本編《Feb》

第二章 上弦の月1



「どうぞ」
 ノックの音に応じるその声を聞いてから、扉を開けて部屋に入る。
 二条ホールディングス本社の役員室の一つ、そこが今夜香川から指定された場所だった。
 功は淳也を伴い、約束の時間である夜10時の少し前にその部屋を訪れていた。
 示されたソファーに功が腰を下ろすと、淳也がその後ろに立つ。香川が向かい側に腰を下ろすのを待って、すぐに本題を切り出した。

「美月の本当の母親だと名乗る女性に、お金を渡したのか」
 予め用件のあらましを淳也から伝えていたため、早々に話を切り出した功に対し、香川も答える準備は整っている様子だった。
「そういう女性にお金を渡した事は、事実です」
 後ろで淳也が息を飲む気配がした。
「ただ、あの女性は美月の本当の母親ではありません。これが――」
 そう言うと、調査会社の報告書が功に向けて差し出される。
「DNA鑑定の結果です」
 ファイルを手に取り開くと、様々な数字が列記された最後に『母性確率 0%』と記されている。功は、その下『母親と思われる者』の欄に記載のある名前を、香川に指し示した。
「久慈芳江……これがその女の名前?」
「そうです」
「母親でもない人間に、どういう理由でお金を渡した? この女が言ってたように、知り合いに頼まれたというのが本当の話だったのか」
「知り合いに頼まれた、ですか……。私の方では、そういった話は聞いていません。私が彼女と会って話をした時には、自分が母親だと名乗っていました」
 功は、香川の表情の変化を見逃さないようにと、少しだけ目線を上げた。
「女がDNA鑑定を承諾したのか? 母親でもないのに」
「初めは母親だとそう言っていましたが、彼女の話には辻褄が合わない点がいくつもありました。そういった矛盾を突くと、本当は母親などではないのだと簡単に白状しました。親子鑑定は、私の判断で念のために行ったものです」
「随分とあっけなく自分の発言を覆したんだな」
「ええまあ……小切手を見せましたから。女がお金に困っていることは、一度目に会った直後に素行調査を行い、すぐに分かりました。そもそも最初にここに現れた時から、どちらかといえば目的はお金なのだろうことは見て取れましたし」
「ここに現れた? こちらから呼んだ訳じゃないのか」
「いえ。そういったことは」
「美月がいた施設の園長から、女が園を訪ねてきたという連絡があったはずだ。その後に調べて呼び出したんじゃないのか」
「いいえ、違います」
「その時点ではまだ、女が美月の母親の可能性もあった筈だ。なのに、何故調べなかった」
 つい責めるような口調になる功を見つめて、香川がほんの少し怪訝そうな表情を浮かべた。
「待って下さい。話になにか食い違いがありますね。園長からそういった連絡は確かにありましたが、この女――久慈芳江は、園長からの連絡の直後、こちらが調査を始める前に自らここにやってきたんです」
「ここに?」
「ええ、この会社に」
「じゃあ、園長がここを教えたということか?」
「いえ、それはあり得ません。どうも、美月を知っている施設の子どもに聞いたようなことを言っていました」
 香川も何か腑に落ちない点があるのか、難しい顔をして答えた。
「なぜ子どもが知ってる? 手を打っていたんじゃないのか」
「もちろん、園とうちとの繋がりを知っている者は極一部に限られています。口外しないという約束も取り付けていますし、子どもに知られているとは本来考えられないことではあるのですが……」
「じゃあどうして」
「美月と変わらない年頃の学生だったと聞いていますから、もしかしたら美月が、出て行く前に話していたのかとも――」

