本編《Feb》

第二章 三日月10



 誰かに名前を呼ばれた気がした。
 ――芙美夏
 と。

 目が覚めると部屋の中には、昨夜美月を診察した女性の医師がおり、ベッドサイドで脈を取っていた。
「私のことがわかりますか?」
 目を開いた事に気が付いた医師が、優しく微笑みながら問うてくる。
「はい、倉知先生」
「良かった。覚えていてくれたのね」
 そう言いながらも、手や瞳は休むことなく美月を診察していく。倉知は、昨夜診察の時に美月に問いかけた事を、もう一度重ねて確かめるように丁寧に質問した。
「傷口を見たいから、パジャマを脱がせるわね」
 言われて初めて、いつのまか着替えさせられていたことに気が付く。
「これ、着替え……先生が?」
 パジャマの上着を傷に触れないように丁寧に脱がせた倉知は、美月の鎖骨辺りをじっと見つめて何とも言いようのない表情を浮かべた。
「私じゃないわ。多分ずっとあなたに付き添っていた二条さんでしょうね。夕べはかなり発熱したって言ってたから」
 美月は自分の熱がまた上がったような気がして、笑みを浮かべた倉知から目を逸らした。
 そう言われてみれば、寝惚けていて夢か現実か曖昧だったが、この部屋まで運んでくれたのも多分功だった。
「彼……あなたをとても大切に思ってるのね」
 その言葉に思わず顔を上げた。
「誰よりも大事な人だって、そう言ってたわ」
 目を見開き、倉知の顔を見つめる。動揺の余り返すべき言葉を一瞬失った。
「……うそ」
 思わず白衣の袖を掴んでしまった美月の手に、温かな手のひらが重なる。
「あなたの気持ちが一番大事だけど。あなたの受けた恐怖や傷跡が、彼の……誰かの存在で少しでも癒されればって思うわ」
 そう言って倉知は再び診察を再開したが、美月はただ戸惑っていた。
 きっと先生の聞き違いだ。そうでなければ先生を納得させるためにそういう言葉を選んだに過ぎない。きっとそうだ――。
 何度も何度も、自分にそう言い聞かせなければならなかった。都合のいい勘違いをするな、と。

 薬の説明とこれからの診察についていくつか確認した後、倉知は最後にもう一度、警察に届けるつもりは本当にないのかと、美月に確かめた。
 それだけは、強く拒否する。
 何か言いたげな表情を浮かべた倉知は、けれど黙って頷くと、その日の診察を終えた。  
 部屋を出て行こうとする倉知を目で追いながら、ベッドサイドのテーブルが視界に入る。そこに、美月が説明を受けていない白い布袋が置かれていた。
「先生」
 声を掛けて呼び止め、この袋は何の薬かと聞いてみる。振り返った倉知は、怪訝な表情で首を僅かに傾けた。
「それは、確か始めからそこに置いてあった筈だけど」
 
 お大事に――と、倉知が部屋を出て行ってから、美月はサイドテーブルに手を伸ばして、白い巾着のようなその袋を取り上げた。
 光沢のあるシルク様の布の中身を確かめるように軽く押すと、柔らかいが押し戻す様な感覚もある。不思議に思いながら、袋を開けてみた。
 取り出す前に中を覗き込んで、息を呑む。
「……どうして」
 手を入れて取り出す指先が、震えてしまう。それは、美月が由梨江の棺に入れたはずの、熊の形をしたポーチだった。
 あの時もうボロボロになっていたそれは、貰ったばかりの頃のように美しく毛並みが整い、瞳が取れていた箇所にも、新たに綺麗な黒いガラスが縫い付けられている。
 美月は、息を止めて恐る恐るポーチを裏返してみた。これがあのポーチなら、裏側に「美月」の名前のローマ字の刺繍が入っているはずだった。
 けれど、裏返したそこに、美月の名前はなかった。震える指を伸ばして、壊れものに触れるようにそっと、同じ箇所に縫い付けられた文字をなぞる。植物の蔓のように美しく装飾された刺繍の文字は、『FUMIKA』という名前を刻んでいた。
 呼吸も、瞬きすらも忘れてその文字を見つめるうちに、美月は、さっきの倉知の言葉を思い出し、胸が苦しくてたまらなくなった。
「……功さん」
 ポーチを胸に押し当てると、搾り出すような小さな声で、その名を呼んだ。

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