ、彼女には病院との接点がありました。亡くなる一年前までの約一年間、その病院で看護師の勉強をしながら働いていた。久慈に女性について尋ねたところ、すぐには思い出せなかった程、影の薄い女性だったようです。思い出した時、久慈はとても驚いていました。非常に大人しく勉強熱心なまじめな人で、とても院長の……愛人になるようなタイプの女性ではなかったと。病気の母親の面倒をみるために、働いてお金を仕送りしていて、他の職員と遊びに行く事も殆どなかったといいます」
「何か、他にもその人が美月の母親だと決定付ける証拠はないのか」
 功の問いかけに、香川が一つの報告書を指し示した。
「それを、見てください。女性について調べた報告書です」
 功が報告書を手に取り、それを開く。文字を追うより先に、そこに貼り付けられた写真に目が止まった。
 視線がそこに吸い寄せられると共に、息が止まりそうになった。
「よく、似ているでしょう」
 今の美月とほとんど変わらない、セーラー服を着た高校生くらいの女性が、はにかんだ笑みを見せている写真だった。
 色の白い美しい少女だった。
「……ああ」
「身内が殆どいなかったので、写真も大方のものは処分されていたようで、調査をした者が、彼女の同級生から何とか入手したとのことです」
 横から覗き込んだ淳也に写真を示すと、淳也も小さく息を呑んだ。
 そこに写る人が美月の母親であることを、その写真が何よりも如実に物語っていた。

「この事実に辿り着いた時、私はこのことを美月に聞かせたくはないと考えました。どんな事実でも知りたいと、本人ならそう思うかもしれません。ですが私には……こんな真実なら、知らないほうが美月にとっては幸せなのではないかと」
「それだけか?」
 功の鋭い口調に、淳也が戸惑ったように声をあげる。
「功さん、それだけって、どういう意味ですか」
 すぐに質問の意図を汲み取ったのだろう、香川は苦笑いを浮かべた。
「もちろん、二条家にスキャンダルを持ち込むわけにはいかない、という理由を否定するつもりもありません」
「父さん」
「ですが、私だって美月の事が可愛い。その気持ちに嘘はないのです。あなたなら――」
 香川が笑みを消し、真っ直ぐに功を見つめた。
「あなたなら、あの子に話せますか?」
 功は黙って、香川を見つめ返した。
「……いや」
「俺も聞かせたくない、こんなひどい話。みいの母親はもう死んでる……しかも、殺されたかもしれないなんて」
 淳也が固い声で言った。
「ですから、私はあの女に知っている事実全てを話すこと、以後は誰にも決して口外しないことを約束させるのと引き換えに、お金を渡しました。彼女を警察に突き出せば、美月の事が公になり、あの子が真実を更に歪んだ形で知ることになり兼ねません。下手にマスコミに面白おかしく取り上げられれば、傷付くのは美月です。久慈は、月日も経ったせいか真相を話す事にはそれほど躊躇いはありませんでした。ああいうタイプはいくらお金を渡したところで、結局は自滅していく。二度はありません。彼女は二度とこちらや美月には関わらないと約束しています。いずれかの約束事を破れば、次は警察に行くことになる。そのための罪も材料も証拠も、全て揃えています」
「金を、渡す必要はあったのか?」
「利用できるものは何であろうと利用します。どんな手段であっても、それが事実を聞きだすのに有効な手段であれば。それに、こちらにとってこの程度はたいした金額ではありません」
 父親の返答に、淳也が複雑な表情を浮かべている。
 香川は、久慈の話を打ち切ると、功が手にした報告書を見つめた。
「その報告書に纏められた美月の母親、矢萩望さんの一生は、とても短いものです。読んで頂くのも、そう時間を要しません。いずれにせよ、望さんの娘だといって美月を引き合わせられるような身内は、今はもう誰もおりませんでした」
 その言葉を聞きながら、功は机に置かれた報告書に視線を落とす。 
 ほんの二、三枚程度の紙に纏められた美月の母の一生。たった数分で読めてしまえるその人の人生を思うと、何も言葉が浮かばなかった。
 手にした報告書をしばらく無言で見るともなく眺めていた功は、ある名前が目に入り手を止めた。
 ――田邊総合病院 院長 田邊博一
「田邊……」
「え?」
 そこに記されていたのは、美月の父親と思われる人物の名前だった。
「香川、その病院っていうのは、田邊総合病院のことなのか」
 功は気色ばんで問いかけ、淳也が驚愕に目を見開いた。功の手元から報告書を奪うと、その名を探すように紙を捲る。
「ええ、そうです。報告書に記載の通りです。田邊院長と美月の間の親子関係はこちらで極秘に調査しました。間違いなく、美月と彼は親子です」