「約束させただろっ」
 黙って聞いていた淳也が、突然口を挿んだ。眉根を寄せた香川が、息子へと顔を向ける。
「どういう意味だ?」
「誰にも話すなって。ここに居たことは忘れろって。まだたった小学一年生のみいに、そう約束させたんだろ」
 視線を外した香川の顔に、微かに苦渋の表情が浮かぶ。
「そういう約束を、みいは簡単に破ったりしない。あいつが話す事はありえない。父さんだって知ってるはずだろ」
「ああ、だが……」
「……香川、美月と変わらない年頃の学生と言ったか」
「はい」
「男の学生だと言っていなかったか」
「功さん」
 淳也が功の肩を掴んだ。功は淳也の顔を見上げて少し頷く。
「父さんっ、どうだった」
 どうでしょうか、としばらく考えていた香川は、やがて何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば……綺麗な顔をした男の子に話しかけられたと、そう言っていたような気がします」
「あいつ……」
 淳也が口にする。功も、香川との話が噛み合わなかった理由に合点がいった。
「そういう、ことか」
「あいつ、いったいどういうつもりで」
 ひとり話が見えていない香川だけが、物問いたげに二人を見ている。

 功は香川に、今日自分たちがここにやってきた本当の理由を詳細に話した。さすがの香川も、美月が恐らくその男子学生に暴行され怪我を負ったという話を聞いて顔色を変えた。
「そんな事が……。私は確かに、美月に母親の事は忘れるようにと約束させました。だがそれは、奥様が亡くなった今となっては殆ど意味のない約束になっています。今回の事も、調査の結果もし久慈芳江が本当の母親ということがわかれば、美月に話すつもりではいたのです。まさかその前に……美月がそんな形でこの話を耳にするなんて」
「母親じゃなかったとしても、その久慈って女はみいの母親の事を知ってたんじゃないのか? だったらせめて――」
 息子の顔を厳しい視線で見つめた香川は、淳也が言い掛けた言葉を遮るときっぱりと告げた。
「真実を、美月に伝えるつもりはない」

「……どういう、ことだよ」
「香川、どういう意味だ」
 口元に手をやり、眉間に皺を寄せて目を閉じた香川は、しばらくの沈黙の後、意を決したように目を開けた。
「これからお話しする事は、時が来るまで、美月の耳には絶対に入れないと約束できますか」
 まっすぐに功の目を見て香川が問いかける。
「それは、美月のために、なのか?」
「そうです」
 強い声色や表情から、それが話を聞く上の絶対的な条件なのだとわかる。本心から美月のことを思っての判断だということも。
「わかった。お前に何も言わずに、美月に話す事はしない。その代わり、全て隠さずに話して欲しい」
 功の答えに、香川は静かに頷いた。
「確かにあの久慈という女は、美月の両親を知っていました。両親どころか、美月を……生まれたばかりのあの子を、山中に遺棄したのはあの女です」
 功と淳也は息を呑んだ。
「……本当なのか?」
 それから香川が語り始めた話に、功も淳也も、途中何度も怒りがこみ上げた。それは、ひどく重苦しく、絶望的な気分になる話だった。
 久慈芳江という女が金に釣られて漏らした話と、裏付け調査により新たに判明した事実からわかったこと。
 それは――恐らく美月は、ある大きな病院の院長と、若い愛人との間に出来た隠し子だということだった。
 ただし出生記録も、母親が産科を受診した記録も残されてはいない。記録上、美月は存在しない子どもだったのだ。