 香川の部屋を後にした功と淳也は、しばらく言葉を発する事はなかった。
 地下の駐車場まで下り、停めていた車の運転席に功が乗り込むと、助手席に淳也が座るのを待って、エンジンをかける。
 淳也が、助手席で大きな溜息を吐いた。
「まさか……こんな話を聞かされるなんて」
「ああ」
「功さん、みいのお母さんの写真。どうするつもりですか」
 功は香川から、矢萩望の写真を一枚だけ受け取っていた。
「母親が見つかったんだ。今すぐは無理でも、いつかは、母親に捨てられたんじゃないって事だけでも教えてやりたい。ただし全てを終えてからだ。今はまだ、それを考える時じゃない」
 エンジンオイルの循環を待って、ゆっくりと車を発進させる。
「田邊は、知ってるんでしょうか」
「偶然にしてはできすぎだとは思うが……。そういえば淳也、今日田邊は?」
「藍ちゃんの報告では、学校へは来ていないようです」
「そうか。じゃあ、明日できるだけ早いうちに理事長とアポをとっておいて」
「理事長とですか? いったい何のために」
「まずはあいつを学園から遠ざける」
「どうやって」
 功はアームレストを軽く叩いた。
「中に康人と調べた資料がある。あいつの学園以外での顔だ」
 淳也がコンソールボックスから取り出した資料に目を通すのを横目で確認しながら、その内容を口にする。
「田邊が常連となってるクラブには、相当やばい噂がある」
「そう、みたいですね。違法薬物の取り引きって、この店……」
「恐らくその筋とも繋がりはあるだろうな。もちろん薬の売買だけじゃない。店の奥には常連客でもVIP待遇の客だけが入れる部屋があって、どうやらそこにレイプドラッグを用いて客の女性を連れ込み、行為に及ぶ様子を隠しカメラで撮影して、裏に流したり脅迫に使ったりもしてるようだ」
「……田邊がそれに関わってるってことですか」
「奴は恐らく客としてじゃなく、寧ろ運営側として加担しているんだろう。表立ってあいつの名前が出てくる事はないが、裏に存在が見え隠れしてる」
「大した生徒会長ですね」
「あいつがどこで何をしようと、どうだっていい。美月にさえ関わらなければ」
「――凶暴性?」
 資料を目で追っているのだろう淳也が、問うような声色でその言葉を読み上げる。
「普段は非常に穏やかで温厚。凶暴とは対極にいるようなタイプに見えるが、数少ない目撃者の話によれば、切れると何をするか分からない怖さがあるらしい。特に暴力沙汰になった時の報復が凄まじい。だからそれを知る者はあの男に手出しはしない、って噂だ」

 車は、再び功のマンションに向かっていた。それに気づいた淳也は、助手席で何かを言おうとして躊躇っているようだった。
「功さん……屋敷へは、戻らないんですか」
 やがて思い切ったのだろうそう問い掛けた淳也に、功は視線だけで答えを返す。
「……すみません」
 屋敷に戻らない理由を本当はわかっている淳也のその謝罪を受け流して、功は逆に問いを返した。
「和美の方は、どうだった」
「とりあえずは、みいに好意を持った学生が振られた腹いせに手を出したのだと。みいの前では、母にそう説明しました。まあ、すぐに父から事実を聞く事になるでしょうし、もちろん俺のその話にも全く納得はしてませんでしたが」
 そりゃそうだろうな――と、功は苦笑いする。なにせ相手は和美だ。
「けど、美月が頑なに警察沙汰にはしないで欲しいと言ってましたし、先生もその意向に添って話をされていました」
 功は化粧気のない地味な身なりの、患者に誠実そうな倉知の顔を思い浮かべた。


タイトルとURLをコピーしました