 久慈の話によると、父親と思われる病院の院長は婿養子で、病院は妻の実家が経営するものだったという。院長は、恐妻家で非常に小心者だったとも、語っていたらしい。
 その妻であり、病院の副院長でもあった夫人は、病的に嫉妬深くきつい性格で、その激しい気性は病院で働く者の間では周知のことだった。
 久慈は、かつてその病院で事務職員として働いていた。
 院長が、妻に知られることを恐れ愛人との間に出来た子を始末をさせようとしていたのか、それに抵抗した愛人が、妻に発覚することを避けるために、病院にも行かず一人で子どもを産もうとしていたのかは、定かでない。
 夫人は以前にも、夫が妊娠させた外の女に多額の金を払い堕胎させたことがある、という噂は院内では周知の事実だったという。
「夫人の逆鱗に触れれば、確実に始末させられます。とにかくどうやって隠し果せたのか、今度の子どもは、少なくともこの世に生を受けることはできた。できは、したのですが……」
 ひとつ深く息を吐いて、香川は話を続けた。
「恐らくですが久慈は、その子どもの始末を頼まれたのではないかと。久慈の推測も含んでの話ではありましたが、概ねそんなところでしょう」
「それじゃあ……」
 茫然としたような淳也の呟きを受けて、功は香川を見つめた。
「その子が……美月なんだな」

 ギャンブルで多額の借金を抱えていた久慈は、この頃、既に首が回らない状況になっていた。病院にまで取り立ての電話が入り、いよいよ追い詰められた彼女は、当時就いていた経理業務を利用し、病院の金にまで手を付けていた。
 ある日の深夜、突然院長の自宅に呼び出された久慈は、いよいよ不正が明るみになり解雇されるか、警察に突き出されるに違いないと震え上がりながら、指定された時刻に院長宅を訪れた。
 そこで、借金を全て返しても有り余る金額の提示と、横領には目を瞑るという約束と引き換えに、夫人が出した条件――。
 いやも応もなく飛びつくように承諾したそれは、荷物が入ったボストンバッグの処分だった。
「――何も聞かずに、どこか遠く、人に絶対に見つかる事がないような場所に埋めてくるようにと。夫人は、高額の現金と共にそのバッグを久慈に渡したといいます。バッグの中身については、誰も存在を知らないものだから危険はない、何があっても見てはならないと言われたと。しかし結局、捨て場所を探している途中、中から猫が鳴くようなか細い声が聞こえて、久慈は思わずバッグを開けてしまったそうです。そこに……」
 功と淳也の顔に、苦痛の色が浮かぶ。
「恐ろしくなった久慈は、とにかくこの子を少しでも早くどこかに捨ててしまわなければ、とそれだけを考えたと言っていました」
「何でっ、助けてやろうとか思わないんだよ。……赤ちゃん、だろ」
 淳也が呆然と呟いた。
 久慈にとっての選択肢は、少なくとも三つあった。見ず知らずの第三者に子どもを託す、警察に行く、そして黙って共犯者になる。関わりを追求されることを恐れた久慈は、迷わず共犯者になる道を選んだ。
「地の利がある地元に戻り、山中にその子ども――つまりはまだ生まれたばかりの赤子を遺棄したのだと、彼女は話しました。ただ、埋めることは流石にできず、最後にバッグの中から出してあげたのだ……と。その後、久慈は病院には戻らず、借金を返しても十分に手元に残った金であちこちを転々としながら暮らしていたようです」
「……それにしても、奴らは、第三者を関与させる危険を何故あえて?」
「自ら手を下すことには流石に抵抗があったのか、単に面倒事は他人に任せてしまえと思っていたのか……。久慈が警察に駆け込めば全て終わりな訳ですから、深く考えればそんなリスクは冒さないでしょう。彼らのやり方は、ある意味非常に衝動的で杜撰だった事は否めません。たまたま、全てが上手く行ったに過ぎなかったのでしょう」
香川は少し言葉を止め、二人を交互に見遣った。

 病院を辞めて姿を隠した久慈は、それから十年以上の月日も経ち恐怖心が風化したのだろう、地元へと戻り、相変わらずギャンブル三昧の暮らしを送っていた。そうして借金がまた嵩んできた時、ふとした思い付きから、自分が捨てた子どもが生きている可能性を突き止めた。
「彼女は、これを何らかの形で利用すればお金になると踏んだのでしょう。例えば、院長夫妻を強請る事も考えられるでしょうし、子どもを直接利用することも考えたのかもしれません」

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